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ハンガリー旅の思い出
HEREND ZODIAC PLATE 2006
ハンガリー政府観光局・第3回「ハンガリー旅の思い出」コンテストA賞受賞
2006年6月20 今回の旅はドイツ・オーストリアを経て、ウィーンからマハルト・パスネーヴ社の水中翼船でドナウ川を下りブダペストに入った。 ハンガリーは1977年以来仕事で幾度か訪れたが、観光目的で妻と共に来たのは初めてである。 数日前から旅先は曇天続きであったが、朝9時船がウィーンのライヒスブリュッケ桟橋を出る頃から雨になった。 船中は賑やかで美人のキャビンアテンダントが一人でほぼ満席の客をもてなしていた。 ウィーンの王宮を見学した後すっかり“シシィ”(皇妃エルジェーベト/ドイツ名エリーザベト/注1参照)ファンになっていた妻が、彼女は“シシィ”に似ていると言うのでその旨伝えると嬉しそうに微笑んで、ハンガリー語で『ケセネムセーペン』(ありがとうございます)と礼を言ってくれた。 船がウィーンを出て間もなくダムがあって、上流のゲートが閉められ排水が終わり今度は下流のゲートが開くまで約30分から40分間ほど船は停泊した。 風雨の中をデッキに出て、一連の操作を興味深く見学した。 川幅数百メートルもあろうかと思われるドナウ川にダムがあることは今まで知らなかった。 ドナウベンドに至るまでに更にもう1ヶ所ダムがあった。 今はスロヴァキアの首都となっているブラチスラヴァの街並み・コマーロムの要塞・エステルゴムの大聖堂・ヴィシェグラードの要塞などを、驟雨に煙る船窓から“シシィ”の解説付きで見ることができた。 定刻の午後2時30分頃、ブダペストのエルジェーベト橋と自由橋の間にある国際航路の船着場に到着した。 雨の中を船着場からホテルまでタクシーが拾えるのか心配だったが、船上で希望者に料金確定済みのチケットを配布してくれたので安心だった。 タクシーはエルジェーベト橋を渡り、王宮の丘にあるホテルに着いた。 部屋の窓からは対岸の国会議事堂が幾つもの尖塔と上品で優雅なたたずまいを見せており、北のマルギット橋の先にはマルギット島の濃い緑が雨に霞んで見えた。 長旅の最後をブダペストにしたのは、この街が私にとって特別な場所であり、見知らぬ土地から帰宅した時のような安堵感を与えてくれるからである。 初めてブダペストを訪れたのは1977年の12月で、その折は出張で4日間ほどの滞在であったが、仕事の合間に観光バスで市内観光に出かけた。 王宮の丘では雪の中をサッカー少年たちが練習しており、冬景色のこの街の印象を今もよく覚えている。 夜は音楽アカデミーでハンガリー国立交響楽団の演奏によるモーツァルトのト短調交響曲とレクイエムを聴いた。 残念ながら指揮者と独唱者・合唱団の名前を覚えていないが、特にレクイエムはすばらしい演奏だった。 その後1991年12月の訪問まで9回訪れており、今回は10回目であることが記録を調べて分かった。 9回の訪問は何れも仕事の出張で、中でも1987年11月から1988年5月までの6ヶ月間は、ブダペストから約150km東のティサ川の流域にあるティサウイヴァロシュという化学コンビナートのある町(当時レニンヴァロシュと呼ばれていた)でプラントの建設工事に携わった。 マイナス10℃以下にもなる冬の建設工事は厳しく、専門の技術的な業務の他に事務所の管理業務もやっており仕事に追われる毎日であった。 信頼できる通信手段はテレックスだけで、深夜まで原稿を書き客先が経営するホテルにテレタイプを依頼せねばならなかった。 コピーは客先に配布されるため、日本との重要な連絡は暗号文を使った。 当時共産圏であったハンガリーは、COCOM(対共産圏輸出統制)が適用され、特にコンピュータ等の軍事・戦略物資の日本からの輸出が厳しく統制されていた。 私が携わっていたプラントもコンピュータ制御を採用していたため、設備のほとんどが建設を完了したにもかかわらずコンピュータだけが日本政府の輸出許可が下りず、毎日のように国内に督促のテレックスを打つ一方で客先を説得する日々が続いた。 最終的にはコンピュータも現地に到着し、建設日程ぎりぎりでプラントは完成した。 このような苦境にあるときもハンガリーの人たちは非常に暖かく、週末になると毎週代わる代わる私を自宅に招待し、私の好きな曲のレコードをかけ、家庭料理に自家製のパーリンカ(スモモから作る蒸留酒)とワインで歓待してくれた。 コンピュータが届かないことについても『お前のせいではないのだから、あまり深刻に考えるな』と言って慰めてくれた。 