2008.08.25
1980年から1984年にかけて、バングラデシュに繊維製造プラントの建設工事があり、幾度か出かける機会があった。 その時の断片的な思い出を書いてみたい。
『機中』
私のメニューコレクションより
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ビーマン・バングラデシュ航空が、成田からダッカまで直行便を就航していたが、当時私はタイ航空が気に入っていたので、成田或いは伊丹からバンコク経由でタイ航空便を乗り継ぎダッカに入ることが常であった。 当時の出張はビジネスクラスが利用でき、優先搭乗で席に着くと間もなく、タイシルクのコスチュームがよく似合う美人のスチュワーデスによるシャンパンのサービスがある。 タイ航空のシンボルマークになっているの蘭の生花を胸に付けてくれる。 グラスを片手に流れる音楽が耳に心地よい。
やがてエンジンが始動し機体がエプロンから滑走路へ移動すると、エンジン出力が上がり滑走を開始する。 車では感じることのできない加速による重力を背中に感じ、車輪が路面に接触する振動がなくなると機体は急上昇する。 身体が宙に投げ出される浮遊感と、機内の気圧が徐々に低下して神経を軽く麻痺させる快感を味わう。 メニューが配られ、食前酒に続き昼食の献立とワインを選ぶ。 今日は“帆立貝の串焼きバーベキューソース添え”に“ブルゴーニュの白”をオーダーする。 食後のチーズやフルーツ・ブランデーなどがサービスされた後は、好みの音楽を聴きながら夢心地となる。
残業続きで疲労が蓄積し、飽和状態になった心身をリラックスできるひと時である。 会社生活の中で出張は、端で見ているほど楽な仕事ではないが、雑務に忙殺されがちな日常業務から開放され、一つの目的に集中できる数少ない機会であると同時に、一種の現実からの逃避と言えなくもない。
『税関』
ダッカ空港到着後、送迎バスから降りてターミナルビルに一歩足を踏み入れると、熱気の中にジュートの匂い(注1)が鼻を突く。 空港の建物全体に染み付いているようだ。 当時この空港には到着手荷物コンベヤがまだ設置されていなかった。 飛行機から手押し車で運ばれてきた自分の手荷物を受取り、手荷物検査場まで運んで高さ数十センチの台の上に持ち上げると、荷物と荷物の間から手のひらを上にした片手がヌーッと出て来る。 3本の指が何かを要求するようにしきりに動くので、隣の人に習って1ドル紙幣を掴ませる。 又出て来るのでもう1枚・もう1枚と合計5ドルくらい掴ませると、漸くスーツケースの側面に何やらサインのようなものをチョークで書き、行ってよいと告げられる。
要求を拒否するとスーツケースを開けられ、あまり清潔とは言えない手で中身をかき回された挙句、いずれにしても幾らかの金は支払うことになる。 様子を見ていると自国民やアジア系の人間には厳しく、欧米系の白人には極めて甘いことが一目で分かる。 特に元宗主国のイギリス人の高圧的な言動には非常に弱く、英語の語尾に“サー”をつける有様である。 出口に並んでいる通関職員は、チョークで書かれたこのサインを見て通関を許可するので、私の知人の1人は出発前にスーツケースに自分でサインをしておいて検査を免れたと言う。
1984年1月8日、プラントの終結のための打合せがあり、機械部品など大量の手荷物を持ち込んだことがあった。 プラントの建設ではよくあることで、欠品や紛失品を航空貨物で送るよりも手荷物で持ち込んだ方が確実であり、同行者の人数にもよるが、超過重量100キロか150キロ程度までなら、ビジネスクラスの客には航空会社が無料でサービスをしてくれた。
そのときは大型の段ボール箱5・6箱で200キロほどの荷物だったと思う。 インヴォイス(送り状)を提出し、内容を説明して税金は幾らかと聞くと“3,000ドル”と言う。 100ドルか200ドルなら支払うつもりでいたが、3,000ドルは高すぎる。
