2009年8月10日作成 1968年、当時私は旧ユーゴスラヴィア(注1)の小さな町・バニヤルーカ(Banja Luka)で繊維製造プラントの建設工事に携っていた。 3月に着任以来約2ヶ月が過ぎ、初めての海外生活にもようやく慣れてきた頃、建設団副団長の和田さんが「スイスに旅行するけれど、君も一緒に来るかい?」と誘ってくださった。 ユーゴの休日の他に日本の祝日も休みが取れたので、5月の連休を利用しての旅行計画である。 「勿論お願いします」と同行させていただくことにした。 メンバーは同じ会社の名古屋から来た和田さん・加藤さん・畑中さんと私、それにT社の加賀美さんの5名だった。 バニヤルーカからザグレブ(Zagreb)経由でミュンヘンまで、乗換えなしに行ける夜行寝台車両(注2)が、1両だけ連結された列車があることをミリヤナさん(注3)から聞いていたので、和田さんに話すと行きはそれにしようということになった。 ミュンヘンからチューリッヒまでは、国際列車が何本もあることはわかっていた。 宿泊していたホテル・パラスに隣接して旅行エージェントがあり、外国のホテルや交通機関の予約ができた。 4月30日(火)、仕事を少し早めに切り上げて、バニヤルーカ発15時23分の列車に乗った。 座席は4人部屋のコンパートメントで、夜になると上下2段の寝台車になる。 この列車はアドリア海岸のドゥブローヴニク(Dubrovnik)或いは更に東のマケドニアのティトグラード(Titograd)辺りが始発駅と思われ、ネレトゥヴァ川(Neretva)沿いに北上してモスタール(Mostar)(注4)・サライェヴォ(Sarajevo)・バニヤルーカを経由してザグレブに至るユーゴ国内のローカル線である。 線路を羊や牛の群れが横切ると、列車は一時停車して動物たちが横断するのをゆっくりと待っているおおらかさである。 更に単線なので上下線がすれ違うために、途中の駅でも長時間待ち合わせをする。 動物横断などの予期せぬ停車時間の余裕も見込んでいるようだ。 ザグレブまでにプリイェドール(Prijedor)・ボサンスキノヴィ(Bosanski Novi)など4駅に停車し、18時45分に定刻通りザグレブに到着した。 このローカル線急行列車はザグレブが終点であるが、我々の乗った寝台車両だけはここでミュンヘン行きの国際列車に連結される。 この路線はかつてオリエント急行の終着駅であったイスタンブールからパリ・ロンドンまで続いている。(注5) 35分後の19時20分に列車はザグレブを発車、リューブリャナを経由して国境の町イェセニッツェに23時50分に到着した。 車掌がパスポートを集めに来て、ユーゴからの出国と次のオーストリアの駅での入国手続きを代行してくれる。 当時のユーゴスラヴィアでは、他の共産圏諸国とは異なり、日本人はビザなしであらゆる交通機関での自由な出入国が許されていたので、外国を旅行するのに大変便利であった。 この特典が無ければ、この地に滞在中のヨーロッパ旅行の回数も半減していたに違いない。 偉大な政治家ティトー大統領の、寛容で開かれた政策に感謝する。 列車が国境を越えてオーストリアに入ると、スピードが上がっているのに気付く。 多分路線のメンテナンスが行き届いているためであろう。 何時間か眠った後6時50分に列車はミュンヘン中央駅(münchen Hauptbahnhof)に到着した。 この間に列車はザルツブルクにも停車したはずであるが、熟睡していたため全く覚えが無い。 5月1日(水)、午前中はミュンヘン市内の観光バスに乗った。 駅前からカールス門を通りマリエン広場の市庁舎前で停車、市内の主な建築物を見た後イーザル川の中州の島にあるドイツ博物館に短時間立ち寄った。 その後バスは、中央駅の北約5kmのところにあるオリンピックタワー・テレビ塔(290m)に向った。 4年先の1972年開催のミュンヘンオリンピックを記念して建てられる予定だったテレビ塔は既に完成しており、メダルなど記念のグッズが売られていた。 地上190mのところにある展望台に上り、ミュンヘン市内の展望を楽しんだ。 中央駅に戻り軽い昼食を済ませた後、14時20分発のチューリッヒ行きに乗った。 ファーストクラスのコンパートメントに席を取り、列車はボーデン湖(Bodensee)の東端を通ってスイスに入った。 ミュンヘンから約4時間、19時28分にチューリッヒ中央駅(Zürich
