山のしづく
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旅行記
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北欧の旅・2007

8月4日(土)

今回は『2大フィヨルドをめぐる北欧4カ国周遊紀行』という旅行社の企画したツアーに妻と2人で参加した。 午前9時に中部国際空港に集合、11時発ヘルシンキ行きフィンランド航空AY080便に乗った。 旅のメンバーは両頬の笑窪が可愛い女性添乗員のKさんと、学習図書出版社社長と編集責任者の男性2人の計5名だけであった。 

機内の煙検出器が故障しその交換のために出発が30分ほど遅れたが、ほぼ定刻の15時10分にヘルシンキ空港に到着した。 フィンランドはサマータイムのため日本との時差は6時間。 機体はエアバスで窓際の2席を確保できたので、隣席の人に気兼ねすることなく、時折足の運動と水分の補充に心がけながら10時間余りのフライトを楽しんだ。 

飛行機がヘルシンキ空港に向って高度を下げると、海に点在する無数の島の濃い緑が見えてきた。 フィンランドは『森と湖の国』とよく言われる。 しかし森のほとんどは人が手を入れてきたもので、自然のままの原生林はほとんど無いのだそうだ。 それでも人々が自然を愛し自然の中にいる妖精を信じて大切にしてきたからこそ、すべての森が昔から自然のまま残されてきたかのような錯覚に我々は陥ってしまう。 

ヘルシンキは1990年3月7日トルコへの出張の途中1泊して以来である。 参加者4名のツアーであっても大型の観光バスが空港に出迎えており、早速ヘルシンキ市内の観光に出かけた。 先ずは岩をくり抜いて作られたテンペリアウキオ教会。 ここからはヘルシンキ在住の日本人女性ガイドの説明付きである。 岩をくり抜いたといっても完全に洞窟の中にあるわけではなく、大きなお皿を伏せて周囲に放射線状のタービンの羽をつけたような円形の天井から自然の採光が考えられており、小さなパイプオルガンと祭壇がしつらえられている他はオーソドックスな教会という雰囲気はほとんど無く、掘ったままの岩の壁に囲まれた空間で我々異教徒も心を落ち着かせて、深くものを考えたり瞑想に耽ったりする場所として居心地の良さを覚えた。 

次は市の北西に位置するシベリウス公園のモニュメントを見に行く。 自然の岩の台座の上にステンレスパイプを2組の氷柱のように立てたオブジェがあり、その傍らに生首を思わせるシベリウスの頭部と内臓らしき塊(私がそのように思っただけで、本当は何なのかは不明)が置かれているものであった。 ステンレス製オブジェの完成後ヘルシンキ市民から不評を買ったため、急遽シベリウスの首を傍らに置いたのだそうである。 週末の午後の公園には裸で日光浴をする家族連れが見られた。 

フィンランドでは、例えば草花や木の実・茸などの自然の恵みは、栽培されているもの以外であれば土地の所有者でなくても、誰でも自由に採取することができるという伝統があるという。 私の育った木曽御嶽の麓の村など日本の田舎でも、私が子供の頃までは他人の山に入って自由に採取してもとがめられることは無かったように思う。 

バスはシベリウス公園を発ちオリンピック競技場の前を通った。 第2次世界大戦後初めて日本が参加したヘルシンキ・オリンピックの実況中継を、自作のラジオで聞いた少年の頃を懐かしく思い出した。 競技場からマンネルヘイミン通りを南下して、国立オペラ座・国際会議場・国立博物館・フィンランディアが初演されたスウェーデン劇場を経てフェリー南港に面したマーケット広場に停車した。 広場の北には道路を挟んで大統領官邸と市庁舎があり、東にはウスペンスキー寺院が見えた。 ロシア風の赤レンガ造りで、緑色の屋根の上にはロシア正教のシンボルである玉ねぎ形の黄金と十字架が乗っていた。 

バスは300メートルほど北上して元老院広場に停車した。 石畳の広場で北にはヘルシンキ大聖堂が、西にはヘルシンキ大学があり、中央にはロシア皇帝アレクサンドル2世の立像がある。 ヘルシンキ大聖堂は広場から階段で登る高台にあり、ギリシャ神殿風の正門と白亜のドームに緑の屋根が調和して、シンプルで爽やかな印象を受けた。 

その後バスはヘルシンキ中央駅を経由して、宿舎であるソコス・ホテル・プレジデンティに着いた。 小休止後近くのレストランで夕食を済ませ、帰りにスーパーマーケットで飲料水のボトルと苺を買ってホテルに戻った。 念のために妻はボトルの水を、私は水道水を呑んだ。 水道水の方が冷たくてボトルの水よりもずっと美味い。 今日はいつもより6時間長い1日だった。 ビタミン補給のために苺を食べて寝ることにした。 

