山のしづく
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旅行記
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フランス・イギリスの旅・2004

2010年4月20日作成

パリとロンドンは幾度も訪れたことがあるので、今回はフランスとイギリスの田舎を旅することにした。 バスと鉄道を使って個人で廻る計画を立てたが、大きなリュックサックを背負っての旅行は、65歳の老夫婦には無理であることが分かった。 また例えばフランスの古城巡りをするにしても、現地ではいずれにしても観光バスに乗ることになる。 それなら、目的地が私たちの希望に近く、自由時間がたっぷりある旅行社のパックツアーを探そうということになった。 

ANAワールドツアー「フランス・イギリスハイライト」のスケジュールは以下のような内容であった。 フランスではロワール(Loire)地方の古城を巡り、ノルマンディー(Normandie)に入りモン・サン・ミシェル(Mont St-Michel)と古い漁港の街・オンフルール(Honfleur)を見てパリに帰る。 パリからロンドンへユーロスターで移動。 イギリスではイングランドのコッツウォルズ(Cotswolds)地方とバース(Bath)を観光、ストーンヘンジ(Stonehenge)巨石群を観覧してロンドンに戻る。 パリ一日・ロンドン一日半の自由行動が付いているので、パリ・ロンドンは始めての妻も市内見物ができる。 

6月9日(水)、タクシーで名古屋空港(小牧)に向う。 2005年早々には、中部国際空港が開港する予定なので、この空港からの海外旅行はこれが最後になるかもしれない。 空港に6時に集合し航空券を渡された後は、個人客と同様に個々にチェックインし、好みの席を選べるのはありがたい。 このツアーの客たちは日本全国から集まってくるので、この時点ではツアーのメンバーは分からない。 名古屋発07:20−成田着08:25(1時間05分)・ANA338便。 成田でパリ行きの全日空機に乗り換える。 成田発11:25−パリ着16:40(12時間35分)・NH205便。 

通路側2席に私たちが席を取り、窓側には小学5年生の男の子が一人で座っていた。 両親と3人でパリに行くのだけれど、両親は2階席のビジネスクラスにいるという。 パリに着くまでの間に父親が一度様子を見に来た。 本人はずっとゲームをしており、退屈はしていないようだ。 可愛そうに思い時々話しかけるのは、かえって迷惑なのかもしれない。 もし私なら絶対三人一緒だ。 

久しぶりのシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)空港は、以前のような輝きは薄れ、少し古びた感じがした。 ツアー客のメンバーは、福岡から年配の女性4人のグループ、北海道から中年の女性1人、東京から中年の女性2人、東京から車椅子の30歳代の娘さんと両親の3人、神奈川から新婚2人、神奈川から母娘2人、埼玉から新婚2人、愛知から老夫婦2人(私たち)の計18名と男性の添乗員1名であった。 

大型の観光バスが既に到着しており、18時に空港を出発、今日の宿泊地ブロワ(Blois)に向う。 パリの東側を通り、途中オルレアン(Orleans)のサービスエリアで休憩、夕食用のサンドイッチ・ジュースなどを買う。 時間の都合でこの日の夕食はバスの中で適当に食べる。 

パリからブロワまで約180キロ・3時間かかる。 フランス最大の穀倉地帯をバスは走る。 見渡す限り一面の麦畑で、フランスは農業国であることを実感する。 大型農業機械の轍の跡が黒々と畑の中を貫いている。 21時にホテル「ノヴォテル・ブロワ・エルミタージュ」(Novotel Blois Lhermitage)に着いた。 この時期の日没は21時51分なので、あたりはまだ明るい。 

