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古い橋

2007.02.12

旧ユーゴスラヴィアのボスニアヘルツェゴヴィナには古い石造りの橋が数多く残っている。 モスタールのネレトゥヴァ川に架かるスターリ橋・イヴォアンドリッチの小説の舞台となったヴィシェグラードのドリナの橋・トゥレビシュニツァ川に架かるアルスラナギッツァ橋・サライェボのボスナ川に架かるプランディシュテ橋(リムスキモスト)などである。 これらの橋は何れも16世紀の中頃にオスマントルコの支配下にあった時代に建造されたものである。 

中でもモスタールの『スターリ橋』は世界で最も美しい橋であったと言っても過言ではあるまい。 この橋はボスニア内戦中の1993年11月にクロアティア軍の砲火によって破壊された。 400年以上の歴史ある橋が、たった一人の愚かな将軍の判断により破壊されてしまった。 この日はモスタールの誇りが消えた日と呼ばれている。 

破壊される前の古い橋
(1968.06.23撮影)

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その後ユネスコ・世界銀行からの融資とアメリカ・トルコ・イタリア・オランダ・クロアティア等からの寄付により、1999年に新しい橋の再建が開始され2004年春までにはほぼ完成、同年7月23日に復元式典が盛大に催された。 ネレトゥバ川の川底から回収された元の橋の破片をつなぎ合わせ、16世紀と同じ砕石場から石を切り出して、かつての姿をほぼ再現したという。 翌2005年7月にはユネスコの世界遺産に登録された。

民族和解の石橋などと言われているが、橋が開通したからと言って実際に戦った人達、正確に言えば戦わされた人達はそう簡単に和解できるとは思えない。 又、和解しようにもかつての3民族の中の1つであったセルビア系住民はこの地域からいなくなってしまった。 再建された新しい橋は写真で見る限り外見はオリジナルそっくりで白色に輝いて見えるが、400年の歴史が染み込んだ以前の橋とは全く別のものだ。 

この地域の幾つかの内戦やイラク戦争など、ほとんどの戦争は安易な判断に基づいて始められ、後に誤りに気づいた時には収拾がつかなくなっていることが多い。 再建もまた苦痛を受けた住民の意思とは無関係に、安易に進められているように私には思われる。 50年後・60年後に住民たちの意思で計画が持ち上がるのを待っても遅くはないはずだ。 

このような再建のやり方は世界各地に見られ、いとも簡単に世界遺産に登録されてしまう。 いまやユネスコの世界遺産の多くは観光資源として国家や旅行産業の収入源となっており、特に発展途上国や観光立国を目指す国々にとって重要な役割を担っていることは事実である。 しかし本来は広島の原爆ドームやベルリンのカイザーヴィルヘルム記念教会のように破壊されたままの姿を保存する方が、人類の過ちを子孫に伝える遺産としてははるかに有効ではないかと思う。 原爆ドームも世界遺産に登録されているので、ユネスコはこれらの両面を考えているのであろうか。 

ネレトゥヴァ川はサライェヴォの南のディナールアルプスを源流とし、ヤブラニツコ湖をはじめとする幾つかの水力発電用ダムを経てアドリア海に注いでいる。 河口から56kmのところにモスタールという15世紀から続いている歴史的な町がある。 当時このあたりヘルツェゴヴィナ一帯はオスマン帝国の属州であった。 ヘルツェゴヴィナ第1の町モスタールはアドリア海に通ずる交通の要衝で、旧ユーゴスラヴィア時代は航空機産業・アルミ・繊維工業の中心地であった。 

内戦前の人口は約13万人で、ボシュニャク(ほとんどがムスリム即ちイスラム系)・クロアティア系・セルビア系の3つの民族がほぼ同じ人口比率を保って15世紀頃から共に暮らしており、旧ユーゴスラヴィア国内での異民族同士の結婚が最も多い地方であったため、内戦でばらばらに引き裂かれた家族が多く、その悲惨さは筆舌に尽くし難い。 現在はネレトゥヴァ川の左岸(東側)にはボシュニャクが、右岸(西側)にはクロアティア系住民が分かれて住んでおり、セルビア系は町には残っていないという。 

『スターリ橋』は現地語でスターリモスト(Stari most)と呼ばれ、スターリは古いをモストは橋を意味する。 かつて橋の両側には橋守の塔があり、これをモスタン(Mostan)と呼んだ。 町の名前モスタールはこれらが語源となっていると考えられる。 この橋は16世紀のオスマントルコ時代に、強度的には脆いが美しい石灰岩で造られたイスラム建築の傑作であり、この町の真ん中を貫いて流れているネレトゥヴァ川に架かっていた。 

戦前には毎年8月にこの橋の上からの飛び込み大会が催され、町の一大行事になっていた。 橋の上から水面までは約21mでビルの5階ほどの高さがあり、100人に1人は着水に失敗して死者が出るほどで、少年時代から少しずつ高さを上げて練習を積み、大会に出場するまでに10年以上の経験を必要としたそうである。 この大会も1991年を最後に戦争によって中止されてしまった。 

