1968年は私の人生において特別な年であった。 当時私は日本を代表する製造業・M社の、名古屋にある工場の一つに勤務していた。 ユーゴスラヴィア(当時)に大型の化学繊維製造プラントの受注が決定し、プロセス技術をアメリカのエンジニアリング会社・C社から提供を受け、プラント全体のとりまとめをM社が行うことになった。 私はC社のエンジニアリングチームの一員として、1965年3月から1967年2月までの約2年間C社の東京支社に派遣された。 東京での単身赴任中に長男が誕生し、家族3人が名古屋で暮らせるようになってから1年後の1968年3月、プラントの建設工事の本格化に伴い、C社から再度派遣要請があり、数ヶ月間の予定でプラントサイトのユーゴスラヴィア(当時)に出張することになった。 その報告と挨拶を兼ねて、1967年の年末から父母と弟の暮らす静岡の私の実家に家族3人で出かけ正月を過ごした。 長期にわたる別居生活のため、当時1年8ヶ月になった長男には生まれる前から父親らしいことが何もしてやれず、又私自身も彼の成長過程の貴重な部分を見逃してしまったことを非常に残念に思う。 これはこの年に生まれた長女についても全く同様である。 当時の日本は現在とは比較にならぬほど、会社の仕事が第一で家族は二の次の社会であった。 久しぶりに家族3人で出かける新幹線の車内で、長男が嬉しそうに「パパとママと僕と3人で新幹線に乗ってる」と、文章になった言葉を初めて話したと手帳にメモが残っている。 そして1月3日には、それまで彼は一人で階段を上ることしかできなかったが、2階から階段を下りることができるようになった。 出張先では車の運転は必須とのことで運転免許は取得したが、実際に運転する機会が無かった。 元旦の比較的空いた道路を、弟の車を借りて仮免許試験以来初めて公道を走った。 電圧切替え式のブラウンの髭剃りを父が餞別として私にくれた。 これはその後、海外各地への出張に携行し大変重宝した。 名古屋に帰宅すると義父が京都から会いに来てくれた。 当時海外出張は珍しく、軍隊経験のある義父は健康のことなど留意すべき点を私に話し、留守は心配せずにがんばってくるよう励ましてくれた。 今この年になって益々親の有難味が身に沁みる。 パスポートの申請・持出し外貨の申請(注1)・T/C(注2)の購入など、初めての経験であったため物珍しく2ヶ月間が瞬く間に過ぎた。 仕事に使う資料と英語の辞書・旅行ガイドブック・身の回りの日用品を新しいスーツケースに詰め込んだ。 妻と幼い長男を残して長期にわたる別居生活がまた始まると思うと、妻に申し訳なく淋しく辛かったが、一方ではこれから体験する初めての世界を想像して心が躍った。 3月4日(月)夕方の新幹線で東京に向かう。 3月5日(火)はM社の本社に挨拶。 午後22時30分羽田発のJL401便で出発する。 新たな建設団長に決まったKKさんは私の所属する設計課長であり、たまたま同行させていただくことになったため、初めての海外出張も全くストレスを感ずることなく、好奇心の赴くままに旅行を満喫することができた。 当時の日本航空のヨーロッパ線とアメリカ線には、DC8とB707が使われていた。 当日の機体はDC8で、定員148名のうちファーストクラス16名(2+2の座席x4列)以外はすべてエコノミークラス(3+3の座席配列)だった。 最近の大型機(B747やA300)に比べると乱気流に入ったときの揺れはひどく、長時間の飛行中には一時的に揚力を失い、急にエレベータが下降するような気分を幾度か味わうことがあり、飛行機酔いの人もしばしば見られた。
約6時間30分の飛行の後、現地時刻3月5日(火)午前11時(日本時刻6日午前6時)にアラスカのアンカレッジに到着、日付が1日戻るのを初めて体験した。 空港には毛皮製品やエスキモーの民芸品を売る店がたくさんあった。 約1時間の給油と整備の後、12時に再びコペンハーゲンに向かって飛行を開始した。 離陸後まもなく左手に北米最高峰のマッキンリー(注3)が快晴の眼下にくっきりと見えた。 山襞で覆い尽くされた大地を切り裂くように、凍結したユーコン川がうねっていた。 やがて機内では「北極圏通過証」が乗客全員に配布され、グリーンランドの北端を通過してヨーロッパに向かった。 約8時間の飛行の後、3月6日午前7時コペンハーゲンに到着、ここでも一旦飛行機を降りて約1時間の給油と整備の間待機する。 8時に再び出発、8時40分にJL401便の最終目的地アムステルダムに到着した。 空港で軽食を済ませ12時45分発フランクフルト行きのKL241便に乗り、フランクフルトに13時50分着。 ここでも4時間弱の待ち時間があったが、空港の売店や航空機の発着を見ているだけで退屈することは全く無かった。 買い物について、「これが欲しいと思ったら自分の懐具合と相談して、あまり迷わずに買うか買わないかを素早く決断することが大切で、もっと良いものがあるだろうとか、次の機会にしようと躊躇しても、そのような機会はあまり無いものだ。」