私は1968年から1970年にかけて約20ヶ月間(この間に2回一時帰国)、旧ユーゴスラビアのバニヤルーカ市(現在ボスニアヘルツェゴビナ)にプラント建設のため滞在しました。 その折休暇をとってイタリア旅行に出かけたときのことを書きとめておいたものです。 拙文ですがご一読いただければ幸いです。
イタリア紀行
1968年8月20日
7月2日(火)
羽田を発ってからちょうど120日目、仕事を終えてすぐバニヤルーカ駅に向かった。 汽車でザグレブに出たのはスイス旅行以来2度目であった。 旅行に出るときいつも感じることは、バニヤルーカからザグレブ又はベオグラードに出るのが最も不便で時間がかかることだ。 しかしこの汽車は例外で、仕事を終えてから乗ってもザグレブに夕方7時に着くので、いろいろな方面に向かうほとんどの夜行列車に接続でき、その上ミュンヘン行きの直通寝台車が1両付いているから、そちらの方面に向かうときはありがたい。
ザグレブまでは単線で、しかも牛や羊が線路を横断することがあるので非常にゆっくり走る。 隣の席に座ったおばさんとセルボクロアティア語の片言で話をしたり、お菓子をもらって食べたりしているうちにいつの間にかザグレブに着いていた。
ザグレブはやはり国際列車の発着駅だけあって活気がある。 イスタンブールやアテネの方から来た列車、ブダペストやプラハに行くもの、ドイツ・オーストリア・フランス・イギリスまで行くもの、イタリアに行くものなど、いろいろな国のいろいろな形をした汽車が出入りしていて見ていても楽しくなってしまう。
時間待ちのため駅前を散歩したり食事をしたりしてから、ベニス行きの夜行列車に乗った。 イタリアに休暇を楽しみに行くユーゴ人の夫婦と男の子の家族連れと同室になった。 男の子は中学生くらいだったが、かなり上手に英語が話せたので眠くなるまで日本のことやユーゴのことを話し合った。
寝台車ではなかったが何時間かうつらうつらしたであろうと思われる頃国境の駅に着いた。 パスポートの点検である。 ユーゴ側で点検を受け、更に次の駅でイタリア側の点検を受ける。 イタリアに入ると汽車は急にスピードを上げ、ゆれも少なくなったような気がした。 多分線路の整備が良いのであろう。 朝方になると疲れが出てぐっすりと眠った。
7月3日(水)
朝日が照りはじめ潮風を肌に感じた。 ベニスに着いた。 9時に着くはずなのに8時だった。 駅の時計を見て、イタリアはサマータイムを実施していることを思い出した。 駅に荷物を預けインフォメーションで地図をもらい水上バスに乗った。 「サンマルコ広場は何処で降りるの!」と切符売りのおじさんに聞くと、「サン・ザッカーリヤ」と教えてくれた。 小さな島が集まってできているベニスではこの水上バスが主な交通機関であり、この大運河がメインストリートに当たる。
モーターボートやゴンドラや、ジュースや野菜を積んだ小さな貨物船がひっきりなしに行き交い、両岸には大理石の宮殿や大邸宅・教会などが昔のままの姿で残っているのが見えた。 運河に架けられた大きな石の橋を幾つかくぐり、左岸・右岸交互に設けられた停留所を十数箇所過ぎた後運河は急に広くなり、ちょうどヴェネツィア派の絵画にあるのと同じような、水と船と雲のある風景が開けた。 左岸には白とピンクの大理石で作られたドゥカーレ宮が見えてきた。
船を降りてサンマルコ広場に出ると、懐かしい映画『旅情』のテーマが聞こえてきた。 結婚後初めて妻と一緒に見に行った映画だった。 流れるメロディーに耳を澄まし、左に嘆きの橋、右にドゥカーレ宮、正面にサンマルコ寺院を見ながら、数十分間を広場にあるベンチで過ごした。
サンマルコ寺院やドゥカーレ宮の中に入ると、瞬時にしてその過ぎ去った昔のヴェネツィアがよみがえってきたような気がした。 ティツィアーノの絵や中世期のモザイクの前に立って、マルコ・ポーロの時代を想像した。
街は細い路地とゴンドラだけしか入れないような小さな運河が網の目のように張り巡らされており、その両側にガラス細工や靴屋の店が軒を並べていた。 迷路のような路地を、道を尋ねながら歩いた。 ゴンドラや寺院からは全くかけ離れた、ミニスカートがよく似合う可愛いいイタリア娘が二人歌いながら通り過ぎた。 私が振り返ると彼女たちも振り返って手を振った。
美術館ではヴェネツィア派の絵画を心行くまで見ることができた。 栄光のマリア寺院にも立ち寄ってサンタルチア駅に戻った。 もう二度と来ることがないかもしれないベニスを、もう一度見渡して汽車の乗った。
