山のしづく
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旅行記
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北欧の旅・1969

2007年9月29日作成

今年2007年8月北欧を旅行した機会に、38年前の1969年8月の北欧旅行を思い出してみることにしたい。 当時私は旧ユーゴスラヴィア(現ボスニアヘルツェゴヴィナ)のバニヤルーカ市でプラント建設に従事していた。 まだ海外出張は珍しい時代で、会社も出張者に対して業務以外であっても便宜を図ってくれた。 出張用往復航空券を購入する際、例えば羽田・パリ・ザグレブ・パリ・羽田と買う代わりに、羽田・パリ・ザグレブ・ストックホルム・コペンハーゲン・ザグレブ・パリ・羽田のルートで航空券を購入してくれた。 超過料金は僅かでその分は自費で支払った。 このオープンチケットを持っていれば、滞在中の休日を利用してザグレブから北欧旅行をしてザグレブに戻ってこられる。 

2年にわたるプラントの建設工事がほぼ完了し試運転開始を目前に控えて、この機会を逸すると当分プラントに貼り付けになるため、当時私が派遣されていたアメリカ・CT社の直属のボス・ミスターGSと、派遣元の本来の私の上司であるプロジェクトマネージャーのKKさんに遅い夏休みの休暇を願い出た。 ミスターGSは即座にOKをくださり、KKさんも「気をつけて行って来いよ!あまり冒険はするなよ!」と笑顔で送り出してくださった。 今は亡きKKさんは、若輩の私にプラントエンジニアリングの仕事を早くから与えてくださった恩人である。 

1969年8月27日(水)

下着2・3枚と愛用のカメラをナップサックに詰め、バニヤルーカ12時発のザグレブ行きのバスに乗った。 ザグレブまで約180キロメートル、その中60キロは普通の道路を、120キロは自動車専用道路を走る。 点在する町の停留所は高速道路から離れており、バスが寄り道をするので時間がかかる。 15時にザグレブに到着、バスターミナルでバスを乗り継ぎ空港に着く頃には夕方になっていた。 JAT(ユーゴスラヴィア航空)のオフィスで時刻表を調べてもらい往復のフライトの予約をした。 バニヤルーカの旅行代理店でもフライトの予約はできなくはなかったが、結果が分かるまで2・3日かかり変更やキャンセルがしにくかったので、急に決まった旅行は空港に出てから予定を立てることが多かった。 

その日のうちにストックホルムまで行きたかったが、適当な便が無かったため途中ドイツのニュルンベルクで1泊することになった。 画家デューラーの生地・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』・ニュルンベルク裁判などでこの街の名は知っていた。 ホテルは中央駅に近いグランドホテル。 到着が遅かったため今回は街を見る時間は無く眠るだけとなった。 

1969年8月28日(木)

8時50分にニュルンベルクを発ち、ハンブルク・コペンハーゲンを経由してストックホルムに着いたのは16時過ぎだった。 記憶は定かでないが多分このルート以外は満席だったと思う。 ザグレブからストックホルムまで直行便なら3時間もあれば着いてしまうところを、丸1日も費やすなど今思うと随分無駄なことをしたものだと思うが、途中の街を見たり色々な航空会社の飛行機に乗って機内食を食べ、空港の売店を見て回ったりすること自体が当時の私にとってはエキサイティングな体験であり、退屈どころか貴重な旅の一こまとなって今も記憶に残っている。 

飛行機がスウェーデンの上空に入ると、下界には緑一色の森が広がっていた。 国際線の発着空港は現在のアーランダ空港とは異なり、ストックホルムの中心部から西へ約10キロメートルのブロマ空港で、市内のバスターミナルまでSASのバスで約20分、森を切り開いた岩の多い地形の中を高速で走る。 街には高層ビルが立ち並び、その中を日本では見かけたことのなかった高架の高速道路がビルを突き抜けて通っており、ショウウィンドウにはカラーフルな衣類やバッグや靴がセンス良くディスプレイされていた。 ユーゴスラヴィアと比べるといかにも先進国に来たという印象であった。 

ホテルは中央駅の北、空港バスターミナルの近くにあるアドロンで、街歩きには便利な場所だった。 8月の終りといっても夜は8時半くらいまで明るい。 カメラを持って街を散歩しホテルに戻った。 

1969年8月29日(金)

スウェーデンは当時から世界一の福祉国家を誇っており、午前中は社会施設コース(Social city tour)という各種工場・学校・一般アパート生活・養老院・郊外のショッピングセンターを回る見学バスに乗った。 当時は日本語のガイドなどは無かったので英語の説明付きのバスを選んだためか、乗客のほとんどはアメリカ人の中年夫婦だった。 若者が1人でこんなツアーに参加することはあまり無いのかもしれないと感じた。 