と、KKさんがアドヴァイスしてくれた。 時計売り場を見ていると、スイス・オメガ製の婦人用金時計(注4)が目にとまった。 一旦ユーゴに入国してしまうと、西ヨーロッパにはなかなか出る機会は無かろうと思い、価格は100ドル(3万6千円)で当時としては大金であったが、妻への土産として思い切って購入した。 その後帰国までスイスやイタリアなどに旅行したが、それ以上の品を見つけることは無く、そのとき決断したことに後悔は無かった。 それ以来現在も尚、KKさんのアドヴァイスを守っている。 何よりも「土産のストレス」から早く開放されたことが良かった。 その時計は妻も気に入って、2006年ドイツ・オーストリア・ハンガリー旅行の帰国時に機内で紛失するまで、一度分解掃除に出しただけで故障もせず38年間の長期にわたり愛用した。 フランクフルト17時30分発のユーゴスラヴィア航空JU213便に乗った。 待合室にいるときからローカル線の“におい”と雰囲気に包まれていた。 20時15分ベオグラード(Beograd)に到着、羽田を出てからほぼ30時間の長旅であった。 商社の出迎えの車で市内に向い、ホテル・メトロポールに直行しチェックインした。 商社のユーゴ駐在事務所も同じホテルの中にあった。 ユーゴの首都ベオグラード(現在はセルビア共和国の首都)が、私にとって初めて足を踏み入れた外国の町となった。
団長のKKさんは商社との打合せのため、1日ベオグラードに留まることになり、翌3月7日(木)は私一人で、バスでバニヤルーカ(Banja Luka)に向かうことになった。 プラントサイトのバニヤルーカは、ベオグラードから西へ325キロメートル、ザグレブ(Zagreb・現在クロアティアの首都)から南東へ183キロメートルの、現在のボスニアヘルツェゴヴィナ(注5)にあり、周辺部分も含めた人口約6万人の小さな町であった。 12時30分にベオグラードを出発したバスは、ザグレブに通じる2車線(片道1車線)の自動車専用道路を西に向かった。 バスの車内には、2・3ヶ月後にはすっかり慣れ親しむようになるのであるが、この土地特有の地酒とニンニクと、それに地元の乗客の体臭が混ざり合った異様な“におい”が漂っていた。 ベオグラードを離れると、沿道には昨年収穫が終わった後放置された土塊の農地と原野が広がるのみで民家はまばらであった。 途中幾つかの町で乗客を降ろすために、バスは自動車道路から外れて一般道に入り停車した。 停留所は小さな食堂を兼ねており、乗客は軽食を取ったり用を足したりすることができた。 ベオグラードから267キロメートルの地点でバスは一般道に入る。 そこは歩行者・自転車・馬車が行き交う生活道路である。 沿道にはレンガ造りの農家や民家が点在し、牛や羊や鶏が庭で飼育されているのが見えた。 道路は冬の凍結による亀裂が多く、修理もほとんどされている様子は無かった。 陽が沈み夕闇が迫る頃になると、辺境の地へ来たことを実感すると共に寂しさが身に沁みてきた。 ベオグラードを発ってから6時間、18時30分にバスはバニヤルーカの中央バス停に到着した。 出迎えてくださった副団長のWYさんはじめ顔馴染みの歓迎を受けてようやく元気を取り戻した。 パラスホテルで歓迎夕食会を開いていただいたが、食事はほとんど喉を通らなかった。 旅の疲労のためだろうと皆から言われたが実はそうではなかった。 バスの車中と同じ“におい”がホテルにも染み付いており、また料理に使われている油が日本のものと異なることによる拒否反応であった。 後に調べた結果、当時ユーゴスラヴィアで使用されていた食用油はひまわり油であることが分かった。 当時の私はそのような些細なことにも敏感に反応したようであり、その後の自分と比較すると信じられない気がする。
バニヤルーカにはパラス(Palace)・スラヴィア(Slavija)・ボスナ(Bosna)の3つのホテルがあった。 私が着任した当時は、20名ほどの日本人と4・5人の外国人がプラントの建設工事に従事しており、全員がパラスとスラヴィアの2つのホテルに分宿していた。 あいにく両ホテルとも満室のため、私は当面ホテルボスナ(注6)に泊まることになった。 入り口には鳥居のような形をした黄色の門柱があり、由緒あるホテルのように見受けられた。 昔の城を思わせるほど天井が高く、広い部屋に40ワットほどの白熱電灯がベッドサイドのスタンドに灯っているのみで室内は薄暗く、例の“におい”は新しいパラスホテル以上に強く、今後の長期滞在を考えると気が滅入ってしまった。 翌3月8日は初出勤の日である。 朝食をとるためにレストランに行きハムエッグを注文した。 クロームめっきを施した金属製の食器の中に、ハムと目玉焼きが黄色のオイルに浮かんでいた。 これには手を付けず、パンにバターとミルクだけの朝食を済ませ出迎えの車を待った。 工場は町から車で15分ほどの郊外にあった。 客先FCVBL社(注7)の事務棟本館内にM社とC社夫々事務所を借りていた。 