シャンボール城
シュノンソー城

6月10日(木)、8時ホテル発。 ロワール地方の古城巡りに出発する。 このあたりはフランスの中央部にあり、ロワール川(1,012km・フランス最長)に幾つもの支流が流れ込んでおり、川に沿って森と丘が続き小さな村々が点在している。 川沿いの100kmほどの区域に、大小80〜100個にも及ぶ城や館がある。 王侯貴族だけでなく、多くの芸術家や文化人たちの安らぎの場所だったようだ。 小さな村サシエ(Sache)ではバルザック(Honore de Balzac)が「谷間の百合」を書き、ノアン(Nohant)にはショパンやリストの恋人で女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand)の別荘があった。 

先ずバスは、世界遺産に登録されているシャンボール城(Chambord)に行く。 16世紀早々に着工され、フランソワ1世の生涯を通じて工事が行われたという。 円筒形と矩形を組合せた、左右対称形のルネッサンス様式の城だ。 基本的には大理石の3階建ての城で、その上に黒い屋根と多くの天主と塔が乱立している。 内部を見られなかったのは残念であるが、円筒の周りには二重の螺旋階段が配置されており、上る人と下る人がすれ違わずに昇降できるようになっているという。 この階段の考案者は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)だといわれているようだ。 森の中にある一番大きな城で、敷地を含む城壁の長さは32kmあり、敷地はパリ市街より広いそうだ。 

バスの車窓からブロワ城(Blois)などを望み、アンボワーズ城(Amboise)の対岸で停車する。 この城はロワール川を見下ろす高台に聳えており、聖ユベール礼拝堂にはレオナルド・ダ・ヴィンチが埋葬されているという。 

バスはロワール川の支流シェール川(Le Cher)を20kmほど遡ったところにあるシュノンソー城(Chenonseau)に向う。 バスの駐車場から城への、高い木立のアプローチが美しい。 城は川を跨いで建てられており、ダムに作られた堰のように見える。 15世紀の城塞の名残である独立塔、16世紀に建てられた川岸近くの棟と対岸に渡る橋上の3層建築の3つの部分からなる。 完成以来代々の城主が女性だったことから『6人の女の館』とも呼ばれている。 手入れの行き届いたバラ園と幾何学模様のカトリーヌ庭園が城に劣らず美しい。 現在は個人の所有という。 

シュノンソー城近くのレストランで昼食後、13時20分に出発、モン・サン・ミシェルに向う。 車内では地元のガイドさんがフランスの歴史のあらましと、簡単なフランス語の日常会話を教えてくれる。 途中トゥール(Tours)・カーレースで有名なルマン(Le Mans)・ラヴァル(Laval)・フージェール(Fougeres)を経由し、18時30分頃にモン・サン・ミシェルに到着、256kmのドライブ。 昨日のパリ・ロワール間の車窓からの景観と比較して、このあたりは牧草地・畑・森・丘陵地などが多く変化に富んでいる。 刈り取られた牧草は、ちょうど絨毯のように巻き上げられて干草となる。 フランス郊外の道路のほとんどの交差点は、信号の無いロータリー式になっている。 ロータリーに入った車は、幾本にも枝分かれしている目的地の方向に、標識に従って進めばよい。 ロータリーは幾度も廻ることができるので、納得のゆくまで標識を確認して目的地の方向を探すことができる。 

モン・サン・ミシェルまで約2kmのところにあるホテル・メルキュール(Hotel Mercure Mont-saint-michel)に到着し、その日は修道院の遠景を眺めたり写真を撮って過ごした。 夕食はホテルのレストランで、名物料理の泡立った巨大オムレツを食べる。 中身はほとんどが空気のようなもの。 名物に美味いもの無しだ。 

6月11日(金)、朝からモン・サン・ミシェルを見に行く。 海岸線から1kmほど沖に突き出た岩山で、フランスで最も有名な巡礼地である。 ここは元々森の中に聳える山だったが、あるとき津波によって山は陸と切り離され島になったという。 この島に修道院の建設が始まったのは966年で、その後数世紀にわたり増改築が繰り返され、現在の形になったのは16世紀になってからのことである。 そのためロマネスク様式やゴシック様式など、建てられた時代によって異なる建築様式が混ざり合っている。 この付近はヨーロッパで最も潮の干満の差が激しく、潮の流れの速度が速いため、昔は数多くの巡礼者が命を落としたそうである。 しかし近年は堤防のせいで砂が堆積し、島が海水で囲まれることは稀となり、海が「馬が駆けてくるような」速度でモン・サン・ミシェルまで押し寄せる光景は見られなくなってしまったとのことある。 モン・サン・ミシェル本来の姿に戻すための、環境整備工事が現在進められているようである。 