その日は大阪11:00発・バンコク17:10着のタイ航空TG621便に乗り、そこまでは順調な飛行であったが、バンコクからダッカまではあいにくタイ航空が満席のためバンコク20:20発のビーマン・バングラデシュ航空を予約していた。 この便が2時間近く遅れ、ダッカに到着したのは23:00を過ぎていた。 更に飛行機からターミナルビルまで手荷物を運ぶ車が故障したとの理由で、1時間以上待っても荷物が出て来ない。 3・4年前までは手押し車で運んでいたので、時間はかかっても確実であった。 結局人力による輸送に切り替えて、手荷物を受け取ったのは午前1時だった。
商社・コンサルタント会社等から数名の同行者がおり、皆疲れた様子だったので、私と同じ会社の2名を除く全員には、個人の手荷物だけを持って一足先にダッカ市内のホテルに入ってもらい、腰を据えて税金の交渉に入った。
先ず私が「それはチップですか、それとも税金ですか。」と問うと「税金だ」という。 「我々の仕事は円借款プロジェクトで、持参した部品の大部分は貴国が自ら調達しなければならないものであるが、それが不可能であることが分かったので、我々の好意で無償供給するものである。 それに税金をかけるのは納得ができない。」と応じた。 すると相手も「理由のいかんを問わず、輸入品についてはその評価額に応じて輸入税を支払うのがあなた方の義務である。」と譲らない。 それに対してこちらも「ではその金額の根拠はありますか。 計算書を示して欲しい。」と詰め寄った。 すると何やら細かい字で段ボール箱の上に計算式と数字を書き、「合計3,000ドルになる。」と言う。 「T/C(トラベラーズチェック・旅行小切手)での支払はできますか。」と問うと、「できない、現金しか認められない。 あなた方3名の手持ちを合わせればそのくらいの現金は持っているでしょう。 日本人は金持ちだから。」と言う。
3名分を合わせても1,000ドルほどしか現金の持ち合わせは無かったが、取りあえず交渉を続けることにした。 「我々の会社の金なので、領収書が無いと困る。」と言うと、「すぐに領収書を書くからしばらく待ってくれ。」と言って事務所に入ろうとしたので、「単なる手書きの領収書では受け取れない。 税関の責任者のサインとスタンプの捺印がある領収書に、準拠する法律の名称と番号を記載した正式な計算書をタイプで打って添付してください。 念のためその計算書は、後で貴国の関係機関でチェックしてもらうので、間違いの無いように記載してください。」と付け加えた。
しばらく数名がひそひそと話をしていたが、やがて我々の前に現れ、「300ドルでOKする。 その代わり領収書は出せない。」と言った。 「領収書の無い税金は一切払えない。」と拒否すると、「ではチップでよい。」と遂に本音が出た。 「チップでよければ払いますよ。 最初からそのつもりでいたのだから。」
アジア諸国に出かけるとき私はいつも、100ドル紙幣ではなく10ドル紙幣を2・30枚とチップ用として1ドル札を20枚ほど持って行くことにしていた。 既に午前2時近くになり税関の係員も残り数名程度になっていたので、1人当たり10ドルずつ渡すことに決めた。 多少失礼かと思ったが私もかなり疲れていらいらしていたので、「ではチップをあげます。 欲しい人は集まってください!」と札束をかざしながら大声で皆に聞こえるように呼びかけた。 誰も集まる気配は無く、1人が「チップはそっと手に握らせるものだよ!」と言った。 私たち3名は、各々山盛りのダンボールを積んだカートを押して税関職員の前を通り空港ビルの外に出た。 既に午前2時を過ぎていた。
『レバーにら炒め』
1980年6月から8月にかけて契約折衝がダッカで行われた。 ホテル・インターコンティネンタルに滞在して客先と契約書の詰めを行う傍ら、チッタゴンの近郊チャンドラゴーナにある客先工場を訪問して、技術的な条件を打ち合わせる毎日が続いた。
一流ホテルではあるがレストランのメニューの数は少なく、カレーなど地元の料理を除いて味も良くなかった。 朝食のトーストは薄く硬く、ティーカップの縁は汚れて黒ずんでおり、唇を触れる場所を探さねばならなかった。 客先の公団事務所で打合せがあるときは、昼食の弁当の出前を取ってくれた。 蝋紙に包まれた焼き飯に、干し葡萄ほどもある香辛料とフライドチキンが添えてあった。 見た目は悪いが味は良かった。 折衝メンバーの1人であったQZさんは食事に極めて神経質で、黒い香辛料がネズミの糞に見えると言って昼食を全く口にしなかった。 ホテルでも彼はレストランには行かず、スーツケース2個に詰めて日本から持参した日本食や缶詰だけで過ごしていた。
