山のしづく
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旅行記
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エジプト紀行・2000

2010年9月20日作成

『プロローグ』

世界四大文明発祥の地のひとつであるエジプトは、是非一度訪れたいとかねがね思っていた。 旅行記本文に入る前に、古代エジプトの歴史を極簡単にまとめてみたい。 

エジプトの歴史は旧石器時代に始まる。 当時はアフリカ大陸とヨーロッパ大陸は、チュニジアとイタリアのところで陸続きになっていて、地中海は2つに分かれていたらしい。 紀元前10000年から8000年頃、地殻の大変動が起こり現在の姿になったと言われている。 

今から6000年前(紀元前4000年頃)のエジプトは、南から北へ流れるナイル川に沿った「上エジプト」と、河口から150kmほどのデルタ地帯の「下エジプト」の、全く異なった2つの地域に分かれていた。 「上エジプト」すなわちギザのスフィンクスより南側は、上流に進むほど耕作地が減少していく生活条件の悪い地域で、社会体制も閉鎖的であった。 一方「下エジプト」は肥沃な土地に恵まれ人口密度が高く、他民族との接触も多い開かれた社会であった。 

伝説の時代が終り、記録に残されている事実の歴史が始まったのは紀元前3000年頃のことある。 「上エジプト」の王であったナルメル王は、地中海に至るナイル川流域の上・下エジプト全土を統一した。 この第一王朝から、紀元前30年クレオパトラがローマのオクタヴィアヌスに征服されてローマ帝国の属州となるまで、実に3000年にわたる31代の王朝が続いたことになる。 

エジプトは常に専制君主制国家であった。 国を支配する王はファラオと呼ばれ、生きた神として死後は神性へ昇格すると考えられていた。 ファラオは全エジプトの宗教・政治・軍事上の権力を掌握し、王を補佐する軍人を常に側に置いていた。 尚、ファラオとは、本来エジプト語の王宮という意味の語がギリシャ語化したものであり、王その人がファラオと呼ばれるようになったのは、新王国時代の紀元前1580年以降のことである。 

エジプトの古代遺跡から発見された無数の神々は、古代エジプトの宗教は多神教であったかのような誤解を我々に与える。 神殿で見受けられる多くの神々は、単に絶対神との仲介役であり、絶対神は名も姿もない全能の唯一神であった。 エジプトの神官たちは、シンボルや様々な人格神を使って、絶対神を人々に分かりやすく説明しようとしたために、エジプトの宗教はあたかも多神教であったかのように我々は錯覚してしまうのである。 

ロゼッタ・ストーン
ヒエログリフ

エジプトの遺跡を見て廻ると、いたるところに絵文字が書かれているのを目にする。 もしこの絵文字(ヒエログリフ)が解読されていなかったなら、現在我々は古代エジプトについてほとんど何も知らなかったであろう。 1799年ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、エジプトの港湾都市・ロゼッタで要塞工事をしていたフランス軍将校が、縦114.4cm・横72.3cm・厚さ27.9cm・重量760kgの、暗色の花崗閃緑岩からできている石碑を発見した。 碑文は上から順に古代エジプトのヒエログリフ・古代エジプトのデモティック(草書体)・古代ギリシア語の3種類の文字で書かれていた。 これら3種類の文章の内容は同じと推測され、幾人もの学者が競って解読を試みた。 最終的にフランスのジャン・フランソワ・シャンポリオンが解読に成功した。 現在この石碑ロゼッタ・ストーン、イギリスの大英博物館に展示されている。 

世界最長のナイル川は、灼熱の北アフリカ10カ国を南北に貫いて流れている。 この川の流域に古代エジプト文明が誕生し、3000年にわたり繁栄した。 その長い歴史の中で、ひときわ輝いた3つの時代があった。 

一つは、今から約5000年前、当時の都はメンフィスにあり、ナイルの下流域に巨大なピラミッドが造られた。 古代エジプトの建築技術は、文明の誕生から程ないこの時期に、既に極めて高度なレベルに達していた。 比較的短期間のうちに、メイドゥームの崩れピラミッド・上部の傾斜角度を緩くしたダハシュールの屈折ピラミッド・同じくダハシュールの赤ピラミッド等の習作を経た後、その集大成ともいえるギザの3大ピラミッドを完成させた。 

二つ目は、今から約3500年前、新王国時代と呼ばれ、古代エジプトの歴史の中で最も繁栄した輝かしい時代であった。 ナイル川中流のルクソールに、巨大な神殿が続々と建造された。 中でもカルナック神殿はエジプト最大の神殿で、ファラオが自ら祈りを捧げたと言われている。 カルナック神殿から南に3kmのところには、その付属施設としてルクソール神殿が造られた。 人々はナイルの東岸に暮らし、死者は西岸に葬られた。 西岸には、メムノンの巨像・ラムセス2世の葬祭殿・ラムセス3世の葬祭殿・ハトシェプスト女王の葬祭殿が建造された。 エジプト初の女王であったハトシェプスト女王の葬祭殿は、切り立った崖に3段テラスの特徴的な建物として建造され、古代エジプト史上最高傑作と言われている。 

三つ目は、今から約2000年前、地中海に面したアレクサンドリアの時代である。  アレクサンドリアは、紀元前332年にマケドニアのアレクサンドロス大王によって建設された都市である。 その後335年間に亘りプトレマイオス王朝時代のエジプトの首都として、クレオパトラの宮殿があり学問と芸術の都として栄えた。 4世紀頃に東地中海地方に頻発した地震により地盤が沈降し、古代遺跡のほとんどは海中に没してしまった。 その後、1992年頃から本格的な海底の調査が始まり、スフィンクス像や女神像・プトレマイオス王朝時代の王の像・オクタヴィアヌスを始めとするローマ皇帝の像・数多くのアンフォラの壷(取っ手が2つ付いた壷)・紀元前4世紀頃の沈没船など、貴重な発見が相次いでいる。 

私たちの今回の旅は、カイロから南の今から約5000年前から3000年前までの、古代エジプトの遺跡を巡る旅である。 JTBが企画したUCSカード会員の「シンガポール航空で行く・神秘の旅エジプト9日間」というツアーに参加した。 メンバーは妻と長男と私の3人。 旅行日程は2000年12月14日から22日までの9日間。 

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『エジプト紀行』

カイロ・考古学博物館
ツタンカーメン王とアンケセナーメン王妃
(黄金の玉座の装飾)
ギザの三大ピラミッド
クフ王のピラミッド(下部)
ギザのスフィンクス

12月14日(木)

朝7時に自宅を出発、タクシーで名古屋空港(現在の県営空港)に向かう。 名古屋10時発、シンガポール15時50分着(SQ0981便)、時差1時間。 シンガポールまで約7時間の飛行。 深夜のカイロ行きまで、クラークキー等を散歩して時間をつぶし、23時35分発のカイロ行き(SQ0428便)に乗る。 

12月15日(金)