学校での授業の様子や養老院での介護の実態を見て、日本も何れはこのような国になればよいと願った。 核家族化が進んでいるというよりも、欧米では子供が独立した後は父母が年老いてからも別居するのが普通なので、老夫婦の何れかが先に亡くなった場合は残された方が1人暮らしとなる。 そのような1人暮らしの人達ばかりが住むアパートの一軒を訪問し内部を見学させてもらった。 集中暖房が整いキッチンは電化されており、各部屋には手摺が取り付けられ今で言うバリアフリーとなっており、居間には趣味で弾くピアノが置いてあった。 

「寂しくは無いの?」とか「体調を崩したときはどうするの?」とか又「費用はどれほど掛かるの?」などとアメリカ人たちが質問すると、「同じ階に友人がたくさんいるし、休日には家族が来るので全く寂しくはない。 病気のときは電話をかければすぐにナースが来て面倒を見てくれる。 費用はすべて無料で国が負担してくれる。」と答えていた。 「アメリカではまだそこまで行っていないね。」と、アメリカ人たちの羨ましそうな会話が聞こえてきた。 

現実はそう単純なものではないらしく、老人ホームなど福祉が完備しすぎているために、不自由の無い生活の虚しさからスウェーデンは老人の自殺率が当時から高かった。 人間は年老いてからも生活の苦労や不安が多少はあった方が刺激となり、生きがいを見つけやすいのかもしれない。 しかし現在の日本のように気温が35℃を超える真夏に冷房の無い3畳一間のアパートで、充分な食事も取れずに人知れず死んで行く人達がいても、あまり大きな問題にならない社会に将来日本がなってしまうとは当時の私には思いもよらぬことであった。 

昼食はエアターミナルの近くのスタルメスターレゴーデンという大きなレストランで魚料理を食べる。 ユーゴではアドリア海沿岸に行かないと食べられない海の魚が美味かった。 午後はアフタヌーンシティーツアーのバスに乗り、王宮・ストックホルムの中心街・ガラス張りの高層オフィスビル群・郊外にあるミレスゴーデンを見る。 当時の最新技術を結集した高層ビル群は、ストックホルムの新名所として観光バスが回るほどであったが、今年訪問したときは『大きくて目障りで撤去するのも大変』と邪魔物扱いの説明であった。 斬新で高層というだけでは歴史の判定をパスすることはできないのであろう。 

ミレスゴーデンはスウェーデンの彫刻家カールミレスの彫刻庭園で、空に伸びた円柱の上に今にも飛び立とうとするかのような彫刻が数多く展示されており印象深かった。 オスロのヴィーゲラン公園も屋外の彫刻庭園であり、2人の北欧の彫刻家が同じように太陽の下で作品を造ることに情熱を注いだのは偶然ではないように思われた。 

スウェーデンの人形
(私の人形コレクション)

スウェーデンやデンマークでは男女間のセックスは極めて自然なこととして、当時の日本やアジア諸国のように後ろめたさやタブー視はされていなかった。 街の表通りにもポルノショップがあり昼間から営業していたので、ホテルの近くの一軒に立ち寄ってみた。 北欧の女性にしては背はあまり高くなく、夜が明けたばかりの空の色のような青い眼に金髪の美人が笑顔で出迎えてくれた。 下はショートパンツ・上は体の線にぴったりの薄い花模様のレースのブラウス1枚だけで、形の良い乳房とピンクの乳首が透けて見えた。 ネクタイかマフラーでも選ぶかのように、「これはいかが! こちらにも良いのがあるわ!」などと、ポルノ雑誌や8ミリフィルムなどを手にとって勧めてくれた。 私は目のやり場に困り頬が熱くなるのを覚えた。 今回の旅行中はスウェーデンでもデンマークでも、そのようなポルノショップは見かけることはなかった。 

夕刻スカンセンに行った。 スウェーデンはもとよりスカンディナヴィア各地の400年間にわたる住居が集められている野外博物館で、家の中には当時の服装をした人達が当時の日常生活にできるだけ近い形で生活し、その一部を観光客は見ることができた。 内部には動物園・植物園・遊園地・レストランなどもあり、ゆっくり過ごすのに良いところだ。 週末のためその夜は園内で『フォークダンスの夕べ』という催しがあり参加することにした。 フォークダンスは中学1年の頃の運動会以来であったが、民族衣装の地元の人達とプロのダンサーたちが、男性のゲストには女性が、女性のゲストには男性が相手をして教えてくれた。 ダンスのパターンは単純なものばかりだったのですぐに覚えた。 芝生の上を音楽に合わせてくるくる回るのは本当に楽しかった。 最後にペアになって同じ曲が次第に速くなり、どこまで踊り続けられるかを競うダンスのゲームがあった。 曲が速くなるにつれて残るペアの数は少なくなった。 息が切れ、目が回り、パートナーの「ワンスアゲイン」との励ましにもかかわらず最後の1曲を残して遂にギブアップした。 最後まで踊り続けた人だけがパートナーから祝福のキスを頬に受けた。 日はとっぷりと暮れ10時を過ぎていた。 