食事はホテルで取るのが最も便利であり、商社の駐在員もお客を接待するときは殆どこのホテルのレストランを利用していたので、近くには衛生的なレストランは無いものと思われた。 私たち出張者全員が単調な食事に飽きてきた頃、中国人が経営している中華料理店があるという話を聞いて、タクシーを雇い早速皆で出かけた。 50歳前後の小太りの中国人女性が調理をしていた。 中国語のメニューがあり、野菜・鶏肉・魚介類・麺類などの料理を注文した。 久しぶりの中華料理に皆舌鼓を打った。 中でも鶏のレバーとにらの炒め物は美味かった。 神経質なQZさんも「これなら食べられる」と言って喜んだ。 それ以来頻繁にこの店に通うことになり、次回のメニューを予約するようになった。
ある日のこと、食事中にゴキブリがテーブルの上にいるのを見つけた。 1人が給仕を呼んで「早く追い払え!」と命じると、(何を驚いているの?)と言う顔をしてゴキブリをつまみ上げ、床に投げ捨てて踏み潰した。 バングラデシュのゴキブリは日本のゴキブリのように素早い動きはせず、のそのそと歩く感じである。 多分人間になついているからであろう。 厨房でのゴキブリの行動は推して知るべしである。 私は食事を続けるつもりであったが、多数の意見に従い中断して帰ることになった。 それ以来誰もこの中華料理店には行こうと言わなくなり、“レバーにら炒め”も食べられなくなった。 QZさんは2度とレストランには顔を見せなくなった。
『男の社会』
トルコやインドネシアなど例外はあるが、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占める国は男の社会である。 バングラデシュも空港・官庁・会社・工場・ホテル・商店・レストランなど、あらゆる職場で働く人々は殆どが男性である。 町に出ても女性の姿を見ることは稀である。 幾度かダッカを訪れ、何ヶ月かの滞在中に感じたのは、女性のいない社会の味気無さである。(注2)
あるとき商社の事務所で打ち合わせ中に、外の大通りが騒がしいので窓から覗くと、大勢の女性がサリー風の白衣姿で群集に手を振りながら行進しており、それを通りに面した建物の窓から、カーニバルの行列を楽しむかのように見物していた。 警察に問い合わせてもらうと、看護婦さんたちの賃上げ闘争のデモであった。 病院には女性の看護婦が働いていることが分かり、入院したときのことを想像して少し安心した。
『スチュワーデスとカラス』
スチュワーデスとカラスのいるプール
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化学工業公団との契約折衝と、工場側との技術打合せに明け暮れる毎日の中で、楽しみが一つあった。 ホテルには屋外プールがあり、折衝や打合せの合間に息抜きを兼ねて水泳をする。 レストランのボーイが巡回しており、昼食時にはチキンカレーとココナッツを注文すると、プールサイドまで持ってきてくれる。 カレーは本場だけあって他のどの料理よりも美味い。 冷蔵庫で冷やしたココナッツの実に穴を開けてもらい、水の代わりの飲む。 この国ではこれが最も安全な飲み物で、薄い甘みがあり口当たりも良い。 飲み終わった後は実の内側に付いた白い果肉をスプーンでそり落として食べる。
ホテルのビルの窓際に何十羽ものカラスがこちらの様子を窺っており、少しでも油断するとあたかも鷲が狩をするときのような素早さでカレーの皿めがけて急降下し、チキンをさらって行く。 皿を手に持って食べている最中でも、僅かな隙を見せると襲ってくるので、皿を脇に置くことなど全くできない。 こちらの油断をどのように感知するのか不思議に思うと同時に、カラスの敏捷性には感心する。