私が配属されたC社現地事務所のメンバーは、チーフのチェコ系アメリカ人Mr.GS、アシスタントのドイツ人Mr.KW、ユーゴスラビア人の秘書Miss.MB(愛称ミリヤナさん)に私が加わり4名となった。 Mr.GSとMr.KWとは東京支社勤務時代からの気心の知れた間柄であった。 ミリヤナさんは知的な女性で、ユーゴの歴史やユーゴ国内の見所などについて、仕事の合間にトルココーヒー(注8)を飲みながら話をしてくれた。 工場は建物が7割程度完成し、機械類の据付が開始されたところであった。 工場内は自ら設計した通りの配置になっており、住み慣れた場所に来たような錯覚を覚えた。 私の主な仕事は、建物及び機械の基礎が設計通りに造られているか、また機器・配管・ユーティリティーその他、プラントの設備が設計通りに据付けられているかを毎日点検し、必要に応じて改造や修正を行うための図面を作り、客先並びにM社の関連部門宛に連絡書を発行することであった。 従って、仕事の面では過去2年間にわたる設計作業の復習のようなもので、不安やストレスは全く無かった。 私の食事の問題については、団長のKKさん・副団長のWYさん・商社から来ておられたTSさんが親切に相談に乗ってくださった。 先ず、卵はゆで卵にしてハムは生のまま、ソーセージは茹でたものを注文し、必要に応じて町の店で買うことを薦めてくださった。 またレストランに一緒に出かけ、私が食べられそうな料理を選んでくださった。 今は天国におられる先輩の方々が、本当によく面倒を見てくださったと今更ながら心の中で感謝している。 幸いこの地方には美味しいワインがあり、私の食欲増進に大変役立った。 モスタールの白ワインは毎日楽しんだ。 着任後1ヶ月ほど経った頃には、食用油や建物に染み付いた“におい”も、またユーゴの人たちの体臭もあまり気にならなくなった。
休日の土・日曜日はホテルで過ごすことはほとんど無く、近隣のリゾート地や地元チームのサッカーの試合見物など、先輩諸氏が案内してくださった。 一方建設チームのマージャン大会・ソフトボール大会なども休日を利用して行われた。 C社のKWさんは家族連れで来ておられ、時々家庭に呼んでいただき奥さん手作りの料理をご馳走になった。 夏になるまでの音楽シーズン中は、町の劇場兼音楽堂・ドムクルトゥーレ(Dom Kulture/カルチャーセンター)で音楽会が開催され、ミリヤナさんが週末のプログラムの中から私が希望するコンサートのチケットを手配してくれた。 ベオグラード・ザグレブ・サライェヴォからの交響楽団や室内楽団、ピアノ・ヴァイオリン・チェロなどの独奏者、声楽の独唱者などを毎週のように聴きに出かけた。 この地方にはクラシック音楽の愛好者が多く、このような小さな町でもほとんど毎週コンサートが開かれていた。 4月に入ってからも雪の降る日があった。 パラスホテルの新館に空室ができてそちらに移ることができた。 シャワールームとベッドと机が付いた25平方メートルほどの小さな部屋で、隣室との仕切り壁が薄い合板製のためいびきが聞こえるほどであったが、ホテルボスナと比べて清潔感があり“におい”も無く、何よりも中庭に面した窓があって電灯も明るいのが良かった。 C社には中古のメルセデスベンツが1台あった。 Mr.JSもMr.KWも自分の車を持っていたので、秘書のミリアナさんの送り迎えをする条件で、メルセデスは私が使わせてもらった。 車があると何かと便利だった。 4月12日にLEプラント(同じM社の別な事業所が建設中の繊維プラント)の見学に出かけた。 ほぼ時を同じくして同じユーゴ国内に類似のプラントが、同じ日本の会社(M社)によって建設されることは珍しいことであり、それ以降も時々交流があった。 場所はベオグラードの南西約100キロメートル(直線距離)のドゥリナ(Drina)川流域にあるロズニツァ(Loznica/現在セルビア共和国)という小さな町で、生活面では我々の滞在したバニヤルーカの方がはるかに恵まれていた。 プラントサイトの近くにはバニヤコヴィリャーチャ(Banja
Koviljac^ča)という古くからの温泉保養施設があり、バーやレストランも併設されていたため、そこが唯一の憩いの場所であったと聞く。 バニヤコヴィリャーチャには、プラント終結後も別な商談で幾度か客先工場を訪問したとき滞在した。 5月になると新緑と杏・桃などが一斉に開花して美しい。 その日はバニヤコヴィリャーチャで一泊、翌日は南に下ってサライェヴォ(Sarajevo)に立ち寄り、第1次世界大戦勃発の引き金となったオーストリア皇太子(注9)の暗殺現場を見たり市内見物をした後、郊外の養鱒場で久しぶりに魚料理を食べた。 バニヤルーカには囲碁愛好家がおり、坂田栄男九段の本などを参考に実践を積んでいた。 地元の学生が中心のクラブで、ベニヤ板に線を引いた碁盤に丸く削った木片を白と黒に染めた石を使っていた。 対局を申し込まれ、クラブのメンバーが時々ホテルにやって来た。 