ワインについては皆それぞれ独自の好みと主張を持っており、パーティーでのワイン選びは議論百出で時間がかかり、選び終わったときには『今日の最も重要な問題が解決した』と冗談を言って楽しんだものである。 おおむね自分の出身地の銘柄が一番だと言って勧めてくれた。 赤ではショプロン・ケークフランコシュ、ショプロン・カベルネソーヴィニョン、エグリ・ビカヴェール、ティハニー・ケークフランコシュ等、白ではエゲルソラティ・オラスリースリング、ドモスロイ・ムスコタイ、ニェキ・レッテネテシュ、バダチョニィ・スルケバラトゥ、バダチョニィ・オラスリースリング等、ワインの銘柄と勧めてくれた友人の顔が連動して思い出される。 私の好みはと聞かれればショプロン・ケークフランコシュを最もよく愛飲したが、もともとワインの良さがそれほど分かるわけではないので、勧めてくれるものは全て良かった。 食後ソファーでくつろぎながらトカイ・アスー(トカイ地方で産出される腐貴ワインの銘柄)のグラスを片手に会話を楽しんだ。 技術部長の奥様が音楽学校の校長先生で、他の先生方も集めてプライベート音楽会を開いてくれた。 奥様はチェロが専門で、技術部長ご本人はジャズピアノを弾いた。 私も校長先生のピアノ伴奏で日本の歌やカンツォーネを歌った。 1987年の年末から1988年の正月にかけては、日本の勤務先の規定では帰国できないことになっていたが、『クリスマスを家族と一緒に過ごせないのは囚われの身と同じではないか』と、客先が航空券を手配してくれて思いがけなく帰国することができた。 ハンガリーに再赴任する途中、コペンハーゲンの空港でゴルバチョフ著・ペレストロイカの英訳版を買った。 工場の友人たちは貪るように読み、英語の得意でない仲間たちにも説明していた。 もしかすると10年後のソ連崩壊と自由化の気配を感じていたのかもしれない。 蒸気の通ったプラント内は暖かく、猫が数匹の子を産んだ。 従業員たちは誰彼なしに餌を与え、春になるまで見守っていた。 工場内で野良猫を飼うことなど常識的にはもっての他であるが、電線の被覆をかじる鼠よりはましと上司もこれを大目に見ていた。 レンタカーの更新や商社との打合せのために、時折ブダペストに出た。 その度に各地の温泉に浸かり夜は音楽会に出かけた。 センテンドゥレの野外民家園(シカンゼン)も訪れた。 ブダペストからの帰り道には、国道3号線から寄り道してエゲルにも立ち寄った。 雪の少ない小春日和にはコンビナートのマイクロバスで、プラント建設に従事する日本人全員を客先がピクニックに招待してくれた。 ティサ湖・ホルトバージ・デブレツェン・ホッロークー・トカイなど断片的ではあるが今も懐かしく記憶に残っている。 ブダペスト以外のハンガリーの多くの小さな街々も、1100年と言う長い歴史の中で異なる時代に夫々が役割を担い、それらが今も昔のままの街並みや再建された建造物として残されているのは本当にすばらしいことであると思う。 ハンガリーの友人たちはパーティーが好きだったので、こちらも返礼として皆を招待し歌ったり踊ったりして友情を深めた。 周囲には飲み屋など無かったので、いつも2次会はホテルの私の部屋で酒を飲み交わし会話を楽しんだ。 プラントの完成後1988年4月には、仲間3・4名と共に車でバラトン湖を一周した。 ブダペストに一泊した後セーケシュフェヘールヴァールを通り抜け、シオーフォクから時計回りでバラトン湖を周遊しティハニーで1泊した。 多分現在では観光地としての賑わいを見せているであろうが、当時はまだのどかな丘陵地とブドウ畑が続き、入り江には漁師たちの船が停泊していた。 ティハニーのホテルも簡素で付近の風景に溶け込んでいた。 ここのワインも美味しかった。 日本人メンバーが全員帰国した後事務所を畳んで、日本の5月の連休には帰国できることになった。 帰国が近づくと皆が毎晩のようにお別れ会をして、家族の元に戻る私の喜びを分かち合い、一方では別れを惜しんで涙を流してくれた。 手作りの刺繍やパーリンカ・自慢のワインそしてリストやコダーイやバルトークのレコードを皆からいただき、持参したスーツケースの一つがおみやげで一杯になった。 パーリンカやワインは飲むのに2年ほどかかった。 刺繍は今も大切に使っており、レコードも時折聴いて楽しんでいる。 客先が帰国のための航空券を手配してくれたが、帰りの便は何れも満席なのでブダペストで待機して欲しいと言われ1週間先のチケットを渡された。 くさり橋の近くでペスト側のドナウ川に面したホテル(当時のホテルフォーラム)を客先の費用負担で予約してくれた。 