8月5日(日)

早朝5時45分にモーニングコールが鳴り、6時30分に朝食を済ませ、7時に乗り合いタクシーで空港に向った。 ヘルシンキ空港にはムーミンショップがあり土産を買った。 09:30ヘルシンキ発、09:30ストックホルム着(時差が1時間あるため同じ時刻着)のフィンランド航空AY635に乗った。 空港にはガイドが出迎えてくれており、バスでストックホルム観光に出る。 ノーベル賞受賞祝賀晩餐会会場として名高い市庁舎に到着、なぜかここでガイドが交代する。 多分前者がスウェーデン全般にわたるガイドで、後者がストックホルム市内専門のガイドと思われる。 フィンランドと同様地元在住のベテラン女性ガイドで、ジョークを交えた説明は専門職であることを感じさせるものであった。 市庁舎は赤レンガの壁にゴシック風の小窓が並んでいる宮殿のような建物で1階は晩餐会会場となっており、内部では受賞者がどこから入ってきて食事はどこから運ばれてくるかなど詳しい説明を受けた。 2階はヴァイキング船の船底に倣って作られた木造の天井のある市議会の議場となっている。 200年前のコブラン織りのタペストリーに囲まれた小部屋は市民の結婚式場として使われており、厳粛な祈りと誓いが行われるが一生添い遂げるカップルは少ないそうである。 1900万枚の金箔モザイクで作られた壁画のある黄金の間は、晴れやかなノーベル賞受賞パーティーの舞踏会用広間にふさわしい。 日本の受賞者が受賞決定後ダンスの特訓を受けたという話も納得できる。 中庭からメーラレン湖に面した庭園に出ると、リッダーホルメン島にあるリッダーホルメン教会の尖塔が見えた。 

旧市街ガムラスタンと王宮の周辺を散策し、野外博物館スカンセンのあるユールゴーデン島をバスで周回した後、ガムラスタンの南にあるセーデルマルム島にバスは向って停車した。 平地ばかりの土地にしては珍しく、この島の北側はメーラレン湖に面した高台になっており、市庁舎の中庭からの眺めとは反対にガムラスタンとその北に広がるストックホルムの街を一望することができた。 

ここスウェーデンもフィンランドの伝統とよく似た『山野享受権』と言う法律があり、国営林に自由に入って自然の恵みを採取する権利がすべての国民に与えられていると言う。 

ガムラスタンに戻り昼食を取った後今日のツアーはここで解散、午後は自由行動となった。 ベテランのガイドさんとはここでお別れ、添乗員のKさんは我々のスーツケースを積んだバスで郊外のホテルに帰り、同行のHさんとAさんのお二人はスウェーデンの現王室がお住まいのドロットニングホルム宮殿にフェリーで出かけた。 私たちもご一緒しようかと思ったが、少々疲れ気味でもあり又ストックホルムの街の中もまだ見足りなかったので街の中を散歩することにした。 市内のホテルであれば一旦ホテルに帰って休息してから出直すことができるのであるが、中央駅から電車で24分もかかる郊外の住宅地にホテルはあるので、疲れていても観光を続行するしかない。 幸い今回は同行のお二人も私たちも旅慣れていたので、自分たちで電車に乗ってホテルに戻ることに不安は無かったが、大勢のツアーだったら何人かの人たちは添乗員のKさんと一緒にバスでホテルに戻り、午後はホテルで昼寝をして過ごす他はなかったかもしれない。 

旅行社の計画の不手際或いはコスト削減のためのしわ寄せをよく理解している添乗員やガイドさんたちが我々のことを気遣ってくれて、電車の地図・停車駅・時刻表・切符の買い方なども丁寧に教えてくれた。 ガイドのTさんなどは、万一のために自宅の電話番号まで教えてくれた。 

妻と私はガムラスタンをもう一度ゆっくり見るためにガムラスタン島の南端まで行き、そこからヴェステルロングガータン通りを北上して街歩きを楽しんだ。 途中古い街並みの間からドイツ教会や大聖堂が見えた。 再び王宮に戻り衛兵の交代を見物して北上し、橋を渡り国会議事堂が占有している小さな島・ヘランズホルメン島の議事堂の中庭を通り、法務省・外務省・政府庁舎などの立並ぶ官庁街のドゥロットニング通りを通ってヴァット通りに出て左折し陸橋を渡って中央駅に出た。 