パラスホテルの最上階に建設団専用の遊戯室を借りており、そこに日本から持参したマージャン・囲碁・将棋などの娯楽用具が整っていたので、対戦はほとんどそこで行った。 私は当時アマチュアの初段程度のレベルであったので、最初は6目置かせて対戦したがほとんど私の勝ちであった。 彼らの努力と上達は目覚しく、半年も経たぬ間に2目までに追い上げられた。 4月30日(火曜日)、連休を利用してスイス旅行に出かけた。 メンバーは副団長のWYさんはじめKGさん・KSさん・HAさんと私の計5名、今日健在なのはHAさんと私の二人だけになってしまった。 バニヤルーカ15時23分発の国際列車には、ミュンヘン行きの直通寝台車が1両連結されておりその列車に乗る。 ミュンヘンでチューリッヒ行きに乗り換え、チューリッヒでレンタカーを借りスイスを1周した。 5月5日(日)にチューリッヒから空路ザグレブに戻り、所用でザグレブに来ておられた商社のTSさんの車でバニヤルーカに戻った。 この旅行の詳細は「旅行記・スイス旅行」(注10)に記す。
6月21日(金)、週末を利用し、建設団の日本人メンバー27名全員で、観光バスをチャーターしてアドリア海(Jadransko More)のドゥブローヴニク(Dubrovnik)に観光旅行に出かけた。 客先のコマーシャル担当チーフMr.TAが同行して、何かと私たちの面倒を見てくださった。 14時に工場を出発、途中サライェヴォで夕食、ドゥブローヴニクの南東15キロメートルほどのところにある、アドリア海に面したツァヴタート(Cavtat)という小さなリゾートの民宿に泊まる。 モスタール(Mostar)からアドリア海に下る山岳道路は、石灰岩のフィヨルドでその光景は初めての旅行者の目に焼きついた。 海岸線に出ると海面から高さ百メートルもあろうかと思われる、バスが漸くすれ違えるような道路が、絶壁にへばりつくようにリアス式海岸に沿ってくねりながら走っていた。 当時はガードレールが設置されている区間は短く、ハンドル操作を間違えれば一瞬のうちにアドリア海に転落することになる。 海の色は深い緑で浅瀬は白く、海底の藻や岩がくっきりと見えた。 6月22日(土)、アドリア海に面した中世の都市国家・ドゥブローヴニク(現在クロアティア領)を訪れる。 町の起源はローマ時代に遡ると言われ、15〜16世紀頃に最盛期を迎えた。 「アドリア海の真珠」と呼ばれ、当時はユーゴスラヴィア、現在はクロアティア第一の観光都市である。 世界遺産に登録されているが、この町もモスタールの「古い橋」(注11)と同様に内戦によって破壊され、一時「危機遺産リスト」に載っていたが戦後修復された。 アドリア海で泳いた後、ドゥブローヴニクの南東約80キロメートルにある城塞都市・コトール(Kotor/現在モンテネグロ領・現在世界遺産)を訪問する。 フィヨルドを思わせるコトール湾の奥深くにある町は城壁に囲まれ、背後に迫る石灰岩の岸壁には堅固な城塞が見られた。 この辺りはリアス式海岸で、直線距離は近くて直ぐ目の前に見えるところでも、バスは湾を迂回して何十キロも走らねばならない。 一帯はカルスト地形で、山は黒い色をしているところから「モンテネグロ」(Montenegro)という名前が付いたと言われる。 この日もツァヴタートの民宿に泊まる。 6月23日(日)、アドリア海からネレトゥヴァ(Neretva)川を56キロメートル遡ったところに、モスタール(Mostar)という15世紀から続いている歴史的な町があり、町の中央を流れるネレトゥヴァ川に、石造りの「古い橋」(注11)が架かっている。 トルコ風の町を散歩し、この古い橋を見ながら食事をする。 サライェヴォ(現在ボスニアヘルツェゴヴィナの首都)経由、バニヤルーカに23時帰着した。 当時日本ではほとんど知られていないところばかりであったが、素晴らしい旅であった。 6月29日(土)、クロアティアのプリトヴィーチェ湖(Plitvic^čka Jezera/現在世界遺産)(注12)の観光に出かける。 多くの湖と滝を見物、宮殿のようなホテルで1泊して30日(日)遅くバニヤルーカに戻る。 ミリヤナさんがいつも言っていた通り、わざわざ西ヨーロッパに出なくても、ユーゴ国内には美しいところがたくさんあることが次第に分かってきた。 この頃になるとユーゴの食事が美味くて食欲旺盛となる。 朝食のひまわり油のフライドエッグも、地元の流儀に倣って皿に残った油をパンに付けてきれいに食べられるようになった。 メシャノメーソ(Mix meatの意味)という名の、色々な種類の肉を盛り合わせた料理がレストランのメニューにあった。 子牛のカツレツ・牛のレバーのステーキ・豚肉のソテー・ベーコンのソテー・ソーセージのフライ・鳥のから揚げなどが大皿に山のように盛られて出てくる。 これが私の好きなメニューとなり、先輩諸氏から「3ヶ月前には想像もできなかった」と冷やかされた。