BOAC(現在のBA英国航空)機がロンドン/ダッカ間を週に1便就航しており、乗務員が私たちの滞在しているホテルに1泊する。 タイ航空を始め他にも何社かの航空機が乗り入れていたが、すべてがダッカ経由で他の都市に行くか、或いはその日のうちに折り返して帰って行くかのいずれかで、ダッカに1泊するのはBOAC機のみであった。 ロンドンからの便が午前中に到着すると、スチュワーデスがホテルのプールサイドに現れる。 それを見計らってこちらもプールサイドに出て会話を楽しむことができる。 ロンドンの様子・今日のフライトのこと・日本には行ったことがあるかなど、カレーライスを食べながら他愛無い話をしてひと時を過ごす。 久しぶりの目の保養にもなる。
その様子を狙ってカラスが襲ってくる。 女性と話しながら食べるときは隙ができることを知っているようだ。 その日は話し相手と自分のカレー2皿分の防衛をしながら会話をすることになるので、相当な神経を使わねばならない。 気のせいかカラスの数もいつもより多いようだ。 BOAC機が到着する曜日をカラスは覚えているのかもしれない。
『ブレンドウィスキー』
長期出張に酒は欠かせない。 契約交渉の時はホテルの私の部屋が仮設のバーになっており、皆が入国のとき持ち込んだウィスキーが置いてあった。 レストランで酒は飲めないので、食事の前には一杯入れてから出かける。 当時ダッカ空港にはエックス線検査装置など無かったので、税関で手荷物を開けさせない程度のチップを払えば、比較的容易にアルコールを持ち込むことができた。
持ち込んだウィスキーが無くなると、商社を通じて闇酒を買った。 8年もののバレンタインの中瓶が手に入ったが値段も高く、飲み慣れているバレンタイン17年ものやシーヴァスリーガル12年ものに比べると格段の味の差があった。 それでも無いよりはましなので出張の後半は闇酒で我慢した。 ウィスキーの場合、栓が破られた形跡が無くても、瓶の底のガラスをカットして偽酒を注入し封をした形跡がないかも検査する必要があった。 当時の手帳を見ると“ビール60本注文”とメモが残っているので、ビールも仕入れていたことが分かる。
あるとき酒が完全に切れてしまったことがあった。 空瓶が部屋の隅の床に並べてあり、形の良いものは花瓶にしたいと言うので、部屋のメード(男性)にあげてしまったが、まだ20本ばかりが残っていた。 空瓶を逆さにして底に残っていたウィスキーを最後の一滴まで、すべての瓶からコップに集めるとコップ半分くらいになった。 水割りにして皆と分けて飲んだ。 究極のブレンドウィスキーの味だった。
『信仰』
バングラデシュの大部分の人々は敬虔なイスラム教徒である。 礼拝は夜明け前・昼・午後・日没直後・夜半の1日5回行われる。 手・口・鼻・顔・首などを水で洗い清めた後、カーペットの上に跪いて尻を上げ顔を地に付けて祈る。 礼拝の時間は数分であるが前後2・30分ほどかかる。 礼拝の場所は決められているわけではなく、野外・事務所・工場など、あらゆるところで礼拝することが許されているようだ。
出張で彼らが日本に来たときは、会議室を1部屋余分に用意し、世界地図でメッカの方向を調べて礼拝専用に使ってもらった。 彼らの来日中最も気を使うのは食事である。 豚肉はもとより豚のエキスの入ったスープ・カレーなどの食品は一切受け付けない。 レストランでは厨房まで行ってこれらを細かくチェックする必要があった。 本来ならばハラルというイスラム法に則って処理された肉しか食べてはいけないのであるが、日本では無理なので、肉は鶏肉と魚のみを材料にして添加物を一切加えない料理を特別に注文した。 酒を飲むイスラム教徒は多く見てきたが、豚肉に関しては常に神経を使い用心深かった。
たまたまラマダン(注3)の時期にダッカに出張したことがあった。 客先の技術者の1人が体調を崩し38℃ほどの熱があって苦しそうだったので、医者に診せて薬を飲むように勧めたが絶対に受け付けようとはしなかった。 同じムスリム(イスラム教徒)でも、貧しい国の人々ほど信仰心は厚いように思われる。
私には、インドネシア・パキスタン・トルコなどに多くのムスリムの友人がいるが、彼らは皆信仰心が厚く真面目で平和を望んでいる。 一部のテロリストがムスリムだからと言って、すべてのムスリムを危険視すべきではない。 イスラム教徒の側から見れば、キリスト教徒やユダヤ教徒の中にもテロリストはいるのだから。