深夜2時50分アラブ首長国連邦のドバイに着陸、一旦降機する。 時差が4時間あるので、正味7時間15分のフライト。 ドバイ空港の売店は、宝石・貴金属売り場が大部分を占める。 日本より相当割安なので買う人が多い。 当時はまだ小さな空港であったが、現在は旅行客も飛躍的に伸び、世界で最もサービスの良い空港という噂である。 飛行機の給油が終わり、早朝4時10分に搭乗、6時25分にカイロに到着。 時差2時間で4時間15分のフライト。 飛行時間が細切れなのであまり眠れない。 

ホテルに一旦チェックインして休息を取った後、エジプト考古学博物館を見学する。 2階建てのこじんまりした博物館であるが、エジプト5000年の歴史が凝縮されている。 全部で100ほどの部屋があり、時代別及びテーマ毎に展示されている。 歴代ファラオの像の他に、運搬船で働く様子・供物を運ぶ女性像・ナイルで漁をする船・牛の頭数調査の様子など生活環境が窺える展示品も多く、当時の仕事の様子がよく分かる。 中でも最大の見ものは、ツタンカーメン王(注1)の秘宝である。 黄金のマスク・黄金の棺(外側の2層がここにあり、一番中の棺本体は王家の谷の墓にある)・黄金の玉座・黄金のベッド等、財宝の数々を見ていると時間の過ぎるのを忘れてしまうほどだ。 エジプトの歴史において、ツタンカーメン王は決して重要な王とは言えないが、墓が盗掘を免れたことにより多くの情報と財宝が現在まで保存されたため、特別に重要視されるようになったのだと思う。 ミイラ展示室には、11人の王のミイラとともにミイラを製作中の壁画や製作手順・医療器具・葬送の儀式などの展示があった。 僅か2・3時間で見学するのはもったいない。 2・3日かけてゆっくり見たいところだ。 

午前中は霧だったが午後になり晴れ間が見えるようになった。 エジプト料理の昼食後、いよいよギザのピラミッド(注2)を見に出かけた。 ギザはカイロの西約13kmにありバスで約15分、カイロ市内からもピラミッドが見える。 エジプトにはギザの3大ピラミッドの他にサッカーラの階段状ピラミッド・ダハシュールの屈折ピラミッドなど、大小約60個のピラミッドがある。 ギザの3大ピラミッドは、それらの建築工法の積重ねを経て建造された集大成と言うべきものである。 

3つのピラミッドは南から順に、クフ王・カフラー王・メンカウラー王(注3)の順に並んでいる。 太陽の光の方向に対してそれぞれ斜めに並んでおり、互いに太陽光線を遮ることがないように配置されている。 近くに寄るとその大きさに圧倒される。 1辺が1.5mほどで重量約2.5トンの立方体に切り出された石灰岩が、クフ王のピラミッドの場合約300万個使用されているという。 このピラミッドを見ただけで、今回の旅行の目的は充分達せられたと言ってもいいほどである。 この旅行以来私はピラミッドの造り方に興味を抱き、関係のある書籍やテレビ番組を注意して見るようになった。(注4) 

クフ王のピラミッド内部に入りたかったが、1日100人までの入場制限があり入場できず、カフラー王のピラミッドも12月中は入場休止中で、一番小さいメンカウラー王のピラミッドの内部を見学した。 盗掘された入口から、天井に頭がつかえそうな見学用に造られた細くて急な階段を通って内部に入った。 内部の大回廊の天井は非常に高く、極めて精巧な石組みで造られており、王の玄室に通じていた。 1837年に玄室から遺体の一部が発見されたが、ロンドンの大英博物館への輸送中に船が沈没し、石棺もろとも失われてしまったという。 

カフラー王のピラミッド正面には葬祭殿があり、ここから参道が真直ぐ河岸神殿に通じていて、神殿のすぐとなりにはスフィンクスがある。(注5) 河岸神殿の正面は、現在砂地が広がっているだけであるが、かつてはナイルの船着場があり、ここからピラミッド建設用石材が荷揚げされたという。 一部には当時のままの黒い肥沃なナイルの土が残っていた。 葬祭殿内部では、インカ帝国のクスコの石組みにも引けを取らないほどの、極めて精度の高い石組みが見られた。 

我々の旅は冬だったので、気温は20℃前後で快適であったが、夏は35℃から40℃にもなるという。 ピラミッドのある場所はほとんど半砂漠地帯なので、夏の旅行は大変であろう。 

夕刻カイロのホテル・ヘルナン・シェファードに戻る。 窓からナイル川の夜景を見る。 対岸はゲズィーラ島。 高さ187mのカイロタワーが見える。 近年エレベーターが落下して死者が出たという。 

12月16日(土)

早朝ホテルを発ち、カイロ空港(MISR空港)からルクソール行きのエジプト航空の国内線に乗る。 カイロ08:40発ルクソール09:30着、南に約500km、50分の飛行である。 眼下には茶褐色の砂漠が広がり、ナイル川の流域に沿って緑の耕地が見えた。 

今日の予定はルクソール(注6)のナイル東岸の観光である。 ルクソールはカイロからナイル川を遡った東岸にあり、新王国時代に繁栄した首都テーベがあった。 

ルクソー市街地図
スフィンクス参道とカルナック神殿
ルクソール神殿
ナイル川沿いのホテルの庭

空港から、先ずカルナック神殿(注7)に向かった。 この神殿は500m四方の神域に歴代の王が関与して増改築を重ね、各時代のファラオと神々を一緒に祀るエジプト最大の複合神殿である。 入口にはセティ1世の小オベリスクがあり、ラムセス2世のスフィンクス参道(注8)を通って第1塔門に至る。 第1塔門を入るとタハルカ王(第25王朝・紀元前689−663即位)のパビリオンがあり、その先に第2塔門・大列柱室・第3塔門・オベリスク群・第4塔門・・・と遺跡群が延々と続いている。 パビリオンや広場の周囲にも、遺跡の主軸から直角方向に配置された塔門が幾つもあり、多くの小神殿・礼拝堂・祭壇などがある。 

中でも列柱室は壮観であった。 柱の周囲が約15mあり高さ23mの円柱134本が、葉の開いたパピルス(注9)の形で林立しており、各柱の表面にはレリーフとヒエログリフがぎっしりと描かれていた。 遺跡脇には聖なる池(注10)があり、神官はここで1日に4回沐浴を行ったという。 

この旅行の3年前の1997年に、ルクソール西岸のハトシェプスト葬祭殿で、武装テロリスト集団による銃の乱射事件があり、日本人10名を含む外国人観光客60数名が亡くなったことは記憶に新しい。 その影響と思われるが、今回の旅行中も我々の行く先々で、武装した警備員たちが警戒に当たっている様子が見られた。 