ホテルの場所はストックホルム中央駅から郊外電車に乗って南へ約24分、ハンデン駅の近くにあると言う。 ちょうど私の住んでいる名古屋から高蔵寺までの距離だ。 ガイドさんから聞いていたとおり乗車券は39クローネでキオスクで買った。 駅で買うと60クローネだそうだ。 電車は30分毎に出ている。 

夏休み中らしい中学生と乗り合わせた。 男子生徒数名と通路を挟んで反対側に女子生徒2名がいた。 何れもスウェーデン語らしい言葉で談笑していたが、突然男子生徒の1人が女子生徒の後ろの席に移り、「君の携帯電話番号を教えてくれない?」と二人の女子生徒に英語で話しかけた。 最初2人の女子生徒ははにかんでいたが、そのうちの1人が微笑みながら自分の携帯電話をその少年に見せた。 彼は大喜びで友人たちに自慢し、次の駅で手を振りながら降りて行った。 女子生徒も手を振り返していた。 私たちは皆スウェーデンの子供たちと思っていたが、男子生徒がそのときだけ英語を使ったことから推察して、女子生徒は私には言葉の区別がつかないノルウェー語かデンマーク語で話をしていたのかもしれない。 男女交際の面では私達の頃に比べると日本の生徒も最近は相当積極的になったようではあるが、休暇で遊びに来ている韓国や中国や台湾の女子生徒にこんな風に話ができるかというと疑問である。 

電車に乗って気がついたことはカーテンが無いことである。 晴れ間があれば寸暇を惜しんで日光浴をする人達なので、なぜカーテンが必要なのかと叱られてしまうかもしれない。 北欧に来ると感じるのは光の具合が日本と違うことである。 日本とほぼ同じ緯度にある国々や更に赤道に近い国々では、太陽の光が横から射すのは日の出直後か或いは落日のときの僅かな時間であり、その貴重な時間帯の自然の情景を描写した詩歌が多く生れている。 一方北欧では真夏は太陽がある程度高くなることはあるにせよ、一年を通して太陽の光線が横から射す時間が圧倒的に長い。 夜が明け日が昇る時間、夕日が沈む時間が非常に長い。 日本のようにご来光のシャッターチャンスを逃すほど朝日が瞬く間に昇り、太陽の動きが見えるほど夕日が早く落ちるということはありえない。 長い影と強いコントラストは、人々の精神性や芸術性に影響を与えているのではないかと私は思う。 

ホテルでは添乗員のKさんが、私たちが無事にホテルにたどり着けるかどうかを心配して、ホテルの入口から駅のプラットフォームを眺めながら帰りを待っていてくれた。 

8月6日(月)

6時にモーニングコール、7時に朝食を済ませ7時45分にホテルを出発。 タクシーが狭くてスーツケースの隙間に人間がすし詰めになって空港に向う。 10:30ストックホルム発、12:00ベルゲン着のフィンランド航空AY6851に乗った。 ベルゲンはノルウェー第2の都市。 19世紀には北欧最大の都市であった。 ここでも地元在住の日本人女性ガイドの気さくな説明が旅の疲れを忘れさせてくれた。 

13世紀から16世紀にかけてベルゲンとヨーロッパ各地の交易を牛耳っていたドイツのハンザ商人たちの貿易事務所だったブリッゲン地区を見学する。 魚市場では名物のサーモンや海老や鱈子の味見をする。 魚の他にも野菜・果物・ジャム・衣類・園芸用草花に至るまでテントに並んでいた。 ガイドの女性が小さなピンクの花を指して、ノルウェーの国花ヒースだと教えてくれた。 後で調べるとヒースに似ているが本当の名はギョリュウモドキと言って、海岸地帯から高山まで国中に生育し夏に小さなピンクの花をつけ蜂などの昆虫が蜜を吸いに集ってくるとのこと。 

ベルゲンの町が一望できるフロイエン山にケーブルカーで登りパノラマを楽しんだ。 半島に囲まれた深い入り江には古い街並みがひしめき合って建っており、小型船は入り江の中に、大型船は半島の対岸にある突堤の先に停泊していた。 半島の沖合にも大きな島影が幾つも横たわっており、それを縫うように白い大型の客船が外洋に向っているのが見えた。 

