2006年10月20日 はじめに
ホテルも交通機関も一切予約せずに、気の向くままに1人で行く旅が理想的だと、68歳になった今も思っているが、時間も金も節約しなければならない環境においては、そのような旅はなかなかできそうにない。 昔一人で訪れたことがあり又仕事で滞在したことがあるヨーロッパを、妻にも見せたいと思い計画を立てた。 少しでも私の理想に近い形の旅をするために、旅行会社の世話にはならず、すべてのホテル・バス・船・コンサート・宮殿の入場券に至るまで、自らの好みに合わせて直接現地にインターネットで予約をした。 航空券は『ルフトハンザドイツ航空日本支社』から格安の電子チケットを、鉄道の周遊券は『地球の歩き方・旅プラザ』からインターネットで購入した。 ドイツ鉄道(DB)の公式サイトにアクセスすると時刻表検索の画面があり、路線・列車・発着時刻・乗換え・停車駅等を、より詳細に或いは浅く広くなど必要に応じて系統的に検索できるようになっている。 ドイツ国内だけでなくオーストリア国鉄の路線もDBのサイトで検索することができた。 日本のJRの検索サイトもこれを手本にしたら良いと思う。 この時刻表で、鉄道での移動区間の旅程を第1案から3案くらいまでに絞った。 列車のルートと時刻を固定すると旅の自由度が狭くなるため、列車の予約はせず必要に応じて現地で行うことにした。 その代わり周遊券は1等を購入した。 1等と2等の料金の差額は20%弱で、1等の切符を持っていれば1等にも2等にも乗車できるので、混んでいるとき席が確保しやすくなると考えたからである。 ヨーロッパの鉄道パス(周遊券)は、ヨーロッパ22ヶ国の中から旅行する国を自由に選ぶことができ、使い始めた日から2ヶ月間に鉄道を利用する日を自由に決められるので便利である。 私たちの場合ユーレール・ドイツオーストリアパス・セイバー(Eurail Germany-Austria Pass Saver)の5日間有効・2名・1等というタイプを購入した。 ドイツとオーストリアで2ヶ月間内の5日間を自由に選んで使えるというパスで、2人一緒に旅行する条件で割引料金となっている。 個人旅行ではホテルの選択が最も難しい。 5つ星の一流ホテルはビジネスには便利であるが、個人旅行には向かないと私は思っている。 旅の宿は静かで清潔なゆったりと寛げる部屋があれば充分であり、豪華なレストランやプール・フィットネスセンター・ビジネスセンターなどは不要である。 豪華な設備がたくさん付いていても、使わなければ宿泊料金も食事代も割高になるだけでメリットは全く無い。 観光客が少ないと思われる比較的部屋数の少ない4つ星クラスを対象にホテルを選択した。 ホテルのウェブサイトを見ると、部屋の写真や最近の改修履歴なども載っているので参考になった。 ヨーロッパ特に今回訪れたドイツやオーストリアには希望にかなったホテルがたくさんあり、従業員も親切で料金も2人1泊20,000円前後で充分満足できた。 今回の旅行は公共の交通機関を乗り継ぎ、できるだけ歩くことを目標にしているため手荷物は最小限に抑え、私は小型のソフトキャリーケースと小さなバックパック(リュックサック)、妻は更に小型の機内持ち込み可能なソフトキャリーケースだけとし、自分達で持ち運べる量に制限した。 それでも列車やエスカレーターの乗り降りは一苦労だった。 ヨーロッパのプラットフォームは田舎に行くほど低くなり、デッキの梯子を荷物を持ってよじ登ることになる。 又列車との間隔も広い。 この点に関してだけは、高さも同じで隙間も小さいJRの方が良い。 ドイツやオーストリアのエスカレーターは、ハンガリーほどではないにしても日本のものに比べるとかなり早く、左手でカートを引き右手で手摺を持ちながらエスカレーターの左側を空けて右側に立つのは妻にはなかなか大変な様子であった。 エスカレーターの左側は急いでいる人のために空けておく規則になっているから、通路を占領していると注意を受けるからである。 