昼食後ルクソール市内のナイル河畔を散歩し、午後はルクソール神殿を見学に出かけた。 この神殿はカルナックのアメン大神殿の付属神殿として建立されたもので、かつてカルナック神殿とは約3kmのスフィンクス参道で結ばれていたという。 塔門の形はカルナック神殿のものとよく似た形をしているが、塔門の前の左側のみに1本のオベリスクと3体のファラオの像が残っていた。(注11) 元々左右対称形にオベリスクが配置されていたが、右側にあったオベリスクは現在パリのコンコルド広場にある。 この神殿の中庭にもパピルスを束ねた形の2列の列柱が残っており、頭柱は閉じたパピルスの葉であった。 

紀元前2000年頃の神殿の建築技術は、それまでのピラミッド建設で経験した技術でほとんどが対応できたと考えられえるが、新しい技術としては例えばカルナック神殿の円柱組み立て(注12)と、ルクソール神殿のオベリスクの製作・建立(注13)があったようだ。 アラブ人進入後神殿の一部を破壊して、イスラム教のモスクを建設した後が見られた。 

夕刻ナイル河畔にあるホテル・ルクソール・ヒルトンに入る。 ホテルの庭に植えられた椰子の林の間からナイル川が見えた。 石造りの遺跡ばかり見た後、久しぶりに植物を見たので心が安らいだ気分になった。 

12月17日(日)

今日1日は自由行動日である。 アスワン経由のアブ・シンベル神殿日帰り観光ツアーを選んだ。 早朝ホテルを発ち、ルクソール空港からアスワン行きのエジプト航空の国内線に乗る。 ルクソール08:35発アスワン09:05着、30分の飛行。 

アスワンはカイロ・アレクサンドリアに次いで、エジプト第3の都市である。 エジプト綿・さとうきびが主な産物で、花崗岩はこのあたり以外では取れないという。 古代エジプトの時代も、花崗岩はここから切り出して船或いは筏に乗せてナイルを下って運ばれたという。 

先ずアスワン・ハイ・ダムを見学する。 高さ111m・全長3600mのロックフィルダムである。(注14) 「ダム堰堤の埋立てのために、ピラミッド17個分ほどの土砂が使われた」と、現在のエジプトの技術も古代の技術と比べて満更ではないという意味に受け取れる現地ガイドの説明があった。 「一辺が1.5m・重量2.5トンの立方体の大石を300万個切り出して、146mの高さにまで積み上げるのと、そこら辺りから掘り起こした土砂をショベルで水中に落とし込むのとは比較にならないよ」と反論したいところであった。 このダムによって、ここから上流の南に向けて500kmの人造湖・ナセル湖ができた。 

アスワンの近くに古代の石切り場があるというので見に行った。 一見砂漠のような場所に岩盤が露出していて、長さ十数メートルほどのオベリスクの石切り作業を中断した跡があった。 切りかけのオベリスクには亀裂が入っていた。 

ナイルから少し遠ざかるとそこは既に砂漠である。 このあたりで一番砂が綺麗と言われる場所で、砂をナイロンの袋に詰めて記念に持ち帰った。 エジプトの中ではアスワンが最もアフリカ的な町と言われているそうである。 

アブ・シンベル神殿とナセル湖上空
アブ・シンベル大神殿
アブ・シンベル小神殿

昼近くに空港に戻り、昼食は空港の待合室でクイックランチをとる。 アスワン空港からアブ・シンベル行きのエジプト航空の国内線に乗る。 アスワン12:00発アブ・シンベル12:30着、30分の飛行。 飛行機はナセル湖の西岸上空を飛ぶため、機体の左側に席を取った。 飛行機が着陸態勢に入ると、機体の左下にアブ・シンベル神殿が見えた。 

アブ・シンベル大神殿(注15)はアスワンから南に約300km、北回帰線を越えてスーダンとの国境まであと僅かのナセル湖のほとりにある。 古代エジプト史上最強の権力者で、その激しい気性が有名なラムセス2世が建造した。 ラムセス2世本人のための大神殿と、その妻ネフェルタリのための小神殿(注16)が隣接して建てられている。 今から約3300年前のことである。 

大神殿の正面には、4体のラムセス2世の座像が彫られている。 座像の高さだけで20mあり、前に立つと圧倒されてしまう。 ラムセス2世の顔は右の像が一番若く、左ほど年をとっている。 中央左の上半身は、発見された当時のまま足元に置かれていた。 神殿内部にも数多くのファラオの像とともに、彼の戦勝を記念する情景とヒエログリフによる叙事詩がぎっしりと刻まれていた。 

アブ・シンベル小神殿は、白色で美しい神殿である。 神殿前面には、ラムセス2世の立像4体とネフェルタリの立像2体が並び、その足元には子どもの像2体が刻まれている。 ファラオとその妃の像が、同じ大きさで並べてある例は他に例を見ないという。 当時のエジプトでは、像の大きさは権力に比例するのが常識であったから、ファラオのその妻に対する愛情の深さが窺える。 神殿内部は小ぢんまりとしているが装飾は上品で美しい。 ネフェルタリはヌビア人だったといわれている。 

1965年にアスワン・ハイ・ダムが建設されたとき、この二つの神殿は水没の危機に曝された。(注17) ユネスコによる努力の結果、両神殿は平均重量30トンの1036個のブロックに切断され、60m高い位置に完全に移設された。 ダムが完成しナイルの水位が徐々に上昇する中を、1000個あまりのブロックを急ピッチで運び上げたという。 神殿再建の本工事は、1968年から1972年にかけて行われたとのことであるから、ちょうど私が旧ユーゴスラヴィアで繊維プラントの建設工事をしていた時期と重なる。 神殿を丁寧に見ると、切断された跡が分かるがほとんど気にならない。 アスワン・ハイ・ダムには驚かなかった私も、この移設工事については、よくぞこれだけの工事を成し遂げたものだと感心した。 

ラムセス2世(大英博物館)
ネフェルタリ

二つの神殿から数十メートルのところはナセル湖畔である。 この辺りはアスワンの堰堤から300kmも上流であるにもかかわらず、対岸が霞んで見えるほどで川という趣は無い。 川の流れ勾配が小さいのであろう。 ナセル湖ができてからナイル川のエジプト流域にはワニがいなくなってしまったという。 

アスワンからの飛行機は、アブ・シンベル到着の2時間30分後にはアスワンに向けて折り返すことになっている。 空港から神殿までは、無料のシャトルバスで10分ほどかかり、バス停からみやげ物屋の並ぶ通路を5分ほど歩くので、正味の観光時間は2時間足らずであったが、この2つの神殿の印象は脳裏に深く刻まれて残っている。 

アブ・シンベル15:00発、アスワン15:30着のエジプト航空で再びアスワンに戻る。 空港からバスでナイル川に出て、ナイルの舟遊びをする。 フルーカと呼ばれる帆掛舟に乗り、アフリカの陽光とナイルの風を感じながらひと時を過ごす。 船から見ると岸辺にはビルが立並び、アスワンは大きな町であることが分かる。 ダムに沈んだと思われる上部のみが水面に出ている遺跡が見えた。 くすんだ色のカイロの町並みと比べると、この町の色は白っぽい紅色で美しい。 ガイドのシェリフさんによれば、町の色即ち建物の色は都市によって異なるという。 アスワンは花崗岩の色で薄いピンク、ルクソールは茶色、カイロは象牙色だそうだ。 カイロを除けば、なるほどと思った。 シェリフさんはカイロ大学で日本語を学んだと言っていた。 日本に来たことは無いが日本語は上手だった。 