Hauptbahanhof)に到着した。 駅からホテル・セントラル(Hotel Central)までリマト川(Limmat)を渡って徒歩数分、ホテルの窓からのリマト川に映るチューリッヒの夜景が美しかった。 5月2日(木)、和田さんがレンタカーの手配をしてくださっている間、ホテル周辺のチューリッヒ市内を徒歩で散策し、またデパートに立ち寄って時間を過ごした。 和田さんを除く4人は、私を含めて国際免許証を持っている人も、ヨーロッパは勿論のこと日本でもほとんど車の運転経験が無かったため、今回の旅行では和田さんが一人で運転してくださることになった。 一番年長の加賀美さんが助手席でナヴィゲータを勤め、加藤さんと畑中さんと私は後部座席でもっぱら車窓からの景色を楽しんだ。 チューリッヒから南西に約60km、スイスで最も美しい町と言われているルツェルン(Luzern)で休憩、更に約90kmで今日の目的地インターラーケン(Interlaken)に到着する。 このルートは、残雪の多い3000m級のアルプスを背景に、5つか6つの湖に沿って走るので車窓の風景に飽きることが無い。 沿道の家々には「必ず」といってよいほど木製の植木箱が置いてあり、色とりどりの花が窓辺を飾っていた。 道路沿いのいたるところにツィンマー・フライ(Zimmer
Frei ・空部屋あり)と書いた看板があった。 一人旅ならホテルなどよりこのような民宿に泊まった方が楽しそうだ。 スイスのドライヴ旅行の醍醐味は何と言っても雪山である。 小さな町並みを抜けると雪を頂いた高山が忽然と視界に現れて、思わず「はっと」息を呑むことがしばしばであった。 夕刻早めにホテルに入った。 小雨が降ってきたので明日の山の天候が気がかりだ。
インターラーケン(Interlaken)はその名の示すとおり2つの湖の間にある。 ルツェルンの方から来るとブリエンツ湖(Brienzersee)という長さ20kmほどの細長い湖があり、その先に同じような形をした、ブリエンツ湖より少し長めの25kmほどのトゥーン湖(Thunersee)がある。 これら2つの湖を長さ500mほどのアーレ川(Aare)が結んでおり、インターラーケンはこの川の周辺の盆地に開けた町で、四方を山々に囲まれてる。 ホテル・デュラック(Hotel
Du Lac)はインターラーケン東駅の直ぐ近くにあり、アーレ川に面した部屋の窓からの眺めが良かった。 スイスに来たのだから夕食はフォンデュにすることになった。 そこまでは良かったが、チーズにするか肉にするか意見が二つに割れた。 フォンデュならチーズに決まっていると思ったが、誰かの持っていたガイドブックに「チーズフォンデュはいただけない、ミートフォンデュがおすすめ」と書いてあったため、多数決でミートに決まった。 多分チーズ嫌いの著者が書いた本だったのであろう。 味は良かったが、私はそれまでチーズフォンデュを食べたことが無かったので、本場の味を試すことができなかったことが心残りだった。 食べ物のことは41年後の今もよく覚えている。 雨は止みそうになかったが、フォンデュの世話をしてくれたレストランの女性が「山の天候は変わりやすく、雨が止むと霧が瞬く間に消えて青空が広がることもあるから、そんなに悲観的になる必要は無いかもしれませんよ」と希望を持たせてくれた言葉を信じて眠りに就いた。
5月3日(金)、早朝雨は止んでいたが霧が立ち込めており、晴れ間が見える様子はなかった。 チェックアウトを済ませインターラーケン東駅(海抜567m)から登山電車に乗った。 電車はしばらくの間、2つの湖の間に広がった平野部を南に進む。 すると行く手を阻んでいるかのように見えた霧が一瞬のうちに晴れて、周囲には新緑が輝く牧草地が現れた。 遠くにはこれから向うユングフラウ・メンヒ・アイガーの山々が澄んだ空気の中に浮かび上がっていた。 昨夜レストランの女性が話していた通りになってきた。 やがて電車は山の麓の駅・ツヴァイリュッチネン(Tweilütschinen・653m)に着く。 ここで電車は右のヴァイス・リュッチネン(Weisse Lütschinen・白い谷)と左のシュヴァルツ・リュッチネン(Schwärze