5月25日(木) 中部国際空港は旅行者にとって非常に分かりやすく、世界中の空港と比較しても大変良い空港だと思う。 インターネットで購入した電子チケットは航空会社のコンピュータの中に登録されており、従来のような航空券は存在しない。 購入したときパソコンの画面を印刷しておき、チェックインのときに提示すればよい。 このシステムはヨーロッパの交通機関や、その他あらゆるチケットの予約や購入に利用されており非常に便利だ。 中部国際空港発10:25のフランクフルト行きLH737に乗った。 機内はほぼ満席であったが、エアバスA330エコノミークラスの座席配置は2+4+2なので、2人で旅行するときは隣席に気兼ねすることなく窓際の2席をゆったり使えるのが良い。 これも航空券購入のとき、トイレや食事の準備室から遠い希望の席をウェブページの座席表から自由に選ぶことができる。 団体旅行や旅行社に予約を依頼する場合は、余程空席が多くない限り希望通りにはならない。 心臓病の血管拡張剤を服用しているため、気圧の低い機内で酒を飲むと酔いが早く脳貧血になることがあるのでアルコールを控えなければならないのが辛い。 エコノミー症候群予防のため、妻と代わる代わる機内を散歩し水分を多めに取りながら12時間余りのフライトの後、予定通り15時40分(現地時間)にフランクフルト空港に到着した。 約2ヶ月前にドイツのリンダウ(スイスとオーストリアの国境に近いボーデン湖に面した美しい町)に出張したときも今回と同じルートであった。 空港内のDBのオフィスに立ち寄り、ユーレールパス(鉄道周遊券)のヴァリデート(使用者のパスポート番号を記入し、使用開始日のスタンプを押してもらう)を済ませ、飲料水と若干の食料を購入してヴィースバーデン行きの列車に乗った。 車内で念のために近くにいた若い女性にマインツに停車するかを聞くと、「マインツ中央駅ですか」と聞き返された。 ドイツでは同じ街に駅がいくつもあるので、中央とか南とか北とか言わないといけないことを思い出した。 下車駅マインツ中央駅には約15分ほどで着いた。 到着するとその女性も微笑んで合図してくれて、自分もそこで下車した。 ドイツの列車は停車しても自動でドアは開かない。 降りるときは自分でドアを開けるボタンを押さなければならない。 ローカル線の旧式の車両はレバーを強く引いて更にドアを押さなければならない。 乗車するときも降りる人がいないときは自動的にドアは開かないので、ドアの近くのボタンを押す必要がある。 ホテルまでは約1.5kmあるのでタクシーを拾った。 ホテルは明日のライン川クルーズの船着場に近いマインツ・ヒルトンにした。 ホテルで周辺の地図をもらい下検分も兼ねて船着場まで散歩に出かけた。 マインツはライン川とマイン川の合流点にあり、ドイツで三本の指に入る大聖堂や印刷機で有名なグーテンベルク博物館があるが、すでに午後5時を過ぎており見学できないのは残念であった。 しかしこれも予定の内で、ここでもう1泊というわけには行かなかった。 5月26日(金) 船内は観光客でほぼ満員でドイツ人が多い。 対面テーブルでビールやコーヒーを飲み、食事をしながらのクルーズである。 幸い進行方向右側の窓際のテーブルが取れたので、移り変わる岸辺の風景を楽しんだ。 船は右側通行であるが、右岸・左岸に点在する町の船着場に寄港しながら進んだ。 ライン川はスイスに源を発し、フランスとドイツの国境を流れてオランダのロッテルダムで北海に注いでいる。 ドイツの父なる川といわれ、マインツからボンを経てケルンまでこの船で行ける。 私たちは最も見所の多いコブレンツまで乗ることにした。 ラインの岸には上流のスイスの街バーゼルからの距離が示されており、マインツが500kmローレライは554と555の間にある。 両岸にはブドウ畑が続き小さな町が点在していた。 丘の上や中洲には大小の古城が幾つも見えた。 デッキに出てみたが雨が強く風が冷たかったので直ぐに船室に引き上げた。 ライン川に沿って、左岸にはケルンに向かう鉄道の幹線が、右岸にはローカル線が平行して走っている。 