1969年8月30日(土)

ストックホルム8時発コペンハーゲン9時20分着のスカンディナヴィア航空に乗った。 空港は現在と同じカストラップ空港で、コペンハーゲンの南東約10キロメートルにあり、市内のエアターミナルまでバスで約20分ほどである。 エアターミナルにある観光案内所で観光の予定を立てる。 ちょうど午後1時30分発のノースジーランド古城めぐりコース(North Zealand Tour)に空きがあったので予約した。 出発時刻まで市庁舎前広場を散歩し昼食を取った。 このバスも英語の説明だったのでアメリカ人観光客が多かったが、昨日の社会施設コースほどお年寄り(当時中年夫婦はお年寄りに見えた)ばかりではなく、新婚旅行らしいカップルも見られた。 

バスが郊外に出ると広々とした牧草地と森林があり、青や赤の屋根に白い壁の農家が点在し風車が回っている風景が広がっていた。 コペンハーゲンの北約32キロメートルにフレデリクスボー城がある。 ルネッサンス風の建物が広々とした湖に影を落とし、浮かんでいるように見えた。 内部にはデンマークの歴史を物語る装飾品や絵画が展示されており、ステンドグラスから漏れる光に照らされていた。 ここから北に8キロメートル行くとフレデンスボー宮殿が見えてきた。 王室の夏の居城で毎年6月と7月をこの城でお過ごしになるとの説明を受けた。 

更に北に15キロメートル(市から直行すると45キロメートル)行くと、シェラン島(ジーランド島)の北端にあるヘルシンゴーという町に着く。 この観光コースは別名『ハムレットコース』と言われており、そのハイライトであるクロンボー城はこの街にある。 この城が有名になったのはハムレットの居城のモデルになったためで、シェークスピアもこの城でペンを取ったと言われている。 城の小高い丘に立つと対岸のスウェーデンの町ヘルシングボリが間近に見えた。 城の入口近くは港になっていて、対岸のスウェーデンへのフェリーが頻繁に出ていた。 現在この城は世界遺産に登録されており有名ではあるが、周囲の景観を含めた美しさはフレデリクスボー城にはかなわないような気がする。 夕刻6時30分頃市庁舎前広場に戻った。 ホテルは市庁舎から北西に300メートルほどのところにあるコングフレデリック。 夕食後は繁華街のストロイエ通りを散歩した。 

1969年8月31日(日)

デンマークの人形
(私の人形コレクション)

早めの朝食をとった後、市の中心部から3キロメートルほど北にあるゲフィオンの噴水まで市バスに乗った。 そこから500メートルほど北の海岸の小さな岩の上に、アンデルセンの童話で有名な人魚姫の像が横顔を見せていた。 青銅製で想像していたより小さくかわいらしかった。 写真を何枚か撮った後帰りは徒歩で、アマリエンボー宮殿と道路を挟んでその西側にあるフレデリクス教会・クリスチャンスボー城などを見た。 時間が多少残っていたのでティヴォリ公園に入園し、デンマーク名物のオープンサンドイッチを食べながら歩いて回った。 12時過ぎにシティーエアターミナルに戻り空港行きのバスに乗った。 日曜日で市内の店が閉まっていたため、空港でロイヤルコペンハーゲンの陶器の小皿を3枚買った。 コペンハーゲン14時10分発、ザグレブ17時25分着のユーゴスラヴィア航空JU361便で帰国した。 ユーゴに長く住んでいたためか、ユーゴ国外の旅行から戻ると『無事に帰ってきたな』というほっとした気分になった。 

ザグレブからバニヤルーカ行きの最終バスは混んでいた。 出発してから1時間もするとバスの中はシュリヴォヴィッツァ(プラムの蒸留酒)の香りが充満し、例によって酒瓶が回ってくる。 40度ほどの強い地酒でほとんどが自家製造だ。 ラッパのみをして後ろの席に回す。 おかげで3時間が瞬く間に過ぎ、夜11時頃にバニヤルーカに着いた。 

当時の自分の行動を今思い起こすと、計画性に乏しく行き当たりばったりで慎重さに欠け、交通機関の遅れなどは全く考えに入れておらず、好奇心旺盛で時間さえあれば貪欲に見て歩き、乗り物の発車時刻には間一髪で間に合えばよいと思っていたようだ。 3ヵ月後バニヤルーカに直下型の大地震があり、運転開始直後のプラントが破壊されることになろうとは、このときは夢にも思っていなかった。



旅のアルバム(北欧1969)
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