午後は自由行動となったが時間が限られているため遠出はできず、同行のHさん・Aさんと一緒に魚市場の近くにあるハンザ博物館を見学することにした。 18世紀初頭に建てられた木造の商館を利用した博物館で、内部は16世紀当時のハンザ商人の生活ぶりを再現していた。 日本の正月のおせち料理に使う棒鱈を連想させる、ベルゲンを発展させた最大の輸出品であった鱈の干物が大量に展示されていた。 天日で3ヶ月間乾燥させ貯蔵しておいたものは、中世ヨーロッパを襲った飢饉の重要な食料であったという。 10日間ほど真水に浸して戻したものは、焼いても煮ても美味しくて現代の冷凍保存よりも優れているかもしれない。 当時のハンザ商人たちが宿泊したベッドは大柄のドイツ人にとっては小さく窮屈で、カプセルか昔の三等寝台車を思わせる広さで、仕切り用の引戸の内側には美人画が描かれていた。 祈祷所や帳簿を付ける部屋・会議室などもあった。 

妻と2人でブリッゲン地区を再び見て回った。 この日のホテルも市内ではなく20kmほど離れた空港の近くのホテルだったため、集合時刻になるまで観光案内所のベンチで一休みし、無料配布のベルゲン・フィヨルド旅行のパンフレットを読みながら時間をつぶした。 時間になり約束の場所に集合、5人でバスに乗りホテルに向った。 ホテルはスカンディックホテル・ベルゲンエアポート。 明日の早朝飛行機に乗るわけでもないのに何故空港のホテルに泊まるのだろう。 ツアー料金は安くはないのに、多分宿泊料金節減のために違いないと、旅行会社を恨みながらホテルに着いた。 

8月7日(火)

6:15モーニングコール、7:00朝食、7:25出発。 今日はいよいよフィヨルド観光の日だ。 ベルゲンやフィヨルドは天候の悪い日が多く、晴れるのは本当に運が良いと添乗員のKさんが言う。 予定時刻を少し過ぎた頃大型バスが迎えに来る。 空港近くにあるホテルからベルゲン市を経て、ベルゲン鉄道とフィヨルドに沿ってE16号線をヴォスまで約70km、そこでベルゲン鉄道から分れて北上、オップヘイム・スヴァトネ湖を過ぎた後、バスはE16号線から分れてスタールヘイム・スクレイヴァ道に入る。 

この道はソグネ・フィヨルド観光船が出ているグドゥヴァンゲンに至る本線E16号線から枝分れしたバスが漸く1台通行できる幅の山岳道路で、ナーロイダーレン渓谷沿いに走っている。 通常は霧が多く、通行できない場合はバイパス道路のE16号線をグドゥヴァンゲンまで直行することが多いと言う。 運転手も気のいい人で景色の良いところでは徐行してくれた。 ヴォスからグドゥヴァンゲンまで約1時間余り、急なつづら折りの山道を右に左に滝を見ながら進む。 先ず右手にスタールヘイム滝、続いて左手にスィヴレ滝を見ながら13のヘアピンカーブを登り、頂上のスタールヘイム・ホテルに着いた。 ホテルの裏の展望台から、氷河に削られたU字型の雄大な風景に見とれると同時に自然の偉大さに胸を打たれる。 

グドゥヴァンゲンでバスを下車し、ソグネ・フィヨルドの観光が始まる。 ソグネ・フィヨルドは長さ204キロメートル、水深は一番深いところで1308メートル、世界一の長さと水深を誇る。 大地の裂け目はベルゲンの北から枝分れしながら内陸に進み、海水が浸入してフィヨルドを形成している。 我々が観光するのは、ソグネ・フィヨルドが南に折れ曲がって2本に枝分れした細い先端部分の、ネーロイ・フィヨルドとアウラン・フィヨルドである。 フィヨルドの大海に近い部分は幅が数キロメートルにも及ぶので、最奥端の幅が狭い部分でないと観光に向かないのかもしれない。 それでも2・3百メートルの幅はあるように思われ、観光船も300人ほどは乗れる大型船だ。 ネーロイ・フィヨルドの末端にあるグドゥヴァンゲンを11:30に出発、もう一方の枝のアウラン・フィヨルドとの合流点まで北東に進む。 両岸には氷河に削られた断崖が迫り、無数の滝が見える。 天候が良いので水の枯れた滝もかなりあるようだ。 

岸辺に僅かばかりの平地ができているところには村があって、小さな農家がひしめき合って建っていた。 フェリーが唯一の交通機関であろうと思われる。 1時間ほどでアウラン・フィヨルドとの分岐点に到達する。 海であるため水の流れは無いのに、川のように枝分れしている光景は不思議である。 アウラン・フィヨルドを45分間ほど南下しこのフィヨルドの末端にある町フロムに13:15に到着した。 船着場の近くのレストランでフィヨルドの風景を見ながら、列車の発車時刻に間に合うよう大急ぎでます料理の昼食を取る。 モーターボートを泊めてある桟橋があり手を伸ばせば海面に届きそうであったが、危険を感じここでの塩分濃度のチェックはあきらめた。 