アスワン21:30発、ルクソール22:00着のエジプト航空でルクソールに戻る。 ルクソールから、スーダンとの国境に近いアブ・シンベルまで、日帰りで往復したわけであるから相当な強行軍であったが、航空機の乗り継ぎも予定通りで極めて効率的な旅行ができたと思う。 ホテルは昨日と同じ、ナイル河畔のルクソール・ヒルトン。 

12月18日(月)

2日前はルクソール東岸を見たので、今日はルクソール西岸の王家の谷(注18)を見学する。 先ずホテルからバスでメムノンの巨像(注19)を見に行く。 呼び名はギリシャの伝説メムノン王に由来しているというが、この像は実際にはメムノン王のものではなく、新王国時代のアメンホテプ3世のもので、プトレオマイオス朝の頃からメムノンの像と呼ばれているらしい。 

王家の谷
ハトシェプスト葬祭殿

ルクソール西岸ネクロポリス(墓地の集合体)の総合チケット売り場の前でバスを降り、そこからは観光用のディーゼルトロッコに乗る。 トロッコと言ってもレールは無く、道路を走る。 ファラオの墓が集まっている「王家の谷」まで相当距離があるので、徒歩で行くのは大変だ。 チケット売り場の近くに、早稲田大学・吉村教授の発掘詰所があると聞いた。 王家の谷にある全ての墓は新王国時代に岩を掘って造られ、現在までに68個発見されている。 ラムセス6世・ラムセス9世・メルネプタハ・ツタンカーメンの墓の内部に入った。 何れの墓も廊下の先に3つか4つの部屋があり、一番奥が玄室で石の棺が置いてある。 ラムセス6世の玄室(棺の部屋)の天井には、天のナイル川を航行する船と星と行列する人々が、紺の地に金で描かれており印象に残っている。 

ツタンカーメンの墓(注20)は、この谷で最も地味であるにもかかわらず、20世紀はじめに発見され、盗掘を免れて莫大な財宝が残っていたため最も有名になった。 階段を下りて短い廊下を行くと、前室がありその右側に玄室と財宝室、右の奥に控えの間がある。 部屋の壁に装飾があるのは玄室のみで、他の部屋は質素なものであった。 棺は三重構造の箱の中に納められていたが、外装はカイロのエジプト考古学博物館に展示されており、ここには一番中にあった黄金の棺とその中のミイラが安置されていた。 棺の周囲には精密な絵と文字が彫られており、当時の職人の技量の高さが窺える。 黄金のマスクもカイロの博物館にある。 壁面は眩いばかりの黄金で、王が儀式をおこなっている様子が描かれている。 ツタンカーメンの墓は、ちょうどラムセス6世の墓の下に位置していたため、盗掘者に見つかりにくかったのかもしれない。 

墓の中の棺や埋葬品の保管の様子を見ると、ちょうど現代人が引越しをするとき荷物を梱包して、運びやすいように家具や財宝の数々をまとめて整理したという印象を受ける。 当時のファラオたちにとって、黄泉の国への旅立ちは大きな引越しと考えてもおかしくないのかもしれない。 

墓の見学には各王の墓ごとに入場料を取られる。 ツタンカーメンの墓の料金が最も高く、他の王の墓は3つで1枚のチケットになっており、しかもツタンカーメンの半額である。 

再びディーゼルトロッコに乗ってハトシェプスト葬祭殿(注21)を見に行く。 扇状に湾曲した自然の岩山を背景に、幅150mにも及ぶ美しく偉大な建築である。 第2柱廊正面右手にある礼拝所近くの目立ちにくい部屋にある壁画に、顔が破壊されていない唯一の女王の顔が見られた。 これ以外の女王の顔は、その義理の息子(トトメス2世の側室の子)トトメス3世によって削り取られたという。 

後世この葬祭殿には、「北の僧院」と呼ばれるキリスト教の僧院が建てられたが、そのお蔭で略奪・破壊から神殿が守られたため、柱廊内のフレスコ画や神々の像が破壊されずに残っていたのは幸いであった。 

夕刻空港に戻り、ルクソール16:30発、カイロ17:20着のエジプト航空でカイロに戻る。 カイロのホテルは、15日と同様ホテル・ヘルナン・シェファード。 

12月19日(火)

ダハシュール・赤のピラミッド
ダハシュール・屈折ピラミッド
サッカーラ・階段ピラミッド
カーペットスクール

今日はカイロからバスで30分から1時間で行けるメンフィス・サッカーラ・ダハシュールの遺跡を巡る。 

メンフィス(注22)ではラムセス2世の巨像と、大理石で造られたスフィンクスを見る。  メンフィス遺跡の入口を入って直ぐの建物の1階に、ラムセス2世の巨像が横たわっていた。 横たわった像の顔を間近に見ると、その大きさが実感できる。 建物を出て直ぐ前の広場の真ん中にアラバスター(大理石)製のスフィンクスがある。 ギザのスフィンクスは顔が大分痛んでいたが、こちらのものは綺麗な顔立ちだ。 長い髭をつけているので、やはり誰かファラオの顔に似せて作られているのであろう。 近くにはラムセス2世の立像が立っていた。 こちらの像は花崗岩でできている。 ラムセス2世は、至るところに自分の神殿や巨像を残している。 偉大な権力者だったに違いない。 この日もそうであったが、この地方の冬の朝は霧が多いという。 1時間もするとすっかり晴れてきた。 

ダハシュール(注23)では、通称「赤のピラミッド」と「屈折ピラミッド」の2基のピラミッドを見る。 この辺りは軍事基地のため、周囲には民間の施設は何も無い。 「赤のピラミッド」の内部に入ることができた。 入口からの通路は下りのスロープで、仮設の階段と手すりが付いていた。 天井は低く腰をかがめて歩く必要がある。 内部の大回廊は、ギザのメンカウラー王のピラミッドと同様数メートルの高さがあり、ピラミッド本体とは異なる石材で極めて精度の高い石組みがなされていた。 一旦最下部の部屋に下り、そこからアクセス用に仮に設けられた簡易足場を上ると隔離された部屋に出た。 そこが多分玄室であろう。 何やら塩素のような強い刺激臭がして、長時間その部屋に留まることはできなかった。 「屈折ピラミッド」は高さ105m、下から50mほどのところで傾斜角度が変っている。 同じ角度を保って上まで建設するのが技術的に困難だったのか、或いは途中で材料の石材が不足したのかは分からない。 