後になって考えると、いくらゴールデンウィークとは言え日本行きの航空便が全て満席と言うことはありえないので、これは多分客先が私に休暇をくれたのではないかと思っている。 通常企業とか国とか公の機関は規則で管理されているため個人に対しては冷たいものであるが、私が仕事をしていたこの国営企業はハンガリーの人たちの人情が入り込む余地があったようだ。 しかし私がハンガリーの人たちを好きになった理由は、このような大きな気配りをしてもらったからだけではなく、もっと優しく繊細で寛容な、あたかも母親が子供の世話をするように見返りを求めず、親切を受けている本人が気づかないような心配りをいつも感じるからである。 この1週間の休暇を利用してブダペストの数多くの博物館・美術館を見学し、毎晩のように音楽会・バレエ・民族舞踊に出かけた。 ちょうど小林研一郎指揮のハンガリー国立交響楽団の演奏会があり、ベートーヴェンのピアノ協奏曲ハ短調(ピアノ:タマシュ・ヴァサリー)とブラームスの交響曲第4番を聴くことができた。 ハンガリーでのコバケンの人気が絶大であることを改めて認識すると共に、特にこの演奏会のブラームスには感動し今も心に残っている。 ブダペストはもとよりハンガリーは小さな街に行っても、博物館や美術館の多さには驚きと同時に感心させられる。 市民が頻繁に行かないと成り立たないはずである。 音楽についても同様で、国立オペラ劇場をはじめ数多くの劇場やコンサートホールでは、シーズン中は連日オペラやオペレッタが上演されコンサートが開かれている。 聴衆のほとんどは地元の人たちなので、音楽の好きな人たちがいかに多いかが分かる。 今回の旅の話に戻ると、2日目は雨が上がり雲間から多少青空が見えてきた。 マーチャーシュ教会と漁夫の砦の辺りを散歩し、ドナウとペスト側の街の景観を背景に写真を撮った後、ホテルのロビーでKさんを待った。 Kさんは私がティサウイヴァロシュ(当時はレニンヴァロシュ)のコンビナートで仕事をしていた頃ブダペストの商社に勤務しておられ、この工事の受注・契約・機器の通関・客先が来日するときのアテンド等、大変お世話になった方である。 1988年のプラント完成後も他の用件で来日され、又私もハンガリーに立ち寄ったときはいつもお会いしていた。 その後その商社をお辞めになってからも、年に一度の挨拶状を取り交わしていたが、次第にお互いが近況や家族のことを報せ合うようになり、近年はインターネットでメールの交換をするようになっていた。 以前からヨーロッパに来たときは是非ブダペストに寄ってくれと言われており、今回それが実現したわけである。 約束の9時にKさんが姿を見せた。 十数年前に比べると体つきががっしりとし、多少髪が薄くなったこと以外はほとんど昔と変わっていなかった。 ブダペスト滞在は2日間だけで残りは今日一日だけという私たちの事情を考慮した上で、綿密な予定を考えてきてくださっていたので全てKさんにお任せすることにした。 先ずゲッレールトの丘に登った。 ドナウ川上流のくさり橋・マルギット橋とマルギット島を挟んで、右に国会議事堂・左に王宮が見えた。 高度が高いため、漁夫の砦から見た風景より更にパノラマが広がったすばらしい景観を脳裏に焼き付けた。 第2次世界大戦中の戦場となったメモリアルと地下壕をKさんの案内で見学した。 壁には銃弾の跡が生々しかった。 ツィタデッラを見下ろしながら方向を変えると眼下にエルジェーベト橋が見えた。 Kさんの車はくさり橋を渡り、アンドラーシ通りを市民公園の方角に向かった。 妻に外観だけでも見せたいというKさんの配慮から、オペラ座の前で一時停車し記念写真を撮った。 日本出発前にインターネットで調べたところ、ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガーを上演中だったが、時間的に今回は鑑賞を諦めねばならず残念だった。 英雄広場では軍楽隊が演奏していた。 空には晴れ間が見られるようになり、『これは神様からのあなた方への贈り物』とKさんが言った。 1896年の建国千年祭で万博会場となった公園を散歩し、公園内のレストランで昼食を取った。 昨年の愛地球博ではハンガリーの出展が無くて残念だったことを思い出した。 公園内にあるセーチェニ温泉の蒸気噴出し口に手をかざすと、泉源の温度は100℃近いのではないかと思われた。 Kさんのオフィスに近く、昼食後よくこの辺りを散歩するという西駅の近くに車を止めた。 