14:50フロム発のフロム鉄道に乗る。 フロムからミュルダールまでの全長20.2キロメートル、海抜2メートルから866メートルまでの急勾配を約1時間かけてゆっくりと進む。 車窓からはフロム川に沿ったフロム谷の渓谷・滝・絶壁・牧場が次々と迫って来る。 列車は電気機関車が牽引しており、幾度か急旋回を繰り返しながら進む。 路線は単線で中央の駅で上りと下りがすれ違う。 途中フロムから15.8キロメートル(逆にミュルダールから4.4キロメートル)の地点にあるショッスフォッセン駅で、観光客が滝を見るため列車は一次停車する。 「混雑するので早めに出口に出ていたほうがいいですよ。」との添乗員のKさんのアドバイスに従って、列車の停車と同時に真っ先に下車し、プラットフォームの直ぐ前に落下するショッスフォッセンの滝を水しぶきを浴びながら、他の観光客に邪魔されずにカメラに収めることができた。 

トンネルは20ヶ所、そのうち3ヶ所は河川や谷底をくぐっている。 最高時速は毎時上り40km・下り30km(上りの方が早い)、橋1ヶ所、勾配は全長の8割までが55/1000。 蒸気機関車での運転開始は1940年で、電化は1944年だったそうである。 15:47にミュルダールに到着した。 

ミュルダールでベルゲン線に乗換える。 駅には海抜866.8メートルの標識があった。麓まで残雪が残る小高い山に四方を囲まれており、小型のリュックサックを背負ったハイキング帰りの人々で賑わっていた。 本当はベルゲン/オスロ間471.2キロメートルを約7時間で結ぶベルゲン急行に乗りたかったのであるが、今回はその極一部であるミュルダールからヴォスまでローカル快速列車に乗った。 ミュルダール16:15発、ヴォス16:57着。 ヴォスで我々の観光バスが待っており、ハダンゲル・フィヨルドの北端にあるウルヴィックに移動、18:30リカブラカネス・ホテルに到着した。 

このホテルはハダンゲル・フィヨルドの最奥端に面しており、部屋の窓からフィヨルドを一望することができた。 海とはいえ外洋から百数十キロメートルも入り組んだフィヨルドの奥深くに位置しているため、水面は鏡のように静かで高原の湖畔に来ているような錯覚に陥りそうであった。 午前中にクルーズを楽しんだソグネ・フィヨルドと比べると、両岸に山が迫っていないせいか荒々しさはなく穏やかな風景であった。 ホテルの裏庭の浅瀬で海水を舐めてみると塩分は全くなかった。 フロムの船着場もここと同様に多分真水に近かったであろうと思った。 夜は10時近くまで薄日が射しており、対岸の村々に明かりがともる頃までフィヨルドの夕暮れを眺めていた。 

8月8日(水)

5:45モーニングコール、6:20朝食、6:45出発。 今夜は船中泊なので洗面用具・着替えなど身の回り品はキャビンに持ち込める手荷物に入れ、スーツケースはチッキで預けることになる。 予定通り大型バスが迎えに来る。 乗客は添乗員を含めて5人だが見晴らしの良い大型バスが良い。 

内陸深くまで複雑に切り込んでいるフィヨルドに道路は至る所で寸断されているため、フェリーは重要な交通手段の一つとなっている。 ホテルのあるウルヴィックから572号線を南下し、ハダンゲル・フィヨルドの2つの支流の合流点にあたるブルラヴィク/ブリムネス間をフェリーで渡った。 半そでシャツ1枚の軽装では多少肌寒さを感じたが、バスからフェリーの甲板に降り30分に満たない航海を楽しんだ。 夜明けは早くても日昇に時間がかかる北欧の朝は長く、朝靄の中に浮かび上がるフィヨルドの景観は、昨日の観光船からの眺めとは異なり神秘的で心に残るものとなった。 

フェリーを降りた後バスは7号線に入り、オスロへの幹線道路E16号線に合流するため東に向った。 ウルヴィックからオスロまで約350キロメートルあり、そのほとんどが山岳道路のため6−7時間はかかるという。 オスロ市内の観光とコペンハーゲン行きの今夜の船の出発時刻に間に合わせるため、7時半発のフェリーには必ず乗らなければならないと添乗員のKさんは急いでいた。 今回はたまたま4名だけであったが、普通は20人か30人の客を引率する添乗員は、どのようにこのタイトスケジュールをこなすのか感心したり驚いたりした。 