サッカーラ(注24)は、エジプトのピラミッド建設の第一歩を印したといわれるジェセル王(注25)の階段ピラミッドで有名であるが、それ以外にも数多くの遺跡が残っており、じっくり見れば1日あっても足りないほどである。 6段の階段状のピラミッドの高さは60mほどで、ギザのメンカウラー王のピラミッドよりもやや小型である。 入口の柱廊には本物のドアの他に偽のドアが14箇所も作られていた。 

バスはのどかな田園風景が広がるサッカーラ街道を進むと、観光用カーペットスクールが点在しているのが目に入る。 スクールといってもカーペットの作り方を教えているわけではなく、観光客向けに実演・販売をしているだけである。 その中の一軒にバスは停車し実演を見物する。 糸を一刺し通させてもらうと、あどけない織り子からチップを要求された。 最高級品は絹製で、100cmx60cmほどの大きさのもので、約8万から10万円ほどだった。 

カイロに到着後、ハーン・イル・ハリーリのバザール(中近東の都市にある市場)に出かけた。 歴史は古く14世紀末には市が開かれていたという。 迷路のような細い道が何本にも分かれていて、道の両側には商店がぎっしりと並んでいる。 観光客目当ての金・銀・銅などの金属細工の店が多い。 金属細工店と兼業のカフェで一服する。 夕刻カイロのホテル・ヘルナン・シェファードに戻る。 15日と同じホテルだ。 名目上は5つ星ホテルであるが、実質は2つ星くらいだ。 

12月20日(水)

今日はこの旅行の最終日。 イスラム教のモスク・ガーミア・ムハンマド・アリ(注26)を見に行く。 世界のモスクで観光客に内部を公開しているところは極めて少ない。 イスタンブールのアヤソフィアやスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)とこのモスクくらいではないかと思う。 概観もイスタンブールのモスクに非常に良く似ている。 柱や壁の大理石特有の模様が美しい。 通常モスク(ガーミア)は、石灰石で造られるがこのモスクは特別で、大理石で造られている。 そのため、別名「アラバスター・モスク」とも呼ばれているという。 天井のドームのオスマン朝様式の装飾が美しい。 男性は1階の広間で、女性は2階の後ろの方で礼拝するそうである。 女性は男性より後ろで礼拝を行う理由は、男尊女卑というわけではなく、礼拝中の男性が信仰以外の雑念を抱くのを避けるためだという。 イスタンブールのブルーモスクを見学したときも、同様の説明を受けたのを思い出した。 ルクソール神殿にあった2本のオベリスクの中の1本を贈った(現在パリのコンコルド広場にある)お返しに、フランス政府から貰ったという時計が飾ってあったが、まだ1度も動いたことはないと説明があった。 

午後カイロ空港に向かう。 カイロ発シンガポール行きのSQ427便に乗る。 来たときとちょうど反対のルートである。 カイロ13:25発ドバイ18:30着、時差2時間、正味3時間05分の飛行。 1時間30分のトランジット待機の後、ドバイ20:00発シンガポールに向かう。 

12月21日(木)

早朝07:50シンガポール着、時差4時間、正味7時間50分の飛行。 この日は丸1日シンガポール市内観光で、エリザベスウォーク・千燈寺院(仏教)・スリマリアン寺院(ヒンドゥー教)・スルタンモスク(イスラム教)などを回り時間をつぶした後、観光バスはショッピングのための店に立ち寄る。 この1日はもったいない気がするが、接続便の都合でやむをえない。 夕方ホテル・オールソンに入り、夜10時頃まで仮眠を取る。 

12月22日(金)

深夜01:20シンガポール発名古屋行きSQ0982便に乗る。 この便は会社員時代に、インドネシアへの出張でよく利用した便だ。 08:20名古屋着、時差1時間、正味6時間の飛行。 

『エピローグ』

現代人の生活の中にも、古代エジプトの影響を受けている事柄が数多く残っている。 その中の幾つかを述べてみたい。 

1$紙幣の裏

1ドル紙幣の表には、アメリカの初代大統領・ジョージ・ワシントンの肖像画が描かれており、その裏には「ピラミッドの上に目が輝いている図」が描かれている。 ピラミッドの上の目は古代エジプトの神を示し、その三大属性の一つである光を象徴している。 ワシントンはフリーメイソン(Freemason)だった。 メイソン(mason)とは石工・レンガ工(タイル工)を意味し、そのルーツは古代エジプトであると考えても不自然ではない。 アメリカ政府はフリーメイソンの主義をピラミッドと見なし、ドル紙幣の裏側にその図を表すことによりジョージ・ワシントンの精神を再現しているのではなかろうか。
(注)フリーメイソン:
国際的な秘密結社、古くはモーツァルト、現在日本でも鳩山前首相などがメンバー(多分小沢一郎氏も)。 私の知人(外国人)にも幾人かの会員がいたが、外部の人間には詳細を話さない。 

ルクソール神殿から持ち出された1本のオベリスクが、現在ではパリのコンコルド広場の象徴となっている。 ラムセス2世(新王国第19王朝・紀元前13世紀)が建造したもの。 又、ロンドンのテムズ河畔とニューヨークのセントラルパークにも、「クレオパトラの針」と言う愛称で呼ばれるオベリスクが、最も古い彫刻として市民に親しまれている。 尚、これらのオベリスクはクレオパトラとは無関係で、トトメス3世(ハトシェプスト女王の義理の息子・新王国第18王朝・紀元前15世紀)によって建造されたものである。 

キリスト教では祈りの最後に「アーメン」と言う。 イスラム教での祈りの言葉も「アーミン」、更にキリスト教よりも古いヒンズー教や仏教でも祈りの初めに「オーム」と唱える習慣があるという。 この「オーム」という響きは、元来神性な言葉のはずであるが、ある日本のカルト信教団の名称になってしまったため、良い印象が失われてしまった。 他にも真言宗などで唱える最初の言葉には「おん」という言葉があるらしい。 

古代エジプトの唯一神はアメン(アモンとも言う)又はアメン・ラー(又はアモン・ラー)と呼ばれていた。 「アーメン」は、古代イスラエルの12部族と云われた子孫たちがエジプトにいたときに、太陽神ラーを拝んでいた言葉であるという。 その祈りの言葉は、太陽神ラーに対して、「わたしの願いを聞き入れてください」という意味で、今も多くの宗教にこの祈りの言葉が引き継がれている。 

アンク十字

キリスト教の「十字」(ラテンクロス)は古代エジプトの「アンク十字」に由来しており、物質に閉じ込められた状態から脱け出した霊の復活を表しているという説もある。 その他にも様々な形で、古代エジプトの習慣や言葉が現在社会に色濃く残っていることは興味深い。 