プラム・ぶどう・薬草などからできるラキヤ(Rakiya)という蒸留酒があり、中でもプラムから作られるシュリヴォヴィッツァ(S^livovica)は各家庭が自家醸造しており、アルコール度40程度の市販のものに比べて50〜60と高く、味も比較にならぬほど良かった。 日本のぐい飲みのような小さなグラスに注ぎ、ストレートで一気に飲み干すのが流儀である。 ベオグラードやザグレブ行きの乗り合いバスに乗ると、自家製シュリヴォヴィッツァのビンが回ってきてラッパのみをする。 バスの中の“におい”はこれが主な原因だったことに気付いた。 当時の私の日当(出張手当)は1日当り20米ドルであったが、長期出張のため1割カットされ手取りは18ドルであった。 ホテル代が1日当り6米ドル・食事代その他で約6米ドル、残りの6米ドルを貯金し、これを2ヶ月間ほど貯めて外国旅行に出かけた。 当時ユーゴの出入国は自由で、パスポートさえ持参すればヨーロッパの各国へはビザ不要で何度でも行き来できた。 7月2日(火)、一人でイタリア旅行に出発する。 前回5月のスイス旅行の経験から、自由な旅は一人旅に限るとの結論に達したからである。 小さなナップサックに身の回り品を詰め込み、バニヤルーカ駅から列車に乗った。 最近の旅行では手荷物を最小限にしたつもりでも、リュックサックだけでは収まらない。 若い頃は何故そんなに身軽に出かけられたのか不思議に思う。 ベニス・フィレンツェ・ナポリ・ソレント・カプリ・ポンペイ・ローマを回って7月8日(月)バニヤルーカに帰着、20代最後の旅となった。 この旅の詳細は「旅行記・イタリア紀行」(注13)に記す。 このように旅行の話題を書き連ねると、遊んでばかりいたような印象を与えるかもしれないが、言うまでもなく仕事はきちんとこなしていたし、休暇もそれほど多く取ったわけではない。 建設工事は冬場の作業員不足の影響で遅れ気味であったが、機器の据付けが進んでいた。 私を含むC社のメンバーは、据付け状況をチェックするために連日工場内を隈なく巡回した。 20メートルほどの高さのタワーを据付ける建物にはまだ階段が設置されておらず、最上階の4階に行くためには各階の床の中央に空けられた開口に、各階毎に架けられた3本の梯子を1階から2階へ、2階から3階へ、3階から4階へと登らねばならなかった。 4階から下を見ると1階の床まで遮る物は何も無かった。 当時は命綱などの安全具の準備は無く、一瞬の不注意が落下事故につながる可能性があった。 高所恐怖症の私にとってこの作業は恐怖であった。 ボスのMr.JSが「俺の後に続いて来たまえ! 絶対に下を見るな!」と言って先導してくれた。 梯子の中央部分では2人の体重で梯子が小さく揺れた。 最上部に達すると彼の太い腕が待っており、「リポビタンD」のコマーシャルのように私をがっしりと支えてくれた。 夏になると近くのヴルバス川や、客先工場付属のプールで泳いだ。 この内陸の田舎町は、スロヴェニアのリューブリャナやクロアティアのザグレブ方面からアドリア海沿岸に出るための中継基地になっており、夏は多くの旅行者が観光バスで押し寄せホテルは満員になった。 パラスホテルの中庭(ガーデン)は連日屋外レストランとなり、夜間は専属の楽団と歌手が演奏するダンス場となった。 また週末には外国から招かれた楽団の演奏や、地元の民族舞踊団によるフォークダンスが催された。 ガーデンに面した新館の部屋にいた私たちは、夏のシーズンが終わる8月末までの連日、演奏が終了する午前2時まで眠ることができなかった。 ホテルを恨みながらベッドの中で騒音に耐えるよりも積極的に参加する方が良いことに気付き、夕食後は自室で雑務を済ませた後、連日ガーデンに出てラキヤやワインに夜食を取りながら、ラストナンバーの「ラクノーチ」(Laku noc'/おやすみなさい)の曲が終わるまで、知人や旅行者との会話を楽しんだ。
クラシック音楽のほかに、ラジオでよく耳にするユーゴスラヴィア固有の音楽は3つのグループに分けられると私は思う。 一つは日本の浪花節を聞いているような感覚の吟遊詩人の歌(グスラール)である。 この音楽は深く聴かなかったせいもあるが、理解できなかった。 二つ目はイタリアのカンツォーネに匹敵する流行歌で、ユーゴスラヴィアンカンツォーネとでも言うべき音楽である。 本場のカンツォーネよりも幾分哀愁を帯びた旋律と歌詞には捨てがたい味がある。 中にはイタリアでヒットしたカンツォーネを輸入して、ユーゴの言葉の歌詞を付けたものもある。 ホテルのレストランやバー、屋外のプールなどでもひっきりなしに音楽が流れていた。 毎晩夜中の2時まで聴かされたので、今もメロディーは覚えている。 三つ目はフォルクローレ(Folklore/フォークダンス)の音楽である。 特にフォルクローレの音楽のリズムはすばらしい。 セルビア(Serbia)・マケドニア(Macedonia)・モンテネグロ(Montenegro)・ボスニアヘルツェゴヴィナ(Bosnia/