幹線には100両もあろうかと思われる長い貨物列車が、ベンツの乗用車ばかりを積んだもの、石油タンクだけのもの、コンテナばかりのものなど頻繁に走っており、国内物流の90%をトラック輸送に頼っている日本とは異なり、ドイツは鉄道輸送を重視していることがうかがわれた。 1970年に来たときは晴天に恵まれ、デッキでワインを片手にすれ違う観光船に手を振ったりして船旅を楽しんだことを思い出した。 ローレライに差し掛かる頃、ローレライの曲が船内に流れ皆が合唱した。 『妖精の岩』は右岸にあり一瞬のうちに通り過ぎた。 この辺りは川幅が狭く急流といわれているが、木曽川のライン下りと比べると川幅は広くてとても急流とは思えない。 しかし岸から2・30mの川面にはブイが並べてあり、これより岸に近づくと岩礁があることを示しているらしい。 午後2時10分ほぼ予定通りコブレンツに着いた。 コブレンツの船着場は木が多く茂っており乗り継ぎの観光バスを待つ人々が雨宿りをしていた。 支流の母なるモーゼル川が父なるライン川に合流するドイチェス・エックと呼ばれる地点が近くにあり、見に行く予定であったが雨が強くなってきたので止めにした。 近くにKDのチケット小屋があったので、タクシーを呼んでもらいコブレンツ中央駅に向かった。 案内所でもないのにこちらが困っているのが分かると、チケット売り場の中年の女性は嫌な顔一つ見せず快く電話をかけてくれた。 コブレンツ中央駅も石造りの重厚な造りで、多分歴史的な建物に違いないと思った。 ホームに出ると自転車を引いた人達が、自転車のマークが入った車両に乗り込んでいるのが見られた。 時刻表にも自転車輸送可と記載されている。 コブレンツからハイデルベルク行きのインターシティー(都市間特急)IC2115(コブレンツ15:48発・ハイデルベルク17:34着)に乗った。 列車は船で下った方向とは逆に、ライン川に沿ってマインツの方向に戻ることになる。 車内は空いておりライン川が見える進行方向左側の席を取った。 しばらくすると左手にローレライが見え一瞬のうちに通過した。 列車はマインツに停車しハイデルベルクに到着した。 ハイデルベルク大学(1386年創立)の学生歌『アルトハイデルベルク』 古きハイデルベルク 美しいお前よ 幸せに満ちあふれた仲間の町よ 旧ユーゴスラビア(現在のボスニアヘルツェゴビナ)にいた頃、1970年7月に5日間ほどドイツ旅行をしたことがありハイデルベルクにも立ち寄った。 そのとき記念に買った、ネッカー川にかかるカールテオドール橋とハイデルベルク城の写真が入った、白樺の木の小さな壁掛けが35年間も我が家の壁にかかっているので、家族にとってこの町は見慣れた風景になっていた。 今回の旅の宿はこの橋のたもとにあるホテル・ホレンダーホーフにした。 ホテルの窓からはネッカー川の流れとこの橋を一望することができた。 カールテオドール橋の正式名はアルテ・ブリュッケ(古い橋)と言うらしい。 左岸(旧市街)から2番目の橋脚にはこの橋の建造主であるカールテオドールの石像が、7番目の橋脚にはハイデルベルクの守護神(英知の女神)パッラス・アテーナ(ギリシャ神話のアテナ・ゼウスの娘)の像を見られるはずであったが、あいにくどちらの像も修理中のためシートで覆われていた。 18世紀の末に造られたこの橋も幾度かの洪水によって流されたり、第2次世界大戦中ドイツ軍自らの手によって破壊されたりして、現存する橋は9代目である。 5月27日(土) この道沿いに土地を持っている人たちがいるらしく、休日で畑の手入れに来ていた人が花壇を見せてくれた。 「この景色を見ながら花の手入れをするのは楽しいよ。」と言っていた。 帰りはシュランゲン小道という薄暗い石畳と階段の、細い急な坂道をカールテオドール橋まで降りて町に戻った。 マルクト広場に戻りハイデルベルク城へのケーブルカー乗り場を探しているうちに、徒歩で上る道に入ってしまいそのまま城まで上ることになった。 城は多くの建物が入り組んで造られており、それが破壊されているので非常に複雑で元の形は想像することができない。 