今回の旅行はかなり忙しい日程であったが、古代エジプト文明の一端を垣間見ることができた。 この旅行以前の私のエジプト感は、強大な権力を持った王が全てで、人間からはほど遠い世界という印象であった。 ギリシャの哲学者をはじめとする学者や芸術家たち、さらには風呂好きで演劇・絵画など芸術を愛し、人間の喜怒哀楽を表現したローマ人たちのような人間性を、以前の私は、古代エジプト人にはあまり感じていなかった。 しかし、これはひとえに私の勉強不足から来るもので、当時のエジプトにもギリシャやローマに勝るとも劣らぬ文明が栄え、更には現在の私たちとあまり変らぬ人々が、それぞれの人生を送っていたということが分かった。 私が最も驚き感心したことは、3000年を越える長期にわたり、メソポタミア・ギリシャその他数多くの文明と共存し、31代にもわたる王朝が続いたことである。 当時のゆったりとした歴史の流れと比較して、現在の目まぐるしく進化する世界の動きは、私に対数目盛りを連想させ、将来人類は何処に行こうとしているのか、あまりにも先を急ぎすぎているのではないかという一種の危惧の念を抱かざるを得ない。 

『注記』

注1.     日本では「ツタンカーメン」と発音するが、より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)と言う。 地元のガイドや英語のガイドの発音を聞くと、「ツタンカーメン」と聞き取ることは全くできない。

注2.     ピラミッドの語源は、ギリシャ語ピラミス(ケーキの意味)がラテン語になったといわれている。 ピラミッドを初めて見たギリシャ人が、ケーキの形に似ていると思ったらしい。

注3.     大きさはそれぞれ、クフ王が高さ137m(現在は頂上部が無くなっているため本来は146m)X底辺233m、カフラー王が高さ136.5mX底辺210.5m、メンカウラー王が高さ66mX底辺108mである。 石灰岩1個の重量は約2.5トンで、クフ王のピラミッドの場合約300万個使用されている。 こうした規模とともに石積技術も最高水準にあり、例えば底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒から5分30秒という驚異的な正確さである。 何れのピラミッドも4角錐の4つの底辺は正確に東西南北の方向を向いており、底辺の長さと高さの比は黄金比である。 かつてピラミッドの表面は外装用の白い化粧板で覆われていたが、現在はカフラー王のピラミッドの頂上部を除いて全て盗まれてしまったという。

らせん傾斜路説のイメージ写真
らせん傾斜路・内部トンネル説
天秤式機械説の一例

注4.     2500年前ギリシャのヘロドトスがエジプトに旅をしたときの報告として、クフ王のピラミッドは10万人の奴隷が20年で造ったということになっていたが、最近の発見により、ナイルの洪水中(毎年6月から9月までの3ヶ月間)の農民たちの失業対策ではなかったかという説が有力になってきた。 1990年にワークマンヴィレッジ(労働者の村)が発見され、4600年前にピラミッドを造った人たちの墓(600以上の墓)から1000体以上の人骨が発見された。 男女の比率は50/50で子どもの骨もあり、独立した家族であることが分かった。 又、大英博物館からも、ファラオを中心とした階級社会ではあったが、他の古代文明に比べて庶民の生活は自由であったとの報告がある。

ピラミッド建設に必要な石材は主にナイル上流のアスワン付近で産出し、石切場で切り出された後、粗加工した状態で搬送されたと考えられる。 それらの石は一定の規格寸法があった訳ではなく、現場で必要な寸法に合わせて専門の職人がのみで整形していた。

石材を積み上げる方法については幾つかの説がある。 一つは、日乾し煉瓦と土などで作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げる方法である。 この傾斜路はピラミッドを取り巻くように築かれ、4辺で直角に転回しながら石を運び上げていく「らせん傾斜路説」が考えられたが、最近では長大な一本道が使われていたという「直線傾斜路説」が多くを占めるようになってきた。 この方法だと、各ピラミッドの傾斜路がナイル川から石材を降ろして運び上げるのに丁度良い位置に来るという研究もある。 また近年では傾斜路を使用したのは途中までで、それ以降はピラミッドのふちに沿って螺旋状の内部トンネルを造りながら石材を運んだとする「内部トンネル説」も注目を集めている。 この説は2009年7月5日(日)、NHKスペシァルで放映された。

しかし何れの説も根本的な疑問を完全には解消しておらず、紀元前455年にギリシャの歴史家ヘロドトスが書き残した方法が最も説得力があるように私には思われる。 ヘロドトスは、最初に階段状のピラミッドが建てられ、石材はその階段を1段ずつクレーンのような機械で吊り上げ、外側の滑らかな仕上げは最後に行われたと考えた。 1段の高さが数メートルの階段を、下の段から上の段に持ち上げる機械については、天秤式の機械が用いられたとヘロドトスは述べており、よく似た機械の絵が描かれた墓が発見されている。 この機械は現在のクレーンの元祖とも言うべきもので、レバノン杉と椰子の木を組み合わせて梁を作り、その中央に石でできたピボット式の支点が設けられ、梁は上下・左右360度の方向に自在に回転させることができた。 天秤の梁の片側に石材をロープで吊り、他方にバランスを取るための錘の石や砂利を吊り下げて、梁の方向やバランスの微調整はロープを使って人が操作した。 1個約2.5トンの石のブロックが大多数であるが、中には1個40−50トンにも及ぶ巨大な石を吊り上げる必要があり、そのための大型の天秤式クレーンが特別に準備されたと考えられる。 ナイル川からピラミッド建設現場までは「直線傾斜路」が用いられたと思われるが、建設自体はこの「天秤式機械説」が最も現実的であろうと私は思う。

クフ王の大ピラミッドについて、1978年に大林組が「現代の技術を用いるなら、どのように建設するか」を研究する企画を実行した。 それによれば、総工費1250億円・工期5年・最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。1立方メートル当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対して、ピラミッドは4万8000円になるという計算結果であった。(金額は当時のもの)

注5.     これらをまとめて、ピラミッドコンプレックスと呼ばれている。 スフィンクスの大きさは、全長57mX高さ20m。 スフィンクスはアラビア語でアブル・ホール(畏敬の父)と呼ばれ、頭はカフラー王に似せて造られたという説もある。 アラブ人の侵入後鼻が削られ、髭はイギリスに持ち帰られ現在大英博物館にある。

注6.     ルクソールはかつてテーベと呼ばれ、中王国・新王国そして末期王朝時代の一時期には首都として栄えた。 全盛期は新王国時代(紀元前1580年〜紀元前1085年)で、多くの巨大神殿・葬祭殿・岩窟墳墓などが遺跡として残っている。 古代エジプト人にとって「あの世」がある場所は墓地であり、ファラオたちは盗掘を防ぐためにルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求めた。 しかしそのほとんどは略奪に遭い、例外的に残されたのがツタンカーメンの墓であった。 彼は18歳で早世したため権力は弱く、他の王と比べて墓が質素だったために盗掘を免れたといわれている。 それにもかかわらず、エジプト考古学博物館の2階半分を占めるほどの財宝が残されているわけであるから、強大な王の墓は想像を絶する財宝の山であったことであろう。