Herzegovina)・クロアティア(Croatia)・スロヴェニア(Slovenia)のフォークダンス音楽には夫々特色があるようだが、私はそれらを区別することはできなかった。 ダンスのリズムはいずれも標準的な西洋の2拍子・3拍子の他に、それらをスローステップとクイックステップで組み合わせた5拍子、さらにそれらを組み合わせた7拍子・8拍子・9拍子・・・・・17拍子などがあり、またそれらが目まぐるしく変わるものもあった。
7月26日(金)、ユーゴスラヴィアで一番美しい地方であると、予てミリヤナさんから聞いていたスロヴェニア(Slovenia)に週末を利用して旅をした。 15時40分発のバスで出発、リューブリャナ(Ljubljana/現在スロヴェニアの首都)22時03分着。 リューブリャナ泊。 7月27日(土)、ユーゴスラヴィアンアルプスの麓にあるブレッド湖(Blejsko Jezero)とボヒニ湖(Bohinisko Jezero)を訪れる。 この国の最高峰トゥリグラヴ(Triglav/海抜2,864m)を望む。 この辺りでは蕎麦が栽培されており、秋になると一面白い花畑となると聞いた。 日本と違いヌードルにはせず、パン・ケーキ・クレープなどにして食べる。 静かで高原の雰囲気を味わう。 ボヒニ泊。 7月28日(日)、世界で2番目に大きいと言われるポストイナ(Postjna)鍾乳洞を観光。 内部には川が流れ、橋が架けられ、野球場ほどもある広場があった。 第二次世界大戦中にドイツ軍が洞内で焚き火をしたため、入り口付近の一部の鍾乳石が黒ずんでいるのが痛ましかった。 夕刻19時15分発のバスでリューブリャナを発ち、夜半過ぎ0時40分バニヤルーカ着。 8月に入り夏休みの旅行計画を立てる。 パラスホテルの隣に旅行案内所があり、乗り物やホテルの予約ができた。 今回はハンガリーとチェコスロヴァキアの列車の旅を計画し、8月20日には予約を完了していた。 計画は下記の通り。 ところが8月21日(水)早朝、ソ連軍(正確にはワルシャワ条約機構軍)がプラハに侵攻、チェコスロヴァキアへの入国が不可能となり、残念ながら旅行を中止せざるをえなくなった。 奇しくもその日は私の30歳の誕生日であった。 チェコ(注14)のTV・ラジオ・電信・電話などすべての通信網が途絶えた。 夏のヴァカンスの時期でチェコから多くの旅行者がユーゴに来ていたが、ティトー大統領(注15)が全国のホテル・レストランに緊急指令を出し、当日からチェコへの入国が正常化されるまでの間、ユーゴ国内に滞在しているチェコスロヴァキア人の滞在費・食費等のすべてが無償で提供されることになった。 迅速で極めて人道的な判断であると感心した。 ティトー大統領は直ちに、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア(ワルシャワ条約機構国)との国境の主要道路にユーゴ軍を集結させた。 当時のユーゴスラヴィアはソ連とは別な道を歩みワルシャワ条約には加盟せず、非同盟運動の中心的な国家として独自の社会主義政策を採っていたので、ソ連軍のチェコ侵入には非常に敏感に反応した。 これらの情報を元に我々日本人建設団も、万一のときに備えて避難ルートの設定などを計画した。 私のボスMr.JSは元々チェコ人で、アメリカに亡命した経歴の持主であった。 後年ベルリンに一緒に出張する機会があり、亡命した当時の様子を私に話してくれた。 ベルリンがまだ完全に西と東に分断される以前のことで、東西をつなぐ地下鉄(Uバーン)がまだ運行されており、これを利用して東ベルリンから西ベルリンに逃れたと言っていた。 ソ連軍のチェコ侵攻を聞いた彼の落胆ぶりは言葉では言い尽くせないほどで、両手で顔を覆って泣き崩れた。 「プラハの春」の改革によって、再びチェコに戻れる日が来るかもしれないと、希望を抱いていた矢先の出来事であった。
ドブチェク(注16)の改革は共産主義を完全に否定するものではなく、検閲・密告を廃止して希望と表現の自由を市民に与え、「人間の顔をした社会主義」を目指していた。 ソ連にはこのドブチェクの試みを静観する余裕は無かった。 「スターリン型社会主義」は長続きする筈も無く、1986年からのゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の結果、1989年のベルリンの壁崩壊に至る。 戦車に乗ったソ連兵に話しかける(注17)プラハ市民の抗議に、若い兵士が涙を浮かべている写真がユーゴの新聞に掲載された。 必然とも言うべきこの歴史の流れは、この年1968年に始まったと言える。 8月26日(日)、バニヤルーカから35キロメートルの山間にあるストリッチチ(Stric'ćic'ći)と言う部落(言葉が違うと聞いていたので、多分少数民族の部落であろう)に、客先の人たちと出かけ、ヤギのバーベキューをして楽しむ。 ユーゴで食べたヤギや羊の肉は、臭みが無くて美味かった。 二人目の子供の誕生を間近に控え、名前を考えて妻に連絡して相談する。 当時はファックスも無く、国際ビジネス用としての通信にはテレックス(注18)が一般的であった。 個人的な連絡には国際電話も試みたが、当時のユーゴと日本の間の通話は電話局に出かけて申し込みをし、長いときは数時間待たねばならなかった。 2・3度試みたが電話はあきらめ、もっぱら郵便を利用した。 片道1週間、返事が来るまで2週間かかる。 緊急の場合は会社に頼んでテレックスを日本宛に打ってもらい、会社から家族に連絡してもらうことになる。 10月5日(土)長女誕生の電報を受取る。 当時は生まれるまで性別は分からなかったので、男女両方の名前を考えていた。 先輩・同僚から祝福を受ける。 早く顔が見たい。