バスはハダンゲル・フィヨルドが東に分岐した岸辺に沿って走り、その東端を過ぎるとそこはもう海ではなく淡水の氷河湖・エイト・フィヨルド湖だった。 近くに水力発電所があると言う。 そこから少し寄り道をしてヴェーリング滝を見に行った。 我々のバスの運転手は気の良い人で、タイトな時間を切り詰めてサービスをしてくれた。 滝の落差は182メートルある。 上流には別荘が点在する高原があり、昔氷河に削り取られたと思われる断崖に向って一気に流れ落ちる様子が展望台から一望できた。 観光船からフィヨルドに流れ落ちる幾つもの滝を見上げたとき、その水量の多さに水源はどのようになっているのであろうかと不思議に思ったが、その謎が解けたような気がした。 展望台の近くにはホテルもあり薄紫の可憐な花が咲き乱れていた。 

ここから道は大型バスが辛うじて通れるほどの細い山道となった。 等間隔で大型車両がすれ違うための待避車線が設けられていた。 オスロまでトンネルの数は42あると言うが人によって数が違うのだそうだ。 トンネルがらせん状に掘ってあり、山の中を効率よく高度を上げ、バスは息継ぎでもするかのように時々山中から顔を出した。 トンネルの切れ目から一瞬目にする外界の景色は、シャッターチャンスの一こまのように鮮やかに目に焼きついた。 山を切り開いて道路を造るよりも、トンネルの方が雪崩の心配をする必要が無くて良いのだそうだ。 左手後方はるかにハダンゲル・フィヨルドが霞んで見えた。

 

やがて木が無くなり、この道路の最高点である海抜1250メートルに到達した。 高度はさほど高くないにもかかわらず、一面苔に覆われた原野に万年雪を岸辺に残した湖が見えた。 日本の中部地方の山の生態系と比べると、高度差は2000メートルほどあるのではないかと思われた。 

高度を下げるに従ってバスの車窓からの景観は緑の草原と湿地帯となり、残雪が点在する風景に変わっていった。 道路わきには長さ3メートルほどの、スキーの回転競技を思わせるスノーポールが要所要所の立てられていた。 この道路は冬も交通を確保する必要があるため、雪かき車の目印なのだそうだ。 ハウガストゥールから7号線はベルゲン鉄道と並行して走るようになる。 高度985メートルにあるウステ湖を過ぎるあたりから低木が見え始め、やがて白樺の林が続くようになると別荘の数が多くなった。 

ノルウェーの人達は特にお金持ちでなくでも、普通の会社員や労働者のほとんどは別荘を持っており、休日には家族で自然の中で生活を楽しむのことが習慣になっているそうである。 家々には暖炉があるらしく煙突が見え、軒先にはきれいに整頓された薪が積んであった。 小学生の頃学校から帰ると直ぐに薪割りをしてから遊びに行ったことを思い出した。 

ハリンダー川に沿ってバスは下り、オスロまで120キロメートルほどの地点にあるクローデレン湖畔のコーヒーショップで休憩しケーキを食べた。 予定は順調で11:25にそこを出発、檜・松等の針葉樹林帯を抜けリンゲリケからE16号線に合流、右手にティーリ・フィヨルド湖・左手にステインス・フィヨルド湖を見ながらオスロに入った。 

私はこの旅行でベルゲン鉄道を全線にわたって乗れないことを当初は悔やんでいたが、この日のバス旅行はその全行程を鉄道旅行に勝るとも劣らないルートで旅することができて大変満足だった。 

バスは一旦オスロ中央駅で停車し、駅構内の食堂で遅い昼食をとった後オスロ市内の駆け足観光に出かけた。 バスは中央駅からカール・ヨハン大通りに入り、車窓からオスロ大聖堂・国会議事堂などを見て王宮へ向った。 ムンクの『叫び』が収められた国立美術館で一旦下車し、ムンクの部屋だけを鑑賞した。 『叫び』の他に『橋の上の少女』・『マドンナ』・『ラファイェ通り』・『病気の子』などを鑑賞することができた。 中でも『病気の子』に感銘を受けた。 ガイドの説明によればムンクが14歳のとき結核で亡くなった姉と、姉の死が近いことを告げられた叔母が悲しんでいる場面を、後にムンクが想像して描いたものだという。 帰国後この絵のことについて調べてみると、悲しんでいるのは叔母ではなくて、ムンクが5歳のときに亡くなった母ではないかという説が有力である。 現実的にはあり得ないことであるが、ムンクの生い立ちと精神性を考えると理解できるような気がする。 美術館とか博物館は充分に時間をかけて見るものと思いがちであるが、このように目的を絞って短時間に集中して鑑賞する方がむしろ印象が強く残るものである。 僅か15分間の鑑賞であったが記憶は鮮明である。 