哲学者の道からの眺めとは反対に、城からの眺めも又すばらしかった。 ホテルに預けた荷物を受け取り、昼12時過ぎにハイデルベルク駅に戻った。 ハイデルベルク駅はガラス張りの近代建築だった。 12:47発フランクフルト行き都市間特急IC2390は空いており、6人がけのコンパートメントを2人で占領して足を投げ出しおやつを食べながら疲れを癒した。 フランクフルトまで約1時間、フランクフルトからウィーン西駅行きの国際都市間特急EC23に乗換えヴュルツブルクまで約1時間10分、そこで又乗換えシュタイナッハまでローカル線RB34923で約45分、更にローカル線RB35271に乗換え約15分で今日の最終目的地ローテンブルクに16:50に到着した。 途中一面の菜の花畑が美しかった。 駅で飲料水などを買いホテルまで数百メートルを歩く予定であったが、今日は朝から7−8キロは歩いたのでタクシーにした。 ホテルはローテンブルクの城壁のほぼ中央、マルクス塔の近くにあるロマンティックホテル・マルクストゥルム。 内装は中世の建物の一部がそのまま使ってあり、歴史的な調度品が展示してあった。 客室はドイツらしく清潔で快適だった。 窓からは古い街並みと家々の木材の枠組みに漆喰で固められた壁と、小判型の赤い日干し煉瓦の瓦屋根が見えた。
5月28日(日) 街の西側にあるブルク門から一旦城壁の外に出て、タウバー川を見に行った。 S字形にくねって流れる川沿いに散歩道があり、眼下に流れるタウバー川の眺望がすばらしかった。 橋脚がアーチ型のドッペル橋のたもとまで行き、コボルツェラー門から再び城壁内に入るとプレーンラインと言う小さな広場に出た。 「この辺りが最もローテンブルクらしい風景」とガイドブックにあったので、城壁の上をしばらく歩いてみた。 上から見る街並みもなかなか良かった。 中央通りを北上して再び市庁舎のあるマルクト広場に戻った。 聖ヤコブ教会を見に行ったが修理中で閉まっていた。 午後のバスに乗るために一旦ホテルに戻り、荷物を持ってシュランネン広場まで歩いた。 石畳の道で荷物のカートを引くのは骨が折れる。 ロマンティック街道を走るヨーロッパバスは、フランクフルトとミュンヘンの間を片道約13時間かけて上りと下り1日1本づつ運行している。 乗客はほとんどが観光客で、街道沿いの主な町に10分から30分くらいづつ停車する。 私たちはローテンブルクのシュランネン広場を12:45に発ち、ホーエンシュヴァンガウ村に18:50に到着した。 この間ディンケルスビュール・ネルトリンゲン・アウクスブルクなど幾つかの町に停車した。 何れの町も特色があり独自の文化を持っているようであった。 停車時間が限られていたが、異なった街の様子をうかがい知る事ができて楽しかった。 街を離れると車窓からは一面の麦畑と菜の花畑が続いているのが見えた。 ホーエンシュヴァンガウ村の今夜泊まるホテルミュラーの直ぐ前に、ほぼ定刻にバスは到着した。 又雨が降ってきた。 夜8時になっても外は明るく、ホテルのレストランからはノイシュヴァンシュタイン城が雨の中に霞んで見えた。 近くの湖で取れた淡水魚と白アスバラガスの料理にドイツワインを楽しんだ。 5月29日(月) 見学は予約制で、正門で時間待ちをした後城内を見学した。 この城の主はバイエルン国王ルートヴィッヒU世で、贅を尽くした内装は精緻で煌びやかだった。 特筆すべきは城のいたるところにリヒャルト・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」・「ニュルンベルクのマイスタージンガー」・「タンホイザー」・「パルシファル」などからのモチーフが壁画として描かれており、国王がいかにワーグナーに心酔していたかが分かる。 しかしワーグナーは城が住めるようになる1年前に没しているため、これらの壁画も見ていないことになる。 ルートヴィッヒU世は后をめとらず、孤独な生涯を送った。 