『チッタゴンとチャンドラゴーナ』
客先の工場は、首都ダッカから直線距離で約220キロメートル南東の、バングラデシュ第2の都市チッタゴンの近郊チャンドラゴーナにある。 ダッカからチッタゴンへはビーマン・バングラデシュ航空の国内線が、オランダ製の名機フォッカーF27(フレンドシップ)を毎日数便就航していた。 4・50人乗りのターボプロップ機で、旧東パキスタン時代からの相当古い機体であったが乗り心地は良かった。
特に冬季のチッタゴンは霧が深く、ダッカを離陸してチッタゴン上空まで行ってから、濃霧のためダッカに引き返すことがしばしばあった。 両空港間の連絡が悪いのか或いは電話が通じにくいのか、飛行時間は僅か40分程度なので、事前に連絡さえ怠り無ければ目的地の天候は分かるはずだ。 更にこの便はいつも満席で、急な出張の場合は席を確保するのが一苦労であった。 キャンセル待ちは、もう1機チャーターしてもよいくらいの4・50人はいるので普通なら諦めるところであるが、客先技術者への土産品として持参したボールペンやシャープペンシルを1本渡すと、ウェイティングリストの順番が10番ほど繰り上がる。 これでは真面目に順番を待っている人はいつまで待っても絶対に席の確保は不可能である。
チッタゴン空港には客先工場から出迎えの車を回してくれており、これに乗って田園地帯を北東に約40キロメートル走るとチャンドラゴーナの工場に到着する。 この地方はバングラデシュの中では高度(海抜)が比較的高いので洪水は無いが、それでも雨季になるとバケツの水を一度に空けたような雨が降るので、田畑が水没しているのを幾度か見たことがある。
『工場』
工場の衛星写真(グーグルマップ)
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私達のお客はバングラデシュ化学工業公団とその傘下のカルナフリ・レーヨン・ケミカルズである。 カプタイ湖を水源とするカルナフリ川の下流約10キロメートルに、竹を原料とする製紙工場が1953年に建設された。 10年後の1963年には、日本の5社のコンソーシアムによる円借款プロジェクトとして、製紙工場に隣接してレーヨン・フィラメント(人絹)とセロファンを製造する工場建設が開始され、1967年に生産を開始した。 何れも旧東パキスタン時代のことで、西パキスタンの旧財閥の所有であったが、バングラデシュ独立後に国営化された。 その後1980年に、これもまた日本の円借款プロジェクトとして、レーヨン・ステープルファイバー(スフ)のプラントを増設することになり、私の勤めていた会社が受注して、私もこのプロジェクトの1員として参加することになったわけである。
通常、紙・パルプ・ヴィスコース繊維・セロファンの原料は木材であるが、この工場の製品は何れも竹を原料としており、世界で初めての試みであった。 竹は木材と比べて成長が早く、3年で原料として使えるようになるので、簡単に言うと消費量に見合った量の竹を生産できる竹林を3箇所持っていれば、原料の供給には困らないことになる。 カルナフリ川の上流から竹を筏に組んで運び、クレーンで工場の敷地に集積していた。
グーグル(Google)の衛星写真で見ると、カルナフリ川の岸辺には竹の筏が荷揚げを待っており、白濁した排水がカルナフリ川に流れ出ていることから、いずれかの工場は今も操業を続けていることが分かる。 各地に建設した工場が取り壊される中で、このプラントは建物も昔のまま残されており当時が偲ばれる。
『繊維について』
繊維は大きく分けて天然繊維と化学繊維がある。 前者は綿・麻などの植物系繊維と羊毛・絹などの動物系繊維、後者はヴィスコースレーヨン・キュプラ・アセテート等のセルロース系再生繊維とナイロン・ビニロン・アクリル・ポリエステル・ポリプロピレン・ポリウレタン等の合成繊維に分けられる。(注4) 繊維には元々生糸や蜘蛛の糸のような長繊維と、綿・麻・羊毛のような短繊維があるが、人工的に造られた繊維も用途に応じて長繊維(フィラメント)として使う場合と、綿や羊毛と同じくらいの長さに切断して短繊維(ステープルファイバー・略してスフと呼ぶ)として使う場合がある。