注7.     神殿は神を迎え入れる宇宙であり、床は大地を天井は天空を表していた。 そのため天井には星が、軒縁には大きな聖鳥が描かれていた。 各部屋の壁には神秘的な出来事の数々が描かれ、広大な入口広間では神が様々な形で象徴化され、そこにやって来るファラオとの謁見に臨んでいた。 カルナックとルクソールの大神殿では、年間を通じて最大の祭礼が行われた。 アメン(アモン)大神殿域・モンツ大神殿域・ムート大神殿域があり、中心はアメン(アモン)大神殿である。 各神殿域の中に多くの小神殿・礼拝堂・祭壇などがある。

注8.     カルナック神殿への参道には、数十基とも思われるスフィンクスが並んでいる。 ここのスフィンクスの頭部は、ファラオを守護するアメン(アモン)神の分身である牡羊である。 参道は3本あり、そのうちの1本がこの後で訪れるルクソール・アメン神殿から伸びるスフィンクス参道につながっている。

注9.     ここでは開いたパピルスの葉が使われているが、エジプトの遺跡の円柱頭部の種類は、椰子の葉・先ドリス式(ギリシャの柱の装飾方法の1種)・開いたパピルスの葉・蓮或いは閉じたパピルスの葉・ハトホル女神の5種類がある。

注10.    宗教儀式で船を浮かべた聖なる池。 周囲には倉庫・神官の住居・水鳥の小屋などが置かれていたという。

注11.    右側にあったもう1本のオベリスクは、現在パリのコンコルド広場にある。 ファラオの像は当初6体あったはずであるが、現在は3体しか残されていない。

注12.    例えばカルナック神殿の列柱室の場合、先ず全ての円柱の一番下にくる直径約5mの円柱のブロックを水平に134個置き、これらブロックの間の空間を粗石で埋め平面にする。 次に2段目の円柱のブロックを並べ、1段目と同じ要領で空間を粗石で埋めるという方法を繰り返して、最終的には23mの高さまで積み上げ、柱をつなぐ梁を乗せる。 組み立てが全て完了した後で、柱の間に埋め込まれた粗石を取り除く。 このような方法は、塔門の建設などにも用いられたと思われる。 塔門の傍らには、当時実際に使われた粗石が残されていた。

注13.    オベリスクは高さ20〜30m・重量100〜300トンあり、1つの岩盤から1体を切り出し船で運んだ。 オベリスクの石切り場跡が発見されている。 オベリスクの建立は、簡単に言えば本体の根元部分を台座の上に乗せ、ロープで引っ張り垂直にするといった、現在でも化学プラントのタワー類を立てる方法とよく似たやり方で建立したと思われる。

注14.    水車12基で最大出力210万kW。 水力発電所としては、日本最大の奥只見発電所(電源開発)が水車4基で最大出力56万kWだからその4倍はあるが、世界最大出力の柏崎刈羽原子力発電所の原子炉7基(100%稼動したとして)820万kWと比較するとその4分の1程度である。 水力発電は、これほどの大掛かりなダムと設備で原子炉2基分相当なので、原発が如何に効率がよいか理解できる。 因みにLNG主体の大型火力発電所である知多火力発電所が400万kW程度である。

この旅行記を作成した当時の私は、前述の通り原発が最も効率の良い発電装置であると単純に考えていたが、2011年3月11日の福島第一原発事故のあと、私の考えは極めて浅はかであったことに気付いた。 現在私は、日本の原発は全て即時停止し、世界に先駆けて新しい発電の方向を見極めるべきであると考えている。(2014年12月25日追記)

「アスワン・ハイ・ダムの巨大な貯水池ナセル湖の名は、当時のナセル大統領の功績をたたえてつけられた。 アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万キロワットの電力を供給、ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われた。 その一方で、ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もあるが、ナセル湖の漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されおり、今では周辺の遺跡とともに観光地となっている。」というのがエジプトの公式見解である。 しかし実際には必ずしも理想的というわけではなく、ダムのない頃は洪水がもたらす肥沃な土のお蔭で種を蒔くだけでよかった農業が、大量の化学肥料を必要とする現代農業に変ってしまった。

ダムの仕様
堤高:111m
堤頂長:3,830m
幅(基礎部分):980m
発電能力:2.1GW(175MWが12基)

注15.    ヌビア砂漠の真ん中にぽつんと聳える長さ65m・幅38mのこの神殿は、巨大な岩山を彫って造られた。 表向きは3つの神を祀ってはいるが、実際には建造者・ラムセス2世自身の栄光を長く後世に伝えるために建てられた。 岩山の中心部で、入口から最も深い場所にある至聖所には、祀られた3つの神とラムセス2世の座像が並んでおり、ここで「太陽の奇跡」が起こるように設計されている。 春分の日と秋分の日の年2回、神殿入口から65mの至聖所に朝日が真直ぐに差し込み、約20分間座像を照らす。

注16.    ラムセス2世は自己顕示欲だけがあったわけではない。 大神殿の隣にはハトホル小神殿があり、これはファラオの最愛の妻・ネフェルタリ妃のために建てられたものである。 ラムセス2世はこの神殿を妻のために「上等で白く硬い石で」と注文をつけ、小さいながらも落ち着いた雰囲気に造らせたといわれている。 逝去した妃についてラムセス2世が詠んだ詩が、ネフェルタリの墓の玄室内の壁面に刻まれている。 その一つは「余の愛する者はただ一人のみ。 何者も余が妃に匹敵する者はなし。 生きてあるとき、かの人は至高の美を持つ女人であつた。 去りて、しかして余の魂を遙か遠くに奪ひ去りしが故。」

注17.    ユネスコは神殿救済のため研究グループを設置して検討した結果、神殿をブロックに切断して元の位置より高い場所に移設するというスウェーデンが提案した方法を採用することに決定した。 ラムセスとネフェルタリの両神殿は平均重量30トンの1036個のブロックに切断され、60m高い位置に完全に移設された。 1968年から1972年にかけてこの大工事は行われ、移設後「太陽の奇跡」も復活した。

注18.    王家の谷と呼ばれる山地は、元は険しい渓谷の中の孤立した岩場にあった。 トトメス1世(紀元前1530−1520)は、盗掘を防ぎ死後の安住の地を得るために、それまで1700年間守られてきた伝統を破って葬祭殿と墓を分け、墓に遺体を埋葬せず埋葬場所を秘密にすることを決心した。 この岩山に奥行きの深い井戸のような穴を掘って、玄室に通じる急な階段のついた秘密の墓を作ってそこに遺体を安置した。 しかしトトメス1世をはじめそれ以降の王たちにとって、この谷は決して安住の地とはならず、この谷の歴史は略奪と盗掘の歴史となった。 紀元前13世紀頃には盗掘が職業化し、一つの村が盗掘で生計を立てていたほどであった。 盗掘を防ぐため、司祭や家臣たちが度々埋葬地を移したため、ラムセス3世などは3度も埋葬地を変えられたという。 更に、アフモス1世・アメンホテプ1世・トトメス3世・ラムセス2世など古代の偉大な36人のファラオたちのミイラが、一箇所に雑然と横たわっているのが、1881年に初めて発見され、急遽200人の作業員を雇い、ミイラを梱包してカイロの博物館まで船で輸送したという。