しかし8歳年上のオーストリアに嫁いだ従姉のエリーザベト皇后(愛称シシィ)とだけは、生涯を通じて親交があった。 この後の旅でウィーンのシェーンブルン宮殿や王宮を見てエリーザベト皇后のことを知ることになるのであるが、性格や境遇に共通するところがあったのかもしれない。 歴史に疎い私でも、このように人の繋がりなど新しい発見をすることがあると、歴史にも興味が湧いてくる。 ルートヴィッヒU世が少年時代を過ごしたと言うホーエンシュヴァンガウ城が、ホテルの近くの丘の上に見えた。 足場が組まれシートで覆われて、現在修理中であった。 正午過ぎにホテルをチェックアウトしタクシーを呼んでフュッセン駅に向かった。 ここから又鉄道の旅が始まる。 私はティロル地方には行ったことがないので、ここから何れも冬季オリンピックが開かれたガルミッシュ・パルテンキルヒェンとインスブルックを通ってザルツブルクに行くルートも考えたが、時間的に無理があったので今回は断念した。 フュッセン13:06発のローカル列車RE32611に乗り約2時間、15:07にミュンヘンに到着した。 ミュンヘン駅のローカル線のホームから国際列車のホームまではかなり距離があり、DBの時刻表によれば約10分かかるとある。 荷物を引きながら発車ホームにたどり着き、15:26発ウィーン西駅行きの国際都市間特急EC69に乗車する。 これでドイツともお別れだ。 この列車は比較的込んでいたが、1人ずつテーブルを挟んで座る対面座席を確保することができた。 座席配置は横に1等が2+1、2等が2+2、日本の新幹線の2+3は考えられない。 1等は対面座席が多く、幅60センチくらいの立派なテーブルが付いている。 ビジネスマンたちはここに書類やパソコンを広げて仕事を始める。 周囲の乗客たちも気にする様子はない。 コンパートメント式の車両も連結されているが、空いていることが多いので人気が無いのかもしれない。 ザルツブルクまで約1時間30分、16:54に予定通り到着した。 この辺りは人の動きの面では国境は無いに等しい。 今年3月に南ドイツのリンダウ(スイスとオーストリアの国境にあるボーデン湖の出島の町)に仕事で出張したとき、訪問先の会社の人が「今日の昼食はオーストリアのレストランに行きましょう。」と車で連れて行ってくれたとき、この辺りに住んでいる人達は言葉も同じで国境はすでに取り払われていることを実感した。 アジアがそのようになるのはまだまだ時間がかかるかもしれないが、人間は本来それが自然な姿だと思う。 ザルツブルク中央駅でザルツブルクカードを購入した。 このカード(24ユーロ)で市内の博物館や交通機関のほとんどが無料になる。 オーストリア国鉄のオフィスで明後日のウィーン行きの座席指定をした。 ヨーロッパでは1等車でも2等車でもすべて自由席が標準であり、座席指定の予約が入った分だけ座席番号と指定区間を書いたカードを席の上に車掌が取り付ける。 従って乗車して席を取るときは必ずその席が指定されているか否かを確かめる必要がある。 指定区間以外であれば自由席と同じ扱いになる。 駅には改札が無いので切符を買わなくても乗車できるが、車内で検札があったときもし切符を持っていないと無賃乗車としてかなり高い罰金を取られるらしい。 日本のように検札のときに車内で切符を購入することは原則として許されない。 基本的には乗客のマナーを信用しているシステムであるが、守らないものに対しては非常に厳しい処置がとられるということになる。 私たちが使用した周遊券(ユーレール・パス)も、乗車する前に必ず当日の日付けを自分で記入しなければならない。 もし記入しなかった場合は悪意の無い記入忘れも含めて無賃乗車とみなされる。 ホテルは中央駅から500mほどの新市街にあるマルクス・シティックス。 ホテルまでは徒歩の予定であったが、小雨が降っていたのでタクシーを拾った。 室内にはモーツァルトにちなんだ壁画の装飾があった。 1枚は『パリのモーツァルト親子』(モーツァルトがピアノを弾き、父のレオポルドがヴァイオリンを、姉のナンネルが歌っている。)、もう一枚は『魔笛』の一場面『夜の女王のアリア』と思われる。 これまでの旅行は午前観光・午後移動・ホテル1泊の連続であったが、これからは同じホテルに2泊することになるので、先ずはたまっていた洗濯をする。