モン・サン・ミシェル
オンフルール旧市街

島の入口から石造りの階段を進むと、両側にはレストラン・土産物屋・ホテルなどが細い通路を挟んで並んでいる。 階段の中腹にある修道院の門の前で待っていると、開門時間の9時ぎりぎりに、門番の女性が汗だくで階段を登ってきた。 内部の構造は非常に複雑に入り組んでおり、礼拝堂・食堂・鐘楼などを見学した。 最も印象に残っているのは、13世紀に増築されたラ・メルヴェイユ(La Merveille/驚異)と呼ばれるゴシック建築で、その最上階にある中庭を囲んだ回廊は、二重に並んだ円柱が天井のアーチを支えており、陰気な修道院の内部と比較して明るく美しい空間であった。 

再びバスに乗りオンフルール(Honfleur)に向う。 モン・サン・ミシェルから189km、約3時間の旅。 イギリス海峡に面したセーヌの河口にある古い港町で、印象派の画家たちに愛された。 15世紀の100年戦争時代には要塞であったらしい。 シーフードレストランでムール貝・かれいなどの昼食を取る。 これは美味かった。 旧港には数多くのヨットが停泊しており、外海に面した現在の港とは跳ね上げ橋で仕切られている。 ヨットが出るときだけ橋を跳ね上げる。 自由行動でサント・カトリーヌ教会(Eglise Ste. Catherine)や石畳の古い町並みを見て歩く。 

18時頃バスは出発しパリに向う。 208km、約3時間の旅。 途中ルーアン(Rouen)の近くを通り、ダイアナ妃が交通事故に遭ったトンネルを抜けてパリに入った。 車窓から遠くにエッフェル塔が見え、コンコルド広場を通ってラ・デファンス(La Defense/パリの副都心)にあるホテル・メルキュール・パリ(Hotel Mercure Paris la Defense)に到着。 副都心のホテルの方が安いのであろう。 夕食は旅行会社提供の中華料理。 パリに来て中華料理など食べたくないが、パリ市内のレストランに行くのは億劫なのでパリ風中華料理で我慢した。 

ヨーロッパの都市の大多数が、何故か町の西側に発展する傾向がある。 昔からのパリの大きさは約12km x 9kmで、昔の城壁の跡に造られた環状道路で囲まれており、ラ・デファンスはその西側に開けた新しい町である。 こちらにはパリ市内に適用されている建築制限は無いので、高層建築が乱立している。 

ヴェルサイユ宮殿

6月12日(土)、今日は終日自由行動。 『ヴェルサイユ宮殿と朝市マルシェ』という半日コースのバスツアーに乗る。 ヴェルサイユ宮殿はパリの南西22kmにあり、バスで約40分かかる。 「有史以来最も大きく最も豪華な宮殿を」というルイ14世の命により、フランスが50年間の総力を結集して建造した宮殿である。 沼地であった土地に森を移し、噴水のためにセーヌ川の水を150メートルも汲み上げて、自然の大改造が行われた。 フランス中の建築家・画家・彫刻家・造園家が集められ、何万人という労働者が動員されたという。 私は1970年9月に訪れたことがあるが、妻は始めてであった。 宮殿の正面広場の中央に、ルイ14世の騎馬像が立っている。 そこで写真を数枚撮ってから、宮殿内を見学する。 パリ住在の日本人ガイドが、各部屋を丁寧に説明してくれるので分かりやすい。 しかし説明のほとんどは忘れてしまう。 宮殿の中で最も壮麗な空間である『鏡の回廊(Galerie des Glaces)』が工事中のため見られなかったのが残念であった。 フランスは日本・ドイツ・オーストリアなどと比べて、美術品に対して非常におおらかで、宮殿の中でも写真撮影は自由である。(但しフラッシュは不可) 建物だけでなく庭園も素晴らしい。 