昨日のフィヨルド観光からオスロまでのバスの旅はガイドが付かず添乗員のKさんの説明であったが、オスロの市内観光は専門のガイドが付いた。 ここも地元在住の大変ユニークな話し振りの日本人女性だった。 例えば『これからムンクの叫びを見に行きましょうね。 時間が無いのでしっかり見るのよ。 混んでいないといいわね。 入口に石段があるからつまずかないように気をつけるのよ。』といった具合に、母親が幼子に言うような優しい口調で、最初は笑いを抑えるのに苦労した。 この話し方は彼女の個性であって日本語が堪能でないことに起因しているわけではなく、彼女は日本生まれの生粋の日本人に違いない。 しかし説明の内容はすばらしく、短時間の滞在中にオスロに関するできる限り多くのことを我々に伝えたいという情熱を感じた。 

今回のツアーではヘルシンキ2人・ストックホルム・ベルゲン・オスロ・この後のコペンハーゲンと、全員地元在住の日本人ガイドであった。 異国に住むことの厳しさや過酷さを現実に体験した上で、その土地とそこに住む人達への愛着が彼女(彼)たちの説明の中ににじみ出ているような気がした。 

オスロの市街地から少し離れたところにあるヴィーゲラン公園(別名フログネル公園)に立ち寄った。 オスロ市民から親しまれているグスタフ・ヴィーゲランという彫刻家の作品が公園中を埋め尽くしており、オスロ市が彼に提供したアトリエも建っている。 作品の多くは胎児から老人に至るまで、男女の人間の彫刻である。 園内にはピクニックエリアもあり、市民の憩いの場所となっているとのことである。 ストックホルムのミレスゴーデンやこのヴィーゲラン公園のような屋外美術館は、太陽を求める北欧の人々の好みに合っているのかもしれない。 

夕刻オスロ第2埠頭から出発するDFDSシーウェイズ(デンマーク船籍)のクラウン・オブ・スカンディナヴィア号に乗船した。 この船は17:00にオスロを出発し翌朝9:30にコペンハーゲンに到着する。 その逆も全く同時刻にコペンハーゲンを出発し、オスロに朝到着する便がある。 総トン数35,498トン・客室637室・乗客定員1940人・車は450台積める。 船は12層で乗船口は5階にあり私たちの船室は6階の右舷にあった。 室内は比較的広く2台のソファーベッドとその上に1台ずつ寝台車のように壁からベッドが出る仕組みで、4人家族が一緒に泊まれるようになっている。 入口には小さな机とトイレ・シャワールームが付いていた。 

夕食までの間甲板に出て風に当たりながらオスロ・フィヨルドの両岸の景色を眺めた。 オスロは外海から100キロメートルほどフィヨルドを内陸に入った奥にあるため、外海に出るまでは海面は静かで両岸には森とその中に点在する別荘が見えた。 夕食は船内のレストランでスモーガスボード(日本のバイキング)を食べる。 それまで旅行社から提供された食事は北欧らしからぬものが多かったが、ここで初めて北欧らしい食事を味わうことができた。 

8月9日(木)

私達の船室の外には通路が無く海なので、カーテンを開けたまま眠った。 今朝はモーニングコールが無いため久しぶりにゆっくり眠った。 8時頃朝食をとり9時30分に予定通りコペンハーゲンの港に到着した。 港にはヘルシンキやストックホルムと同様に観光バスが私たちを出迎えており市内観光に出かける。 

先ずゲフィオンの噴水・アンデルセンの人魚姫の像・アマリエンボー宮殿などを見る。 人魚姫の像はオスロからのフェリーが到着した桟橋から1キロメートルほど南の、石ころだらけの何の変哲も無い海岸にある。 岸から2メートルほど離れた岩の上に不安定で今にも転がり落ちそうな石を乗せたその上に、正座したまま足を横に崩したときのように尾ひれを曲げ、ややうつむき加減に海を背にして座っている。 高さ約80センチメートルの可愛いブロンズ像で、有名な割には小さくて遠くからは見えないが人だかりがしているのでそれと分かる。 午前中は太陽が海側にあるので逆光で写真が撮りにくい。 38年前に来たときもこれと同じ状態だったことを思い出した。 しかしその後幾度も首を切り落とされたり腕をもぎ取られたり爆破までされたと聞いているので、今見ているのは昔の像とは違うはずだ。 