5月30日(火) レジデンツ(歴代の大司教の宮殿)を見た後、ホーエンザルツブルク城に登った。 城塞のテラスは悪天候のため人影はまばらだった。 “く”の字に流れるザルツァッハ川を挟んで対岸の山の麓にカプツィーナ修道院があり、その左手の川の畔にミラベル宮殿が見えた。 川のこちら側の旧市街は大聖堂の青緑色の屋根とその左手にはレジデンツの黒い屋根と教会の塔が、更にその左手にはメンヒスベルクの山並みが続いていた。 強風と寒さのため見学もそこそこにケーブルカーで下山し、モーツァルトの生家に向かった。 生誕250周年のためか5階建てに屋根裏部屋の付いたアパートの外壁は鮮やかな黄色に輝いており、赤・白・赤のオーストリア国旗の幟旗が強風にあおられていた。 よく見るとこの建物の左右にある建物も同じように5階プラス屋根裏部屋の造りである。 モーツァルトの両親は1747年からこの建物の4階(ヨーロッパ式に言うと3階)に住んでおり、1756年1月27日にモーツァルトは生れた。 寝室の中央に置かれた籠の中に、モーツァルトを模した赤子の人形が寝かせてあった。 モーツァルトが愛用したハンマークラヴィーア・頭髪・家族の肖像画・自筆の楽譜・手紙・その他身の回り品などが展示してあった。 38年前には赤子の模型などは無かったし、展示の仕方ももっと素朴で良かったような気がする。 年をとると何事も昔の方が良かったと思うのかもしれない。 但し、入口から4階に上る石の階段は暗く、磨り減っており当時を偲ぶことができた。 係員の制止も聞かず写真を撮り、大声で奇声を発するアジアの国の観光客には閉口した。 モーツァルトの生家のあるゲトライデガッセ(通り)と言う幅3mほどの、両側に商店がぎっしり並んだ通りを散歩した後川を渡って、今度は新市街のマカルト広場の前にあるモーツァルトの住居を訪ねた。 モーツァルト一家はモーツァルトが17歳の1773年までゲトライデ通りの生家で暮らしたが、子供たちが成長し手狭になったためこちらの家に引越し1787年まで14年間住んでいた。 1944年の爆撃で破壊され戦後博物館として再建されたが、1996年に改めてモーツァルトが住んでいた当時の姿に再建されたという。 多くの楽器や資料が展示されており博物館としての価値は高いと思うが、建物としては生家のように当時を偲ばせるものは見当たらなかった。 ミラベル宮殿に隣接するミラベル庭園を見て一旦ホテルに帰った。 ミラベル宮殿の中も見学できるものと思い何人かの人に尋ねた結果、現在は市のオフィスや図書館・結婚式場・コンサートホールになっており、昔の宮殿を見学できるようにはなっていないことが分かった。 早めの夕食を済ませ着替えをして、コンサートを聴きにミラベル宮殿に戻った。 プログラムはバッハとモーツァルトとシューベルトで、演奏者はヴァイオリンが男性1名・女性2名・ヴィオラ・チェロ各女性1名の計5名、ザルツブルガー・ゾリステンのメンバーだった。 年配の男性ヴァイオリニストの演奏は聴き応えがあった。 彼が4人の若い女性演奏家をリードしている様子であった。 その中の3名は名前からロシア系で、ヴァイオリンの2人は顔や身振りがそっくりで双子の姉妹と思われた。 好感の持てる演奏だった。 ホテルは昨日と同じマルクス・シティックス。 5月31日(水) 時間節約のため直接シェーンブルン宮殿に行くことにし地下鉄に乗った。 途中1度乗り換えてシェーンブルン駅に到着。 このあたりは郊外なので地下鉄も地上を走っている。 駅から宮殿の入口まで、荷物を引きずりながら10分ほど石畳の歩道を歩かねばならなかったが宮殿の広さを実感できた。 宮殿にクロークルームがあるかどうか、出発前に宮殿にメールで問い合わせをしていたので荷物の保管の心配は無かった。 宮殿は思ったより空いており、日本から予約した時刻よりも早く入場できた。 