ヨーロッパの汽車はちょうど日本の2等寝台車を昼間利用しているようなもので、6人ずつの部屋に分かれており見晴らしが悪い。 同室の人とはすぐに親しくなれるが、同じ車両にどんな人達が乗っているのか、又混んでいるのか空いているのかも各部屋を覗いてみないと分からない。 だから私は日本のようなパノラマカーの方が好きである。 夜遅くフィレンツェ(フローレンス)に着いた。
|
イタリアの人形(私の人形コレクション) |
7月4日(木)
駅に荷物を預け、インフォメーションでそれまで自分で調べておいた予定の確認をする。 フィレンツェ駅のインフォメーション・デスクにいた女性は特に美人だったので記憶にある。 黒い髪に黒い目、背もあまり高過ぎず適度に日焼けした顔をほころばせながら「ドゥオモはすばらしいよ」と教えてくれた。
ここもあまり広い街ではないので歩くことにした。 このように街そのものが博物館であり、且つ美術館であるようなところは歩くのが一番である。 街は『花の都』の名にふさわしく優雅で美しかった。 ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フォーレ)/花の聖母大聖堂はやはり最高で、この旅行で見たどの教会よりも美しくすばらしかった。
サン・ロレンツォ寺院ではミケランジェロの傑作を見ることができ、当時のメジチ家の栄華の跡を偲ぶことができた。 ことに他のヨーロッパの諸都市が教会と領主の封建制度の下であえいでいた時、このフィレンツェだけが自由な空気を謳歌しルネッサンスを推し進めていたということを考えると、あらゆるものが実に興味深く新鮮にさえ見えた。
以前から一度は見たいと思っていたウフィッツィ画廊も見ることができた。 本でなじみの深いボッティチェリ・ラファエロ・ダヴィンチ・ティツィアーノ・ミケランジェロ等、実物をこの目で見る喜びは何とも言い難いものであった。
アルノ川に架けられたヴェッキオ橋のたもとで買い物をした。 フィレンツェはイタリアの中でも物価の安いところ、特に革製品やカメオなど、ローマなどと比べると2割くらい安く良いものがあった。 イタリアで買い物をするときは必ず買う前に値切らないと損である。 普通1割、物によっては2割以上も値引きしてくれたところもある。 しかし私は値切るのが苦手である。 ことに店員が若くて美しい女性のときは値切るのに気後れがしてしまう。 だから安く買うためには男の店員のいる店を選ばねばならなかった。
帰りにもう一度ドウォモの前を通り、又汽車の乗った。 いよいよ夢に見たローマである。 映画『終着駅』で有名になったテルミニ駅は美しい大理石の近代的な建物で、古いローマの街に比べて対照的だった。
ホテルは旅行費用を節約するためにペンションを利用したので、英語が全く通じず困ったが、一々「六ヵ国語会話」の本の中から適当なイタリア語を見つけ出して話した。 そのまま見せたのでは面白くなかったので、こちらがおかしな発音で棒読みにすると相手も首をかしげて聞いた後、何とか分かった様子でジュースを持ってきてくれたり風呂の水を出してくれたりした。
私の泊まった部屋の裏のビルが同じような安下宿屋らしく、おかみさんが大声で歌いながら朝食を作っていたり、亭主がベランダの植木に水をやっているのが見えた。 ボーイ兼経営者もとても親切で、こういう安宿に泊まるのも良いものだと思った。
7月5日(金)
きょうは観光バスにした。 ボルゲーゼギャラリー・パンテオン・サンピエトロ寺院・コロッセオ・フォーロロマーノなどあまりにも偉大なものを一度にたくさん見ると、感度が鈍くなるのか物に驚かなくなってしまうものである。 やはりこういうものをじっくり見るためには、1日1ヶ所くらいの時間が必要であろうとつくづく思った。
夕方時間があったのでトレヴィの泉にもう一度行ってみた。 世界各国から来た人達が思い思いの姿で好きな場所に腰を下ろして泉を見ていた。 私もその仲間入りをし、彫刻の一つ一つを丹念に見つめたり写真を撮ったり、そばにいたイタリア人と話をしたりして2・3時間を過ごした。 勿論、銅貨を1枚後ろ向きのまま肩越しに投げ入れるのを忘れなかった。
7月6日(土)