パリへの帰途、パリの朝市の一つを見物する。 野菜・果物・魚・肉といった食料品の他にも、家具・衣類・靴下・布団まで売っていた。 ビタミン補給のためにオレンジを買って食べる。 

午後の予定は、パリは初めての妻の希望で、パリの中心にあるシテ島からセーヌ川沿いにコンコルド広場に出て、シャンゼリゼ大通りを凱旋門まで散歩することにした。 タクシー拾い、先ずシテ島のノートルダム大聖堂に向った。 タクシーを降りて料金を支払い、大聖堂の前で写真を撮ろうとしていると、パンフレットを持った少年が話しかけてきた。 一瞬右ポケットに何かが入ってくるのを感じたので、それを手で払いのけると同時に「こら!」と大声で怒鳴った。 周囲の人たちがこちらを見ている中を、少年は一目散に逃げて行った。 間一髪で財布は無事だった。 タクシーの支払いを済ませた私が、財布を右ポケットに入れるのを見ていたのであろう。 修業不足のすりで助かった。 私もそれ以来、財布に鎖をつけてベルトに繋ぐことにした。 

ノートルダム大聖堂前の広場には、パリのゼロ地点を示す星型の標が埋め込まれている。 パリから他の地域への距離は、この地点から測定されるという。 私たちもこの地点からパリの散歩を始めることにした。 ノートルダム大聖堂近くのカフェで昼食、久しぶりに生野菜をたくさん食べる。 

セーヌ川を渡りパリ市庁舎の前に出て、古本市の並ぶセーヌ川沿いの歩道をルーブル美術館に向った。 時間が無いためルーブルは次の機会に譲ることにしていたが、傍まで来ると妻が急に内部も是非見たいと言い出した。 私は以前2回来たことがあり、丸一日費やしても足りないくらいなので、30分や1時間では到底無理なことを説明したが妻はあきらめない。 午前中のヴェルサイユ宮殿観光バスの“おまけ”に、パリと近郊の美術館や史跡の一日フリーチケット『カルト・ミュゼ(Carte Musees)』が付いていたので、1時間以内で見ることにした。 

ノートルダム大聖堂
ルーブル美術館・ガラスのピラミッド
凱旋門

中庭には、以前1970年代に来たときには無かったガラスのピラミッド(Pyramide entrée principale)があり、そこが美術館へのメインエントランスになっていた。 エスカレータで地下に下りると、各言語による館内案内図のあるインフォメーション・カウンターと入場券売り場があり、各ギャラリー・店舗・食堂へのアクセスができる大ホール(ナポレオン・ホール)になっていた。 

1985年から1989年にかけて、ミッテラン政権下の『グラン・ルーヴル・プロジェ』(大ルーヴル計画)により大改築が行われたという。 この歴史ある美術館にガラスのピラミッドは全く似合わないと思っていたが、実際に入館してみると非常に分かりやすく機能的にできていることが理解できた。 

運良く行列も短く、ほとんど待ち時間無しで入館できた。 丁寧に見ようとすると1週間あっても見切れないところを、僅か1時間で見るには見るものを選択するしかない。 インフォメーションで地階から3階までの美術館全体の地図を貰った。 地図には代表的な作品の場所が引き出し線で表示してあり大変役に立った。 ミロのビーナス・サモトラケのニケなどを見てから、セーヌ川寄りのデゥノン翼2階の奥にある、イタリア絵画の部屋に行き、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が並んでいる一角で、『岩窟の聖母』・『聖アンナと聖母子』・『洗礼者聖ヨハネ』を、じっくり時間をかけて見た。 そこから少し離れたところに『モナリザ(ジョコンダ)』があったが、そこだけは込み合っていて近寄ることはできなかった。 半数以上の観覧者は『モナリザ』を見ているわけではなく、「モナリザ」を背景に写真を撮っていた。 別室に『モナリザ』の顔をくりぬいた複製を置き、そこから旅行者が顔を出して写真を撮るコーナーを設けたら、『モナリザ』の周りの混雑が幾分かは緩和されるかもしれない。 