ハプスブルク家のシェーンブルン宮殿は、ブルボン王家のヴェルサイユ宮殿に相当する。 17世紀の頃このあたりに清水のわき出る泉があり、シェーンブルン(美しい泉)の名はそこに由来するらしい。 宮殿の造りや庭園の構造がヴェルサイユ宮殿によく似ているが、こちらの方が簡素で美しいと私は思う。 40室もの部屋を僅か2時間ほどで見学するので、印象が薄れないうちに写真を見て復習する必要がある。 ヨーロッパの宮殿の多くは、廊下や通路が無く部屋と部屋とが直接繋がっており、各部屋の右側と左側に隣の部屋に通ずるドアがある造りになっている。 目的の部屋に行くためには、通路になっている他の部屋を通り抜けなければならない。 シェーンブルンの場合、例えば第4室が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の執務室、第5室が同寝室、第6室が小部屋、第7室が階段の小部屋、第8室が化粧室、第9室が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト皇后の共同の寝室、第10室がエリーザベト皇后のサロン、第11室がマリー・アントワネットの部屋、第12室が子供部屋、第13室が朝食室と続く。 フランツ・ヨーゼフ1世が起床し洗面を済ませて朝食室に行くためには、7つの部屋を通って行かねばならないのは本人も又通過される部屋にいる人も気を使うことが多かったに違いない。 全部で1440ある部屋は、現在博物館や役所として使われているとのことである。 この宮殿の中の幾部屋かに、一般の人が住んでいるのを以前日本のテレビで紹介していた。 住んでいる人にとっては不便なことも多いかもしれないが、なんと幸運な人達であろうと思って見たものである。 広大な庭園には宮殿の名にふさわしく多くの噴水があり、『ローマの廃墟』など見たい場所が多かったが、今回は宮殿のテラスから眺めることしかかなわなかった。 このような場所は幾日か滞在して毎日少しずつ見て歩くのが良いと思った。 この宮殿を訪れたのは今回で2回目であるが、前回より多少は見聞も深まり自分なりに歴史観も持つようになったので、それに比例して印象も深かった。 以前出張でウィーンに立ち寄ったとき、空港の滑走路がラッシュで着陸待ちのためこのシェーンブルン宮殿の上空を低空飛行で数回旋回したことがあり、広大なこの宮殿の空からの眺めを満喫したことを覚えている。 オーストリア航空のサービスだったかもしれない。 夕刻も迫ってきたので又地下鉄に乗り市民公園駅・シュタットパークで下車、ホテルまで数百メートルを歩いた。 ウィーンの歩道は並木に沿って人が歩く本来の歩道と、自転車専用の舗装された道に区分されている。 日本のように無謀運転の自転車に気を使う必要もなくのんびり散歩ができる。 ホテルは市電(路面電車)のシューベルトリンク駅近くのアム・シューベルトリンク。 こじんまりしたホテルで、部屋も静かで清潔だった。 ウィーンのような大都市の、無数にある中クラスのホテルの中から気に入るホテルをインターネットで探すのは難しかったが、ガイドブックの評価とホームページの写真から判断してこのホテルを選んだのは正解だった。 今回の旅行では失望したホテルは一つも無かったのが幸いだった。
6月1日(木) シューベルトリンクに戻り路面電車に乗った。 右回りと左回りの両方向にリンクを回っているので、どこでも好きなところで乗降できるのが大変便利だ。 「この街なら自分1人でも暮らしていけそう」と妻が言った。 市内見物も兼ねて反時計方向回りの電車に乗り、ベートーヴェンの家に行くためにウィーン大学の前で降りた。 すると地下道の入口付近で男女二人の警察官が犯罪者らしい男を取り押さえ、パトカーに無理やり押し込んでいるところだった。 多分すりかかっぱらいであろう、優雅に見えるこの街も危険があることを垣間見たようだ。 ウィーン大学正面にある内部の見取り図を見ながら、世界にはこのように歴史と伝統のある大学があるのだということを日本の子供たちにも報せたい気持ちになった。 