10月9日(水)、音楽好きの私にとっては憧れのウィーン(Wien)・ザルツブルク(Salzburg)旅行に出かける。 メンバーはWSさん・KKさん・YYさん・TSさんと私の計5名。 中でも副団長のWSさんは音楽が趣味で自らもヴァイオリンを弾かれ、それまでにも幾度かウィーンには行かれたことがあると聞いていた。 M社の車を借りて16時30分バニヤルーカ発、ザグレブからヴァラジン(Varažz^din)・マリボール(Maribor)を経由し、国境を越えてオーストリアのグラーツ(Graz)に向う。 途中から雨になり00時過ぎにグラーツ着。 その日はグラーツ泊。 10月10日(木)、早朝グラーツを発ち更に北へ約200キロメートルのウィーンに向かう。 紅葉が美しい。 ウィーン市内に入る前にシェーンブルン宮殿を見学、ハプスブルク家の栄華の跡に目を見張る。 ウィーン泊。 10月11日(金)、ウィーン市内観光。 朝から小雨で天候はあまりよくない。 シュテファン教会・グラーベン街・マリアテレジア広場・美術史博物館・王宮・ベートーヴェンの像・市立公園でヨハンシュトラウスの像などを見る。 夜はオペラ座でバレー「白鳥の湖」を鑑賞。 たまたま当日はオペラの上演はしていなかったのが残念。 幕間に客席からホールに出ると、正装した長身の男女の中に埋没してしまいそうで圧倒された。 10月12日(土)、ザルツブルクに向かう。 ウィーン・ザルツブルク間300キロほどは高速道路で約3時間、午前中に到着。 ミラベル公園を散歩した後旧市街に入り、モーツァルトの生家を訪問した。 2006年に再度訪問したときと比べて、昔の方が展示はシンプルであったがモーツァルトの生活ぶりがより身近に感じられ、写真も自由に撮ることができた。 夜はミラベル宮殿で、ザルツブルク室内アンサンブルの演奏を聴いた。 プログラムはモーツァルトとハイドンの室内楽数曲であった。 2006年の訪問時も同じミラベル宮殿の演奏会を聴いた。 プログラムのメインは、いずれもセレナーデ・ト長調「アイネ・クライネ・ナハト・ムズィーク」で、観光客向けに40年前からずっと続けているのであろう。 10月13日(日)、天候が回復して晴れ間も見えるようになった。 ホーエン・ザルツブルク城を訪れる。 帰路はザルツブルクから山間の道を南下してクラーゲンフルト(Klagenfurt)に出てユーゴに再入国し、リュブリャナ経由ザグレブからバニヤルーカに戻った。 11月16日(土)、初雪が降る。 プラントサイトは日中でも氷点下十数度に下る日があり、工事の進捗も目に見えて遅くなった。 私の出張期間も9ヶ月を過ぎ、予定を3ヶ月も超えたため一旦帰国することになった。 12月16日(月):早朝M社の車でザグレブ空港に出る。 かくして私の1968年は終わったのであるが、この年は世界的にも特筆すべき事件が非常に多かった。 アメリカでは4月4日にマーティン・ルーサー・キング牧師(注19)が暗殺され黒人暴動が頻発した。 非常にゆっくりとした流れではあるが、その後の40年間にアメリカの人種差別は改善される方向に向っており、その流れが今年(2009年)のオバマ大統領の誕生につながっている。 また1968年はヴェトナム戦争最大の転機となり、アメリカ全土と世界の大都市でヴェトナム反戦デモが拡大し、当時のジョンソン・アメリカ大統領はついにヴェトナムからの戦闘部隊の順次引き上げを表明、アメリカは事実上勝利を放棄し、その後この戦争はアメリカの敗北という形で終結することになった。 これもまた深いところでは、イラク戦争の失敗と、間もなく行われるであろうアメリカ軍のイラク撤退につながっている気がする。 ブッシュ政権のアメリカは、40年を経ずして同じ過ちを2度犯したことになる。 前述のソ連の武力によるプラハ侵攻を見ても明らかなように、先に武力を行使した側が将来必ず敗北或いは崩壊する図式が定着したのが1968年であったと言えるかもしれない。 1968年は日本でも大規模な学生運動や、佐世保のアメリカ原子力艦入港阻止行動などの反戦運動が活発化した年であった。 その後日本の若者たちの活力は年々衰え、現在彼らは、本来は彼らの特権であるはずの、自ら行動して社会を変革しようという意欲を完全に捨て去ってしまったかのように見える。 このような日本の社会的現象は世界でも特異な例であり、若者たちから精神的行動の自由を奪ってしまった社会は健全とは言い難い。 