ブダペストには東駅・西駅・南駅があり、西駅はエッフェル塔と設計者が同じとのこと、近代的とも言えるシンプルな切妻屋根にガラス張りの正面と、その両側に対称形に配置された赤レンガ色の重量感のある塔がバランスして美しかった。 ヨーロッパの駅は歴史的な建物が多いので、鉄道の旅を一層楽しいものにしてくれる。 その後バシリカ(聖イシュトヴァーン大聖堂)を見学した。 ここでも結婚式のカップルに出会った。 朝のマーチャーシュ教会のカップルと同じ車を使っていた。 今日はこれで4組目である。 国会議事堂の見学予約時間が迫ってきたので議事堂に向かった。 外観はブダペストに来る度にその美しさに見惚れていたが、内部はまだ見学したことが無かったので、日本を発つ前にKさんにお願いしたら英語の説明の時間帯を予約しチケットを買っておいてくださった。 土曜日で日本語の説明が無かったからである。 何年か前になるが、日本のテレビで『ハンガリー紀行』と言う番組を見ていると、ハンガリー政府観光局の局長(当時)のエルデーシュ・ジョルジュさん(Dr.Erdoes)がオペラ座と国会議事堂の内部を説明しておられるのを見て、驚くと同時に大変懐かしく思ったものである。 エルデーシュさんには、ティサウイヴァロシュ(当時レニンヴァロシュ)のプラント建設の折りに大変お世話になったからである。 その後1990年か91年頃にブダペストの空港で、たまたまお目にかかって以来のことであった。 この番組中の議事堂内部の美しさと豪華さが記憶に残っており、是非一度見学したいと思いKさんにお願いしたわけである。 この旅行に先立ちハンガリー政府観光局のホームページにアクセスしたところ、エルデーシュさんの随筆『夢見るハンガリー』を拝読することができた。 国会議事堂の内部は想像以上に豪華絢爛そのもので、正に『百聞一見に如かず』であった。 ハンガリーの最高の建築物に千年の歴史が凝縮されているように感じられた。 このような議事堂では、国民を裏切るような政治は決して行われないであろうと妻と話した。 ガイドの説明も丁寧でよく覚えられたものだと感心した。 ブダペストの街の景観は、ブダ側からの眺めとペスト側からの眺めが何れも優劣を付け難く美しい。 ブダ側からの風景は朝から充分に見ることができたので、今度は国会議事堂沿いの川辺に出てペスト側からの景観を楽しんだ。 一旦ホテルに戻った後、Kさんのご自宅に招待された。 都心から車で20分ほど東の、閑静な住宅地の中にお宅はあった。 奥様と二人の息子さんが私たちの訪問を待っていてくださり、2時間ほどお互いの家族のことや近況を語り合った。 地下にあるご長男の趣味の部屋も見せていただいた。 庭にはバラや果物の木が植えられ、小鳥のさえずりを聞きながら皆で記念写真を撮った。 二人の息子さんも既に進路が決まっており、それぞれ熱中できる趣味を持っていた。 ハンガリーの新学期は9月に始まるため、6月初めの期末試験を早くパスすれば6月・7月・8月と約3ヶ月間弱、もし試験にパスするのに手間取ったとしても2ヶ月間以上の期末休暇(夏休み)がある。 この間子供たちは友人たちと旅行をしたり、アルバイトをして小遣いを稼ぎ趣味に打ち込んだり自由な休暇を過ごすらしい。 自らの進路は自分で決め、両親はアドバイスをするだけのようである。 Kさんの良いご家庭を見せていただき嬉しく思った。 ハンガリーの人口は日本の十分の一にも満たないにもかかわらず、各分野で優秀な実績を残し傑出した人材を数多く輩出している。 これは子供の頃から自分の進路は自分で決め、好きな道を自由に選ぶことができる環境によるところが大きいのではないかと思う。 Kさんが夕食に招待してくださることになり、Kさんとご長男が運転する車に6人が分乗してハンガリアンレストランに出かけた。 バイオリンの演奏を聴きながら、ボリュームたっぷりのハンガリー料理を楽しんだ。 美味しくて小食の妻もお腹一杯いただいた。 食事が終わると又雨になった。 Kさんにホテルまで送っていただきお別れをした。 今回の旅行ではすべてKさんのお世話になってしまった。 私がKさんに対して以前に何かお世話をしたことがあるというわけではなく、十数年前ハンガリーに滞在中はむしろ私の方がいろいろとお世話になった間柄であるにもかかわらず、大切な休日を返上して朝から12時間も私たちに付き合ってくださり、その間ずっと細やかな心配りを続けてくださった親切に妻も私も感謝の気持ちで一杯であった。 ホテルの窓から雨に霞むドナウとブダペストの夜景に最後の別れを告げた。
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