路面電車の軌道を渡りリンクの内側にあるバスクァラティハウスに立ち寄った。 私が心酔するベートーヴェンは35年間ウィーンに住んだが、その中の8年間をこのアパートの4階で過ごし、交響曲第4・5・7・8番・オペラフィデリオなどの大作をここで作曲した。 再びリンクの外に出て市庁舎前の公園を散歩し、ギリシャ神殿風の造りの建物に入った。 博物館と思い中に入って初めて国会議事堂であることを係員から聞いた。 厳重な囲いや警備員の姿も無く何とおおらかな国かと驚いた。 議事堂前に立つ白い大理石で造られたアテネの女神像と、その足元の噴水と彫像群の周りには若者や観光客が集っており、この国の自由な姿を象徴しているように見えた。 リンクに沿って更に南下するとマリアテレジア広場に出た。 中央のマリアテレジア像の両側に、一方に自然史博物館・他方に美術史博物館がある。 これらの建物と公園は、王宮を中心にリンクを挟んでレイアウトされていることが分かる。 美術史博物館では多くの見慣れた絵画を見た。 美術に関して知識の浅い私も、好きな絵画の実物を前にすると旧友に逢ったようなときめきを覚える。 この美術館ではブリューゲルの『雪中の狩人』・デューラーの『ヴェネツィアの若い婦人』・ラファエロの『草原の聖母』・ブリューゲルの『バベルの塔』などが好きな絵である。 美術館内のかつてハプスブルク家ご用達のケーキ店のカフェで一服し、王宮(ホーフブルク)に向かった。 マリアテレジア像から北東に真っ直ぐのところにあるゲートをくぐると英雄広場がある。 右手に新王宮を見ながら更に奥へ進むと王宮の中庭に出た。 ハプスブルク家が650年間にわたり改築と増築を繰り返してきた建物であるため内部は複雑に入り組んでおり、宰相宮・アマリア宮・スイス宮・レオポルドウィングなど区域ごとに名前が付けてある。 ウィーンフィルの新春コンサートでも放映されるスペイン乗馬学校や、世界一美しいと言われる国立図書館、王家の婚礼が行われたアウグスティーナー教会が隣接している。 幾百年にも及ぶ建物の増改築の変遷が見られるのは興味深い。 ここも短時間ですべてをじっくり見るのは無理なので、私たちは“シシィ”博物館と銀器・食器コレクションを見学した。 “シシィ“博物館ではフランツ・ヨーゼフ皇帝の質素で新しい物に対する頑固な性格と、それとは対照的で自由奔放なエリーザベト皇后(シシィ)の当時の生活ぶりがうかがえて興味深かった。 シシィが美容体操に使った道具や、長時間かけて髪の手入れをした化粧室が残されていた。 ちなみにシシィは1837年にバイエルンの公女として生まれ私より101歳年長、16歳でフランツ・ヨーゼフ皇帝と結婚、身長173cm・体重48kg・ウェスト50cm。 厳格なウィーン宮廷の生活は彼女の肌に合わず、神経を病んで心身療養のための旅行に時間を費やした。 ハンガリーを愛しハンガリーの独立運動に協力した。 1898年に旅行先のスイス・レマン湖畔で暗殺されてしまう。 帰りはミヒャエル広場に出た。 王宮の正門はミヒャエル広場に面しているので、私たちは逆のコースをたどったことになる。 コールマルクトを通りグラーベン通りに出て、ペスト記念柱の脇を通ってシュテファン寺院に向かった。 シュテッフル(塔)の中段部分は修理中だったが、シュテファン寺院はいつ見ても優雅で美しい。 寺院の周りを一周した後、中に入り説明を聞いた。 ウィーンのメインストリートで高級品店が並ぶ歩行者天国のケルントナー通りを南下し、国立オペラ座の概観を見る。 1968年に初めて来たときは、ここでリヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』を見た覚えがある。 ウィーンには半年くらい住みたいと思う。 今夜も昨夜と同じホテル・アム・シューベルトリンク、明日はドナウをブダペストに下る。 6月2日(金) この旅の続き(6月2日と6月3日)は『ハンガリー旅の思い出』に記す。 6月4日(日) |