Lütschinen・黒い谷)に分かれる。 右方向の白い谷を行くとラウターブルンネン(Lauterbrunnen)経由、左方向の黒い谷へ進むとグリンデルワルト(Grinderwald)経由、何れのルートを辿ってもクライネシャイデック(Kleine
Scheidegg)まで上って行ける回遊ルートになっている。 私たちは白い谷のルートから登ることにした。 ラウターブルンネンを過ぎる頃には空は晴れ渡り、ユングフラウ(Jungfrau・4158m)・メンヒ(Mönch・4099m)・アイガー(Eiger・3970m)と、4000メートル級の山々が次々と眼前に迫って来た。 多くのアルピニストの生命を奪ったアイガー北壁の灰色の岸壁とは対照的に、氷河に覆われ白く明るく輝くメンヒとユングフラウの優美な姿に見とれているうちに電車はクライネシャイデック(2061m)に到着した。 ここでユングフラウヨッホ行きの電車に乗り換える。 クライネシャイデックから最初の駅であるアイガーグレッチャー(Eigergletscher・2320m)までは緩やかな草原を登って行くが、そこからユングフラウヨッホ(Jungfraujoch・3454m)まではアイガー北壁の中のトンネルである。 間もなく電車はアイガーヴァント(Eigerwant・2865m)という北壁の中央にある駅に停車する。 岸壁をくりぬいた覗き窓から下界を眺めることができる。 ここから電車は大きく方向を変え、アイガーの西側に進むともう一つの駅アイスメール(Eismeer・氷の海・3160m)がある。 勿論トンネルの中なので電車が方向を変えたことなどは方向音痴の私にはわからない。 この駅にも覗き窓があり、ここからは氷河が見える。 次いで電車はメンヒの頂上の下を通り終点のユングフラウヨッホ駅に到着する。 アイガーグレッチャーから終点まで約40分、車窓からはトンネル内の岩肌を見るのみである。 それにしてもこのトンネルは1896年に着工、1902年にはアイガーヴァントまで、1905年にはアイスメールまで、1912年にはユングフラウヨッホまで完成したというから驚きである。
ユングフラウヨッホは登山電車の終点であるばかりでなく、ホテル・山小屋・レストラン・氷の宮殿・気象台・スキー学校・スフィンクステラスと呼ばれる展望台(3573m)とそこに上るエレベータなど地下の要塞を思わせる設備が整っていた。 展望台からはユングフラウの2つあるピークとアレッチ氷河(Aletschgletscher)が、ほとんど藍色に近い空の下に見えた。 高山の山頂では、空の色が何故こんなに暗く濃い色になるのだろうと不思議に思った。 帰りはクライネシャイデックまで戻った後、グリンデルワルトを経由して黒い谷の方から下山する予定であったが、その日はフランス側のシャモニーまで行く予定で時間的な余裕が無く、登山電車の時刻の都合で行きと同じルートを引き返すことになった。 山は山頂近くで見るのもよいが、クライネシャイデック辺りに滞在してゆっくり眺めるのも良いのではないかと思った。 インターラーケンから、また車の旅が始まる。 和田さんに「一人で運転していただいてすみません」と言うと、「いや、俺も運転を楽しんでいるから気にしなくていいよ」と答えてくださった。 150kmほど南西に走ると、マルティニ(Martigny)という小さな町に着く。 ここからはつづら折れ(ヘアピンカーブ)の山道をフランスに抜ける。 フランス側に入ると急に道が悪くなる。 約40kmでシャモニー(Chamonix)だ。 当初の予定では、この日はジュネーヴにホテルを取っていたが、インターラーケンのホテルで旅行の予定を話すと、シャモニーに変えた方が良いと薦められ、ジュネーヴのホテルを電話でキャンセルし、シャモニーのホテルを予約してくれた。 スイスの人たちは旅行客には皆親切だ。 ホテルの名は「クルワ・ブランシュ」(Hotel
de la Croix Blanche)、白い十字架と言うような意味か。 インターラーケンのホテルで書いてもらったメモが残っている。
5月4日(土)、天候は薄曇といったところ。 シャモニーの町外れにあるロープウェイ乗り場(1045m)まで徒歩約15分、「ソルボンヌ」という名の国立スキー登山学校があり、その隣の広場からエギーユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi・3842m)行きのロープウェイが出ている。 森林を抜けたところにある中継駅プラン・ド・レギーユ(Plan