私が従事したプロジェクトはヴィスコースレーヨンスフを製造するプラントである。 人絹・スフと言うと戦後は絹や綿の代用品として安物の代名詞のように言われたものであるが、現在では吸湿性や染色性の良さなどその特長が生かされ、各種アパレル・インテリア用途に補助材料として使用されている。 合成繊維が石油を原料にしているのに比べ、ヴィスコース繊維は木材・竹など再生可能な原料から造られるため、環境保全の観点からは現代にマッチした繊維と言えなくも無いが、製造工程で硫酸・苛性ソーダ・二硫化炭素などの化学薬品と大量の水を使用し、それに伴う排水・排気の処理が不可欠であるため多くの工場が操業を停止し、世界・国内とも生産量は激減した。
ヴィスコースレーヨンとセロファンの原料はほぼ同じで、繊維の場合はヴィスコースを細い穴から押し出して糸にするのに比べて、セロファンは狭い隙間のスリットから押し出してフィルムにする。(注5) セロファンも石油を原料とした各種フィルムと比べて、透明性・着色性・剛性などに優れ、燃焼による毒性ガスの発生も無いため特徴のある材料であるが、ヴィスコース繊維と同様の理由により生産する工場は非常に少なくなった。
『別天地』
まだ明けやらぬ早朝、夢うつつの中に近くのモスクからのコーランの祈りの声が聞こえてくる。 靄に包まれた薄明かりの中を散歩に出ると、火の見櫓ほどもある塔の上にガードマンの姿が見える。 夜通し見張りをしていたようだ。 「アッサラーム・アライクム」(アラビア語で、あなた方の上に平安がありますように)と挨拶すると、「ワ・アライクムッサラーム」(あなた方の上にも平安がありますように)と答えてくる。 やがて夜が明けて鶏が時の声を告げる。
工場を訪問するときはチッタゴンのホテルに宿泊して、48キロの道のりを毎日通うこともできたが、工場近くの小高い丘の上にある客先のゲストハウスに泊めてもらうことが多かった。 ゲストハウスの食事は、ダッカの一流ホテルのレストランより私の口に合った。 川のこちら側はイスラム地区なので豚肉は食べられないが(注6)、先程まで庭先を走り回っていた鶏の肉やカプタイ湖で取れた新鮮な魚が美味かった。 殆どの料理の味は、カルダモン・シナモン・ターメリックなどの香辛料をたっぷり使ったカレー味であった。 さすが本場の味で、慣れると日本風の甘みのあるカレーより美味い。 野菜料理やサラダも付いており、デザートには直径30センチもあるプリンが出された。
後にプラントの建設に来る人達への情報として「食事は美味く、全く問題は無い」と言うレポートを会社宛に出したため、後になってこの地で数ヶ月間を過ごした建設指導員たちに苦情を言われた。 人数が多かったため宿舎はゲストハウスではなく、新築の従業員社宅を提供され専属の料理人を雇ったが味は良くなかったようだ。 醤油や味噌を持ち込んで、日本の味を教え過ぎたためではないかと私は思っている。 そう言う私もバングラデシュの飯だけは、どこで食べても臭みが鼻に付いて好きになれなかった。 多分米袋に使うジュートの臭いではないかと思う。
工場のあるチャンドラゴーナはバングラデシュの中では別天地だ。 従業員社宅には電気・水・サニタリー設備が整っており、周辺にはモスク・女医のいる病院(注7)・学校(小学校から高校まで)などがあって、従業員にはすべて無料であると聞いた。 その他食料品店・食堂・映画館・レクリエーション設備などもあり、バングラデシュの大半の地域に住む人々にとっては当然のことと思われがちな洪水の心配も無かった。
町を散歩していると、額に赤い印をつけたサリー姿の女性によく会う。(注8) 表情は皆明るく、こちらの話しかけにも喜んで応じ写真も撮らせてくれる。 子供たちがどこからともなく集まり後をついて来る。 当時のダッカではそのようなことは全く無かった。
カルナフリ川はカプタイ湖に源を発し、チッタゴンの南を流れてベンガル湾に注ぐ100キロメートル足らずの川である。 カルナ(KARNA)は耳(EAR)を意味し、フリ(PHULI)は花(FLOWER)を意味すると言う。 昔、耳に花飾りをした美しい娘がおり、村の若者に恋をしたがその恋は実らず、悲しみのあまり彼女はこの川に身を投げてしまったと言う伝説が、この川の名前の由来であると工場の人から聞いた。