近くの入り江にはデンマーク皇室のヨットが停泊していた。 ご家族で時々船旅をされるそうである。 皇室の船だからといって、大きくて豪華というわけではなかった。 

その後バスは運河沿いに南下しアメリエンボー宮殿で下車、十字路の対角線上に建てられた4つの建物からなる宮殿の外観と、熊の毛皮の帽子をかぶった衛兵の交代を見る。 宮殿と対を成す大理石でできた、緑色のドームが鮮やかなフレデリクス教会の方が宮殿よりも豪華に見えた。  宮殿の東側には運河を挟んで2005年にオープンした超近代的なオペラハウスの建物が見えた。 

コペンハーゲンのガイドは地元在住の日本人の男性で、落ち着いた口調の丁寧な説明が印象深い。 その後観光バスはニューハウン・運河めぐり遊覧船発着場・クリスチャンスボー城(現国会議事堂)・国立博物館・市庁舎などを車窓から見ながら周り、午前中の観光は終了した。 このような観光はバスに乗って説明を聞いているだけで、後にはほとんど何も残らない。 むしろ何処か1ヶ所に絞ってじっくり見学するか、或いは公園でのんびり過ごす方がよいかもしれない。 

午後はフリータイムだったので、妻の希望によりデンマーク工芸博物館にタクシーで出かけた。 デンマークの伝統的な室内装飾の歴史や、家具などが多く展示されていた。 中でも昔からの椅子の変遷が興味深かった。 コペンハーゲン市の北東の外れにある工芸博物館から南西にあるホテルまでは3キロメートルほどの距離であったが徒歩でホテルに戻った。 街を見るには歩くのが一番良い。 途中繁華街ストロイエ通りにあるロイヤルコペンハーゲンの本店に立ち寄り、陶器を見て一つだけみやげ物を買った。 

コペンハーゲンは昔から北欧のハブ空港であったため東欧出張の帰りによく立ち寄り、その度に市庁舎広場の近くにホテルをとって周辺を散歩したものである。 前回この街に立ち寄ったのは1991年7月のプラハ出張の帰りであったから、16年ぶりの訪問である。 日本であれば街の様子はすっかり変わっているに違いないが、この街の佇まいや建物は昔のままであり懐かしさを覚えた。 800年の歴史の中の16年は一瞬に過ぎないのかもしれない。 同じ店で同じブランドのチョコレートを土産に買った。 16年前に買った空箱を今も筆入れとして使っており、比べてみると箱の図柄が少し変わっていただけで、箱の大きさも中身のチョコレートの味も昔と同じであった。 市庁舎広場を横切りティヴォリ公園の前を通って、ホテル・スカンディック・コペンハーゲンに戻った。 

8月10日(金)

今回の旅行も今日が最終日、少し疲れた。 ホテル9:30出発、コペンハーゲン空港11:00チェックイン。 美味しいデンマークチーズを買う。 13:10コペンハーゲン発、15:45ヘルシンキ着のフィンランド航空AY666に乗った。 ヘルシンキ空港でトランジット。 17:15ヘルシンキ発フィンランド航空AY079に乗り、8月11日(土)8:55定刻に中部国際空港に到着した。 帰りの便もほぼ満席であったが疲れていたせいかゆっくり休めた。 

今回の旅は事情により結果として妻と2人だけで出かけることになったが、元々自分で計画したわけではなかった。 往復の旅程を含めて8日間、正味6日間でフィンランド・スウェーデン・ノルウェー・デンマークの4カ国を観光し各国間の移動の大半は航空機でしかもツアー旅行という、私が考える旅の理想からは遠くかけ離れた最悪の計画であったが、折角申し込んであったため参加することにした。 しかし実際には参加人員4名のツアーとなり、ツアー旅行の短所の大部分が無くなる一方、長所である添乗員やベテランのガイドによる説明と旅行中の手荷物の心配をする必要が無いという利点を享受することができた。 更に添乗員のKさんの明るく細やかな心配りと、同行のHさん・Aさんのお人柄と折に触れて私たち老夫婦に対し暖かく接してくださったことが、この旅を楽しく思い出深いものにしてくれた。



旅のアルバム(北欧2007)
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