注19.    メムノンの巨像は、エジプト・ルクソールのナイル川西岸にある2体のアメンホテプ3世の座像である。 高さ約18m。 元々は背後に葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。 葬祭殿は第18王朝ファラオ・メルエンプタハが、自身の葬祭殿の石材調達のため破壊した。 ひどい王もいたものである。 向かって右側の像は紀元27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、おそらく温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していたが、修復後の現在その音はしなくなったという。

ツタンカーメン王のマスク
ハトシェプスト女王のマスク

注20.    ツタンカーメン(紀元前1,354−1,345)の墓は、イギリス人・ハワード・カーターが発見した。 埋葬品の中でも最も美しいのが王の棺で、一番外側が金塗りの木製棺・その内側が粉末ガラスで覆われた金塗りの木製棺・最後が純金の棺と、三重の棺の中に納められていた。 黄金の棺は、重さ200kgの金が使ってあり、トルコ石などが散りばめられている。 しかしカーターを何よりも感動させたのは、豪華な埋葬品の中で、妃のアンケセナーメンが最後の別れに置いたと思われる、既に干からびてしまった矢車菊の花束であったという。

奇妙なことに、発掘の中心人物であったカーター以外の探検隊参加者の大部分が次々と急死したので、永遠の眠りを妨げられた「王の呪い」と呼ばれて噂が広まったという。

注21.    エジプト初の女王・ハトシェプスト女王(紀元前1504〜1484統治)は、夫のトトメス2世の死後、まだ幼かったトトメス3世(トトメス2世の側室の子)の摂政であったが、後に自らファラオとなり20年間男装してファラオの象徴である付け髭をした姿で国政を行った。 通商に力を注ぎプント(現在のソマリア付近と考えられていたが、最近の研究ではスーダンという説が有力)と貿易していた。 スーダン国内のナイル川は急流が多く、大型船の通行は困難であったため、紅海を船によって交易していたことが分かってきた。 マストの付いた船を漕ぐ人々と、その下に海の魚が描かれた壁画が葬祭殿に残っている。

女王は軍事以上に芸術を擁護し、トトメス1世(ハトシェプスト女王の父)と女王自身の神殿を、時の大建築家センムートに命じて造らせたのがこの葬祭殿である。 神殿は背後に巨大な扇形をした岩山を利用した斬新なデザインで、入口の第1テラスから坂道を登ると第2テラスがあり、更に坂道を登ると第3テラスに出て、その奥に岩窟至聖所に至る壮大な設計である。

注22.    メンフィスは古代エジプトの古王国時代の首都として栄えた。 歴史的には重要な役割を果たしてきた都であったが、現在は廃墟となっている。 ラムセス2世の巨像は体長が15mあり、横に寝かされている。 全容は2階の回廊から見下ろすことができる。 石灰岩でできており、元々この場所に東向きに立っていたという。 建物を出てすぐ前の広場の真ん中にアラバスター(大理石)製のスフィンクスがある。 体長約10mで、エジプトで2番目に大きいという。

注23.    ダハシュールには5基のピラミッドがあるが、中でも重要なものは「赤のピラミッド」と「屈折ピラミッド」と呼ばれている2基である。 「赤のピラミッド」は底辺が215m・高さが100mで、底辺が高さの2倍以上ある。 断面が二等辺三角形の真正ピラミッドとしては最古のものという。 「屈折ピラミッド」はピラミッドの中ほどで傾斜角度が、54°(ギザのピラミッドの傾斜角度とほぼ同じ)から43°に変る独特の形からその名がつけられた。 何れもギザのピラミッドで有名な、クフ王の父であったスネフル王のものといわれ、ピラミッドの成り立ちを考証する上で考古学上貴重なものという。

注24.    サッカーラのネクロポリス(墳墓の遺跡群)は長さ8km・幅1kmに広がっている。 ここには第1王朝のアハ王の墓に始まりサイス朝・ペルシア朝・プトレオマイオス朝まで歴代王朝の王墓が残されている。 ネクロポリスの中心にあるのはジェセル王のピラミッドコンプレックスで、城塞のような階段ピラミッドの周りには各王朝のピラミッドやマスタバが並んでいる。

マスタバ(アラビア語でベンチを意味する)は生前の住居に似せて造られた貴族や高官の墓で、形がベンチに似ていたことからこの名で呼ばれるようになった。

注25.    ジェセル王は、紀元前2605から紀元前2587までの18年間エジプトを統治。 太陽信仰を国教に定め、神官を支配下に置く。 大神官のインホテップが史上最初の医者であり、また大建築家として活躍した。 ジェセル王のピラミッドは、四角い石材を積み上げて造られた大建造物としては最古のもので、高さ62.5m・底辺125mx109mである。 ピラミッドの下からは数多くの美しい坑道や地下室が見つかっており、その中央の大井戸のような空間の底には花崗岩でできた王の墓が置かれていた。

注26.    オスマン朝はかつての強大な勢力を誇っていたが、その支配下にあったアラブ諸国の中でもいち早く近代化の基礎を築いたのが、ムハンマド・アリである。 1857年に完成したこのガーミア・ムハンマド・アリはイスタンブールのガーミアを真似て造られた。 そのため巨大なドームと鉛筆型の2本の高いミナレットを持っている。 これはエジプトの他のガーミアには見られない特徴である。 

 

『参考文献・参考TV番組・参考ウェブサイト』

1)      エジプト(カイロからアブ・シンベル、シナイ半島まで)・日本語版
ジョバンナ・マージ著
Casa Editrice Bonechi社(イタリア・フィレンツェ)発行

2)      エジプト(芸術と歴史の国・五千年の文明史)・日本語版
Alberto Carlo Carpiceci著
Casa Editrice Bonechi社(イタリア・フィレンツェ)発行

3)      Historical Deception/The untold story of ancient Egypt・英語版
Moustafa Gadalla著
Bastet Publishing, Pa. USA発行

4)      地球の歩き方(2000〜2001年版)
ダイヤモンド社・ダイヤモンド・ビッグ社発行

5)      ABC Hieroglyphics・英語版
Amr Hussein著
Elias modem Press, Egypt発行

6)      NHKスペシャル・エジプト発掘(2009年7月5日放映)
第1集・ピラミッド・隠された回廊の謎

7)      NHKスペシャル・エジプト発掘・特別編(2009年8月24日放映)
空から見た古代エジプト・悠久の古代文明紀行

8)      TBS世界ふしぎ発見
エジプト各編

9)      世界の建築様式・2.古代エジプト編
http://matiere.at.webry.info/201002/article_8.html

10)ピラミッド建設の謎
http://maiise.dtiblog.com/blog-entry-2057.html

11)世界のオベリスク
http://highskyblue.web.fc2.com/obelisk_j.htm

12)Ancient Egypt(WIKIPEDIA)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ancient_Egypt

 


旅のアルバム・エジプト2000
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