カプタイ湖は水力発電用の人造湖で、ロックフィルダム(注9)がある。 客先の案内でダムを見学した。 カプタイ湖で捕れる鯉に似た魚を、案内してくれた人達が買っていた。 ゲストハウスの夕食にも時々出される魚だ。
『給仕は床を拭かない』
ゲストハウスでの夕食時、1人がティーカップを倒してテーブルの上と床に紅茶をこぼしてしまった。 早速給仕を呼び拭取るよう頼んだ。 テーブルクロスの水分を布巾で拭った後、小さな新しいクロスをその上に重ねて料理や食器を元の位置に直し、床は拭かずにそのまま立ち去った。 雑巾を持って直ぐに来るかと待っていたが、彼はなかなか現れない。 やがて忘れた頃に、別な人が雑巾を持って来て、床を拭いて出て行った。 給仕は床掃除人をわざわざ呼びに行っていたようだ。 イスラムにはヒンドゥーのカーストのような階級制度は無いが、その影響を多少受けているように思われた。
前述の例とは多少異なるかもしれないが、ここの技術者は現場に出て自ら手を汚すことを極端に嫌った。 技術者に現場の調査を依頼すると、直ちにその部下を呼びその作業を命じる。 部下は又その部下に命じ、その部下はその又部下に命じるといった具合で、実際に調査をするのは誰なのかわからない。 調査報告が上がってくる間に内容が変わる可能性も充分あり得るので、重要なことは自分で調べるに限る。
私たちが納入する機械の一部は、既設の建物内に据付けられることになっていたが、古い建築図面は紛失してしまっていた。 「建物の床は鉄筋コンクリート造りなので、その上に新しい機械の基礎を造り荷重をかけても全く問題は無い」と客先の技術者は主張した。 自分で現場をチェックしてみると、薄いコンクリートの板が桁の上に敷いてあるだけの構造のように思われたので、念のために客先に頼んでもう一度調査をしてもらったが結果は同じであった。 この調査結果は、客先の技術者が自ら現場に行って調べたものではなく、例によってその部下に、又その部下に命じて調べさせたものである。
たまたま製紙工場で仕事をしていたスウェーデンの建築技師とゲストハウスで顔見知りになり、この話をすると「明日一緒にチェックしよう」と言ってくれた。 翌朝客先の技術責任者を伴って現場に行き、ハンマーとたがね(注10)を持って床下にもぐり調査をした結果、私が懸念していた通り幅50センチほどのプレキャストのコンクリート板が敷き詰められていることが分かった。 客先の技術責任者は(エンジニアが床下にもぐるなど、はしたないことはできない)という顔をして、私たち2人の調査結果を床の上で待っていた。 新しく基礎を造ることになったのは勿論である。
『川向うの寺』
少数民族の女性(ランガマティ)
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カルナフリ川に流れる水量は多く、ダムの下流約10キロメートルにある工場のあたりでも川幅は2・300メートルある。 川を横断する渡し舟が出ており、川向うには仏教徒の少数民族の村々が点在している。 川の流れが速いため、舟が常に川上に向かうように、船頭は竿をささねばならない。 川向こうの人々の暮らしは川のこちら側とは異なり貧しかったが、顔立ちも我々とよく似ていて親近感があった。 農家では黒豚を飼っていた。 女性たちは色彩豊かな衣装をまとい笑顔を絶やさず、子供たちは元気にはしゃいでいた。 夕方には家族皆で川の浅瀬で水浴や洗濯をする姿が見られた。 多分飲料水を含めた生活用水はすべてこのカルナフリ川から運んでいるのであろう。
村には寺があったので立ち寄ってみた。 住職らしい人にお参りの仕方を問うた。 教えられるままに、敷物の上に跪きイスラム教徒の礼拝のように頭を地に付けて拝んだ。 「何を祈ったのか」と聞くので、「プラントの建設の安全と成功を祈った」と答えた。
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『神様の思し召し』