私は美術館や博物館はたっぷり時間をかけて、じっくり見るものだという先入観を持っていた。 後年オスロのノルウェー国立美術館に行ったときも、時間的制約のためムンクの部屋だけに絞って、『叫び』・『橋の上の少女』・『マドンナ』・『ラファイェ通り』・『病気の子』などを鑑賞したことがあるが、このように的を絞って短時間で集中的に見るのも悪くないと思うようになった。 むしろ印象が強く残り、忘れることが無い。 

ルーブルは冬にでもまたゆっくり来ることを妻に約束し、予定通り1時間で切り上げた。カルーゼル(Carrousel)凱旋門を通り、チュイルリー公園(Jardin des Tuileries)を縦断してコンコルド広場(Pl. de la Concorde)に出た。 コンコルド広場の中央には、オベリスク(ギリシャ語で針という意味)が立っている。 エジプトのルクソール神殿の入り口に立っていたものを、19世紀にパリに運んできた。 通称クレオパトラの針(Cleopatra's Needle)と呼ばれ、ここパリのコンコルド広場の他に、ロンドンのウェストミンスター・テムズ川岸通りとニューヨークのセントラルパークにある。 ロンドンとニューヨークのものが対で、パリのものはルクソール神殿に立っているものと対である。 クレオパトラの針と呼ばれるが、何れもクレオパトラの時代よりは1,000年以上も前に作られたもので、クレオパトラとの関係は全く無いという。 頭部にはラムセスU世の碑文と絵が描かれている。 

シャンゼリゼ通りを凱旋門に向って散歩する。 途中退役軍人の一行が楽隊を伴ってシャンゼリゼ通りを行進していた。 凱旋門は、将軍や軍隊が戦いに勝って凱旋した門で、1806年にナポレオンの命で着工されたが、ナポレオンの生存中には完成せず、遺体になってからこの門を通ることができた。 門にはナポレオンの戦いや義勇軍の出陣のレリーフが彫られている。 凱旋門の下には、無名戦士の墓とフランス戦勝記念の4枚のパネルが埋め込まれており、行進はここに献花するためであったことが分かった。 

ノートルダム大聖堂から凱旋門まで約13,000歩、良い運動になった。 妻もパリの雰囲気を多少は味わえたと思う。 タクシーを拾いホテルに帰った。 この時期のパリは夜10時近くまで明るい。 どこかのビルの屋上で少年たちがサッカーをしているのがホテルの窓から見えた。 ホテル・メルキュール・パリ(Hotel Mercure Paris la Defense)泊。 

パリ北駅
バイブリー・ホテルスワン
カッスルクーム・マーケットクロス
バース大僧院
ローマンバス
ストーンヘンジ
バッキンガム宮殿・衛兵交代式
テムズ川ディナークルーズ船内
キュー・ガーデンズ温室内