de L’Aiguille・2308m)で乗換え、富士山より高い山頂まで約20分で登る。 中間駅から山頂まで支柱は全く無く、標高差1534mをほとんど垂直に切り立った岩肌に沿って一気に登って行く。 山頂の展望台からの見晴らしは素晴らしい。 南にはモンブラン(Mont
Blanc・4807m)とモンブラン・デュ・タキュル(Mont Blanc du Tacul・4284m)の氷河を望み、南西にはエギーユ・デュ・ジェアン(Aiguille
du Geant・4103m)の針峰とグランド・ジョラス(Grandes Jorasses・4208m)北壁が見える。 但しこの日はあいにく霞んでおり、薄日の中に辛うじて山々を望むことができた。 この辺りの山はベルナーオーバーランドの優雅な山の形とは全く異なり、雪も積もらぬほどの針の山である。 ここからはシャモニーとイタリア側に降りられる山岳スキーのコースがあり、大勢のスキーヤーたちが訪れていた。 イタリア側からもここまでロープウェイが来ており、ロープウェイだけを使って旅をすることもできる。 山の下部にはモンブラントンネルが通っており、勿論車でも行き来できる。 シャモニーの町の広場にソーシュールとバルマの銅像が建っている。 アルプスの開祖・近代登山の父とも呼ばれているジュネーヴの名家の出身のド・ソーシュールは1760年にシャモニーを訪れ、このモンブランの初登頂者に賞金を出すと発表した。 それが契機となり1786年にシャモニーの農夫ジャック・バルマと医者のミシェル・パカールが初登頂を成功させる。 ド・ソーシュール自身も1887年バルマを案内役としてモンブランの頂に立った。 長い杖を持った人物がド・ソーシュールで、右手を上げてモンブランの頂上を指しているのがバルマである。 又車の旅が始まる。 ジュネーヴ(Geneve)は国際都市で国連などの建物や施設が多い。 市内を観光した後、レマン湖(Lac
Leman)の北を通ってローザンヌまで約60km、この区間は高速道路が開通していた。 ローザンヌのホテル・レジデンス(Hotel la Residence)に泊まる。 5月5日(日)、旅の最終日である。 レマン湖の東端(ジュネーヴの反対側)に近いモントルー(Montreux)に立ち寄り、バイロンの詩で名高いシオンの古城を見てベルンに向う。 ベルンまで約90km。 ベルンには古い町が残っており、16世紀に作られた噴水・時計台など本当は歩いて回るのが一番であるが、今回は残念ながら時間に余裕が無く、車で町の中を回っただけであった。 市内には赤地に白十字のスイスの国旗をはじめ、色々なデザインの州旗が美しく町を彩っていた。
ベルンからチューリッヒまで約140km。 この区間も高速道路が開通していた。 チューリッヒ湖畔の公園で休憩し、湖に浮かぶヨットを眺めながら初めてのヨーロッパ観光旅行の想いに耽る。 チューリッヒ空港でレンタカーを返す。 和田さんが記念にくださったレンタカーのインヴォイス(請求書)を見ると、走行距離は合計736km、車種はオペル・レコード1500ccで、まだ8000km程度しか乗っていない新車だった。 チューリッヒ16:00発、ユーゴスラヴィア航空JU221便に乗り、ザグレブに18:00着。 出迎えてくださった東郷さんの車で、夜10時過ぎにバニヤルーカに帰着した。 これはヨーロッパの多くの国々を訪れた後に感じたことであるが、スイスの町や村の風景は、あまりにも隅々まで手入れが行き届き整理されているが故に、人工的な美しさという印象を受けた。 宿泊したホテルはBクラスかCクラスであったが、何れも清潔で従業員の印象も申し分なかった。 ホテルについては、小さいから・安いから・田舎だからという心配は全く無いように思われた。 これも後になってわかってきたことであるが、フランスやイタリアと比べてオーストリアもスイスと同様のことが言えると思った。 このスイス旅行記を書き終わったら、同行した畑中さんに真っ先に読んでいただきたいと思っていた矢先、2009年7月17日にお亡くなりになったことを奥様からお聞きし、全く残念でならない。 心からご冥福をお祈り申し上げます。 この旅行のメンバー5名のうち、残っているのは私一人になってしまった。 天国の皆様にも読んでいただけるよう、文中のお名前は実名を使わせていただいた。 |