バングラデシュは今も世界の最貧国である。 国土の大半を占める低地に洪水・干ばつ・暴風などの災害が毎年のように襲い、川の流れは洪水の度に変化する。 近い将来国土の何パーセントかは水没する危機にさらされながら、人々は住み慣れた土地を放れようとはせず忍耐強く米を作り続ける。 都市にあふれる子供たちはリキシャを引き、物売りをし、あるものは物乞いをしてその日の糧を求めて働く。 しかし人々の顔は明るく、自らに降りかかった災難や不幸を、社会や他人のせいにはしない。 すべて神様の思し召しである。
注1. ジュート本来の匂いか、製造過程で添加されたオイルの匂いかは不明。
注2. 最近では社会への女性の進出が目覚しく、以前のようなことは無くなったと聞いている。
注3. ラマダンの断食はイスラム教では、1)信仰告白、2)日々の礼拝、3)貧しい人々への喜捨、4)生涯で一度のメッカ巡礼、と並んで「五行」と呼ばれる信者の義務の一つである。 ラマダンは、預言者ムハンマドがメッカからメディナに移住した西暦622年を元年とする陰暦(ヒジュラ暦)の第9の月にあたり、我々が使用している太陽暦(グレゴリオ暦)の上では毎年11日ほど早くなる。
注4. 厳密に言うと天然繊維は植物繊維・動物繊維・鉱物繊維に、化学繊維は再生繊維・半合成繊維・合成繊維・無機繊維に分類される。 又、再生繊維と半合成繊維を化学繊維と呼び、合成繊維と対比して用いる場合もある。
注5. セルロース(繊維素)はアルカリ(苛性ソーダ)に直接溶かすことができないため、化学反応(二硫化炭素を反応させる)を行った上でアルカリに溶かしたものがヴィスコースである。 これを、硫酸を主成分とする溶液中に押し出すと、ヴィスコース中の苛性ソーダが硫酸と反応して除去(硫酸ナトリウムが生成)され、繊維素が糸となって出てくる。
注6. 川のこちら側はイスラム教徒の住む地域なので、宗教の掟により豚肉は食さない。 川の向こう側には少数民族の仏教徒が住んでいる。
注7. イスラム教を信仰する女性は男性の医師に診断されることを嫌うので、女医が居る病院があるという事は女性にとって極めて重要である。
注8. 既婚の女性はサリーを、未婚の女性はサロワ・カミューズを着る。 額の赤いマークもサリーも、元来インドのヒンドゥー教の既婚女性のものであるが、バングラデシュのイスラム教の女性も同じスタイルでおしゃれをするようである。
サリーの生地は5〜8メートルの細長い布1枚のみである。 着用するところを見た事はないが、まず腰に巻きつけてから最後に肩から胸の辺りにおろすらしい。 風にそよぐ様は天女の舞のようだ。 下着は着けるのか、トイレではどうするのか、亭主か恋人が脱ぐのを手伝うときは、彼女を立たせたままその周りをぐるぐる回るのか(公転説)、或いは彼は動かず一ヶ所に立ったままサリーを巻き取り、彼女がバレリーナのように回るのか(自転説)聞きたいことが色々ある。
サロワ・カミューズはインド・パンジャーブ地方の伝統衣装で、バングラデシュ古来のものではない。 サロワはゆったりとしたズボンで、紐でウエストを調整できる。 カミューズは裾が膝下まであるワンピースのようなもので、両脇にスリットが入っている。 これにオロナと呼ばれる布で胸を隠し背中に垂らす。 イスラム教徒はこのオロナで髪を隠す人が多い。
注9. 土や岩石を盛り上げて作るダムで、コンクリートダムが造れない地盤の弱い場所に向いている。 日本では御母衣ダム、エジプトのナイル川アスワンハイダムもロックフィルダムである。
注10. 金属を切断したり彫ったり削ったりするのに用いる工具。 石を割るのにも用いる。
注11. Japan-Bangladesh Friendship Bridge と呼ばれている。
注12. 腰からくるぶしまでの丈の布を筒状に縫ったもので、腰の部分で腰周りの余裕の布を手繰り寄せて紐のように結ぶ。 外観は腰巻と同じ。 建築現場の作業員・リキシャの車夫など男性労働者の殆どは、ランニングシャツ1枚にこのルンギを着用している。 多分下着はつけていないと思う。 当時公衆トイレなどは見たことが無かったが、ルンギをつけていればトイレは不要。 草むらで大でも小でも簡単に済ませることができる。