私は旧ユーゴスラヴィアに滞在中の1968年6月と1970年7月に、更にその後モスタールのSOKO社に冷蔵庫用圧縮機の製造プラントの商談があって出張した1978年7月の計3回この橋を訪れた。 当時から飛び込み大会が開かれていたかどうかは定かではないが、私が訪れたのは何れも夏であったため何人かの少年たちが飛び込み練習をしており、日本円にして200円か300円ほどを支払うと飛び込みの実演を見せてくれた。 

飛び込みの方法には基本的に2つの型がある。 一つは両手を左右に広げ足の膝を90度後ろに折って足から飛び込み、着水寸前に両手で急所を保護する方法、もう一つは両手を左右に広げ足を伸ばし飛行機のように滑空して頭から飛び込み、着水寸前に左右に開いた手を頭上に真っ直ぐに伸ばす方法である。 

飛び込み大会に出場することは、少年が青年の仲間入りをする儀式のようなもので、少年を育成するリーダは人種や宗教の区別なく大会を運営していた。 ムスリムのリーダをクロアティア系やセルビア系の少年たちが師と仰ぎ、兄と慕うこともしばしばであったという。 

ボスニア内戦勃発後1992年4月にセルビア軍が町に攻め込み一旦は占領したが、町の住民たちは協力して2ヵ月後にはセルビア軍を敗退させた。 このときの町の防衛隊長はモスタール生れのクロアティア系住民で、それまでは映画や舞台の演出家として活躍していた。 彼には時間がなかった。 戦闘経験の無い市民から兵を募り、如何に早く戦闘態勢を築くかが勝負であった。 彼の頭にひらめいたのがこの飛び込み大会の選手たちだった。 勇敢であり危機に直面して冷静さを失わないことなど、戦闘員としての素質を既に備えていた彼らを中心に防衛隊が組織され、セルビア軍に立ち向かい勝利を収めた。 

町からセルビア軍を撤退させた後1993年5月クロアティア軍が突然蜂起し、それまで一緒に戦ってきたイスラム系住民を無差別に攻撃した。 このときクロアティア軍の将軍として先頭に立ったのは、セルビア軍から町を守った防衛隊長だった。 戦後のテレビのインタヴューで、セルビア軍から町を守った隊長が一転して町を破壊する側に回った理由を聞かれ、「クロアティアがこの地を奪取する千載一遇の好機と神からのお告げがあった。」と彼は述べている。 

飛び込み選手たちもボシュニャク(ムスリム)とクロアティアに分かれざるを得なかった。 クロアティア軍は飛び込みの師匠であったクロアティア系住民の元選手を前線に立たせ楯として使った。 ムスリム側の兵士の中には多くの飛び込み選手がおり、かつての師匠を銃撃することを躊躇した。 1993年だけで飛び込みの仲間たち10人が戦死したという。 

ムスリム側の補給路を断つためという理由で、クロアティア軍の集中砲火を浴び1993年11月9日10時30分『スターリ橋』は破壊された。 この橋の通路は階段になっており、軍事的には戦車はおろか普通の車さえ通ることはできない。 元モスタール防衛隊長だったクロアティア軍の将軍はこのときザグレブに逃れ、そこからこの橋を破壊するよう指示を出していたようだ。 戦後ザグレブの自宅でテレビのインタヴューに答え、「レンブラントの絵も黒澤明の映画も、何の意味も持たなくなるのが戦争だ。 私の部下も多くが死んだ。」と引きつった顔で釈明したが説得力は全く無かった。 

翌年諸外国からの圧力を受けて市街戦は収束したが、何れの側にも多くの血が流され、更に何十年間にもわたって拭い去ることのできない憎しみが残ったのみで得たものは何も無かったに違いない。 

この辺りは古くはオスマン帝国に支配され、新しくはハプスブルク家(オーストリア)の領域に入り、20世紀になってからはユーゴスラヴィアとなり民族の融合が図られた。 この400年間の歴史の中で民族間の紛争は数限りなく、征服者による圧制と弾圧に苦しみながら、一方では天災や外敵に対して住民たちは協力して立ち向かったに違いない。 かくして3つの民族は時には諍いを起こしながらも、幾世代にわたり隣人としてこの地に住み着き暮らしてきた。 そして『古い橋』は人々の世代を遥かに超えて、それらの一部始終を見守ってきたのである。 

しかし今回の近代兵器による壊滅的な破壊は従来の紛争とは異質のものであり、一つの民族が完全にこの地域から他へ移動してしまうほどの変化をこの町にもたらした。 民族や宗教の違いを超えて、悠久のネレトゥヴァ川の流れのように持続するはずだった人々の生活と生命の流れをこの戦争は停止させてしまった。 かつて3民族が一緒に暮らした町モスタールは既に無く、人々の忌まわしい記憶の数々を忘却のかなたに流し去って、平和な人々の暮らしをいつも夢見てきたかのような『古い橋』も失ってしまった。 あとに世界遺産という偉大なモニュメントを残して。

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