1968年当時と比較して、若者たちの置かれている環境は確実に悪化していると私は思う。 政治家は口先だけは将来の少子化を問題にしながら、既にこの世に生を受け巣立とうとしている若者たちを大切に育てようとはしていない。 社会の弱者である彼らに手を差し伸べることはせず、勉強したくても進学できず働きたくても就職できない社会を放置している。 一方では若者たちの沈黙を良いことに、政府は毎年当然のように赤字国債を発行し、堂々と富の先食いを実施して借金を将来に回している。 これはアメリカの金融機関が、市民を借金漬けにして破綻に追い込んだ構図と全く同じである。 社会に対する若者たちの抗議が、闇サイトでのいじめや無差別殺人など、卑劣な形の抵抗に変化しつつあることを大人たちは見逃してはならない。 現状を見るとき、当時私が思い描いていた日本とは全く異なった国になってしまった。 国民の血税を貪り食らう「官細胞」(注20)が肥大化する一方で、国民は我慢を強いられリストラに耐えている。 特に精神面で、この40年間に日本人が失ったものは非常に大きい。 そして現在の日本の政治の貧困には目を覆いたくなる。 注1:当時は日本も外貨が貴重な時代で、持出し外貨を申請しパスポートに記載された。 注2:Traveler’s Check/ 旅行小切手。 注3:アラスカでは原住民の呼び名のデナリ(Denali)が多く使われるという。 標高6,194m。 当時のJALの航空地図には6,187mと記されている。 注4:当時はスイスの時計が世界一とされ、日本では海外免税店価格の3倍ほどの価格が付いていた。 注5:現在ボスニアヘルツェゴヴィナ(Bosnia Herzegovina)は、ムスリム人とクロアティア人による「ボスニアヘルツェゴヴィナ連邦」と、セルビア人による「セルビア人共和国」という独自性の高い2つの地方からなっている。 バニヤルーカは「セルビア人共和国の首府である。 注6:ホテルボスナの創立は1885年から1886年頃で、当時私が泊まったのは1931年に改築された建物であった。 注7:Fabrika Celuloze i Viskoze Banja Luka(バニヤルーカのセルローズとヴィスコースの工場)の略。 注8:バニヤルーカは当時もセルビア人の多く住む町であったが、コーヒーはトルココーヒーが主流であった。 注9:1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥である皇位継承者であったフランツ・フェルディナント大公が妻と共に暗殺された。 注11:詳細は「思いつくまま・古い橋」に記す。 注13:詳細は「旅行記・イタリア紀行」に記す。 注14:ここで言うチェコはチェコスロヴァキアの略。 以下同様。 注15:Josip Broz Tito (1892.05.07-1980.05.04)、一般的に日本ではチトー大統領と呼ばれているが、本来の発音に忠実にティトー大統領とする。 注16:アレクサンデル・ドブチェク(Alexander Dubčc^ek)、1921年スロヴァキアに生まれる。 1868年にチェコスロヴァキア共産党第一書記となり、「人間の顔をした社会主義」を掲げ「プラハの春」と呼ばれる改革運動を実施した。 ドブチェクはチェコ人とスロヴァキア人が協力して新しい民主国家を築くことを望んだ。 チェコとスロヴァキアの完全分離前の1992年没。 注17:当時の共産圏(ワルシャワ条約締結国)ではロシア語は必須であり、またロシア語とチェコ語は同じスラヴ系言語なので、ロシア兵とプラハ市民は直接会話が出来た。 ユーゴスラヴィアで話されていた、セルボ・クロアティア語も同じスラヴ系言語。 注18:TELEX; Teletypewriter ExchangeまたはTeleprinter Exchangeの略。 送受信者双方が通信回線に接続したタイプライター型電信機を用いて行う文字情報による通信。 ファクシミリや電子メールの普及により、現在は特殊な用途を除きほぼ絶滅した。 注19:Martin Luther King, Jr. (1929.01.15-1968.04.04)、アフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者。 「I have a dream.」で知られる有名なスピーチを行った。 1964年にノーベル平和賞受賞。 注20:官僚の天下りを目的として、「がん細胞」のように増殖した「独立法人****」のような組織を、今後私は「官細胞」と呼ぶことにした。 注21:セルボクロアティア語(ユーゴで使用されていた言語)およびチェコ語には、英語のアルファベットでは表記できない文字があり、私の使用している「ホームページ作成ソフト」はそれらの文字に対応していない。 従って便宜的に下記のように表示した。C或いはSの上にチェック(v)マークが付いた文字: C^或いはS^ Cの上にダッシュ(')マークが付いた文字: C' |