早朝ナポリに向けて出発した。 『太陽の道』を高速で飛ばす爽快な気分は、前日まで美術や歴史や古代の遺跡などで少々疲れていた頭をほぐしてくれた。 バスには主にアメリカ人の夫婦連れが多かったが、皆先方から話しかけてくれて、一人旅でも少しも寂しい思いはしなかった。
『ナポリを見て死ね』という言葉があるが、夏の太陽に光る海と美しい港、立体的に立ち並ぶ古い町が実に印象的であり、特に丘の上から見た海岸線は優美で絵のようだった。 ゆったりとした、そしてけだるいような海の音と潮風があのナポリ民謡を育てたのだろうかと思った。 バスは海岸線から一時遠ざかり、ヴェスヴィオ山を見ながらポンペイに向かった。
日差しは益々強く、2000年近くも昔の街が何事も無かったかのように光に照らし出されているのは不思議であった。 公衆浴場や娼婦の家や街角の泉に引かれた水道などがそのまま残っていた。 西暦79年ヴェスヴィオが噴火したとき、口や鼻を手で覆い倒れた女性がそのままの姿で残されていた。 しかしそこには現在の人間が作った死の灰のような残酷さは少しも感じられなかった。
バスは再び海に向かった。 峠を越えるとソレントが見えた。 絶壁の連なる海岸線、打ち寄せ砕け散る波、絶壁の上に細長く並んだ街並みとオレンジの香り、私はナポリよりソレントのほうが好きだ。 ホテルの裏庭からこの絶壁の上に出て地中海の落日を見た。
日没後バス会社の案内で展望台に『夜』を見に行った。 波音の中にかすかに見える海岸線、そこに霧のように音もなく夜が降りてきた。 帰りの車の中で運転手とテレサという名のガイド嬢と私の3人で『ソレント』(帰れソレントへ)を歌った。 原語で歌える唯一の歌だったから。 楽しかった。
旅行先の街のスプーンを集めており、ソレントのスプーンも是非欲しかったが土曜日で既に10時を過ぎていた。 明日は日曜日なので土産物屋も閉まっているに違いない。 そのことをテレサに話すと、知り合いの店に聞いてみてあげるという。 運良く店の主人が家におり、店を開けてくれて記念のスプーンが手に入った。
7月7日(日)
絶好の航海日和。 中型の観光船に乗りカプリ島に向かう。 強い日差しに焼けた肌に潮風が冷たい。 アコーディオンの奏でるメロディーが耳元を吹き抜ける。 海の色は深く青く、そしてその上に夏のイタリアの空があった。 それでも少しは霞があるのか、カプリ島が幻のようだ。
カプリに着船する前に3人乗りの小型ボートに乗り換え、ブルーグロット(青い洞窟)に入った。 海面上1m20cmくらいの高さでボートがようやく入れるくらいの海の洞穴があって、潮の具合がよくないと入れない。 中はかなり広く、小さな入口から海水を通して差し込んだ青い光が夢のように美しく、手でしぶきを上げると宝石のように砕け散った。
カプリ島ははだかの島であった。 ビキニのお嬢さんたちは皆最新型の丸くて大きなサングラスをかけ、はだしで歩いていた。 男もパンツ1枚。 誰も気取らずあけすけな感じ。 私も木陰の寝椅子でのんびり旅の疲れを癒した。 私が昼寝をしている間アメリカの老夫婦が、カメラが盗難に遭わないように見守っていてくれた。 仲良しになったカナダの親子やイスラエルの夫婦と共に再び船でソレントに帰り、夜中にローマに着いた。
7月8日(月)
早朝エアターミナルでザグレブ行きの便のチェックインを済ませてから、ヴァティカン行きのバスに乗った。 3日前のローマ観光では宮殿内部は見ていなかったので、是非見たいと思ったからである。
2人掛けのバスの座席に1人座っていると、私より年上と思われるアジア系の女性が「この席空いていますか。」と美しいイギリス英語で問いかけてきた。 「どうぞ。」と答えると、彼女は微笑んで隣の席に座った。 香港出身でオーストラリア・ニュージーランドを1人で旅して来て、これからヨーロッパを回る予定だという。 イタリア語訛りのバスガイドの聞き取り難い英語の説明に、私が分からなさそうな顔をすると流暢な英語で言い直してくれた。
システィーナ礼拝堂の天井画や最後の審判は特にすばらしく、無理をしても来てよかったと思った。 天井画が多くて少し首が疲れた。 休暇は今日までで明日からは仕事、このバスも途中下車しなければならないことを彼女に伝え「さようなら」を言った。 一瞬寂しげな様子を浮かべた顔が愛らしかった。
午後2時10分、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港を後にした。 20代最後の旅行として良い思い出になることだろう。