6月13日(日)、朝7時ホテル発。 パリ北駅よりロンドン行きのユーロスター(パリ発08:07−ロンドン着10:00・ES9011)に乗る。 約3時間の鉄道の旅だ。 国際列車は出発30分前までにチェックインをする必要がある。 EC圏内でもイギリス行きは出国検査があり、荷物を預けパスポートに汽車のマークが付いたスタンプを押される。 ディズニーのアニメの絵が描かれた黄色の派手な電車だ。 車両とプラットホームの間が40−50センチほど開いているので、日本なら問題になるところだ。 考え方を変えれば、落ちても車両とホームの間に挟まれることはないから、かえって安全なのかもしれない。 車中で朝食の弁当を食べる。 クロワッサンにバター・ジャム・ゆで卵、青りんごの丸かじりが美味い。 フランス側は列車の速度が速いが、イギリス側は在来線の線路を走るのでスピードが落ちる。 途中フランス側の国境近くの駅で停車、ドーヴァー海峡トンネルを約20分間で抜ける。 定刻の10時にロンドン・ウォータールー・インターナショナル(London Waterloo International)駅に到着。 

ここからまたバスの旅が始まる。 私はロンドンには幾度も来たことがあったが、イギリスの地方に行くのは始めてである。 今回はイングランド中央部の田舎を廻る旅である。 テムズ川に沿って走る車窓から、ピッグベンと国会議事堂が見える。 オックスフォードを経由して、コッツウォルズ地方(Cotswolds)のバイブリー(Bibury)に向う。 ロンドンから西へ182km、約2時間30分の道のりである。 12時50分にバスはバイブリーに到着。 詩人・デザイナー・思想家でもあったウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896)が、イングランドで最も美しい村と評してバイブリーに住みついたという。 蜂蜜色の石灰岩(Lime stone)で造られた茅葺の民家を眺めながら、小道を歩くとコーン川(River Coln)が流れており養鱒場(Trout farm)がある。 近くのホテル・スワン(The Swan Hotel)で鱒のムニエルの昼食をとる。 このあたりには魅力的な庭園が幾つもあるらしいが、今回の見学コースには入っていない。 普通の民家の庭にも色とりどりの草花が咲いていた。 

食後の軽い散歩の後、14時45分コッツウォルズ地方の最南端、カッスルクーム(Castle Combe)に向けて出発する。 この村は「最も古い町並みが保存されている村」として知られている。 14世紀に建てられたマーケット・クロス(Market Cross)と呼ばれる中世の市場の跡でバスを降り、ザ・ストリート(The Street)という立派な名前の道を歩く。 道の両側には石造りの美しい家々が建ち並んでいた。 人々は今も普通の生活をしており、窓には花篭が吊るされていた。 商店やカフェなどもあるが、外観を改造できないため近くに寄らないとそれと気付かない。 1軒が修理中で、約400万円で売りに出されていた。 安いのか高いのか見当が付かない。 

16時50分カッスルクーム発、17時30分バース着、23km。 バース(Bath)は、ローマ時代に温泉の町として栄え、温泉(風呂)の語源となった。 夕食はバース市内のレストランでローストビーフを食べる。 旅行先では、イギリスの牛肉はBSEの危険があるなどとは言っていられない。 ホテルは市の中心部にあるエイヴォン川(River Avon)に面したヒルトン・バース・シティー(Hilton Bath City)。 

6月14日(月)、8時30分ホテルを出発、先ずバース大僧院(Bath Abbey)を見学する。 史上初の統一イングランド王となったエドガー王が993年に戴冠式を行った由緒ある教会で、現在の教会は1499年に建てられたものという。 壁の80パーセントがステンドグラスの窓になっているため内部は明るく美しい。 カセドラル(Cathedral)とは本来司教(Bishop)が座る椅子(司教座)を意味する。 司教座のおかれる教会を司教座聖堂或いは大聖堂(Cathedral)と呼ぶ。 イギリスではCathedralのある町のことを、人口とは関係なくCityと呼ぶらしい。 

大聖堂の直ぐ近くにローマン・バス(The Roman Baths)がある。 紀元前1世紀にローマ人によって建てられた大浴場で、当時はローマ帝国各地から人々が訪れた一大保養地であったという。 今も46.5℃の温泉が一日約200万リットル湧き出ているそうだ。 市内を散歩し、1680年創業のレストランで昼食をとる。 レストランの看板には、The oldest house in Bathとある。 但し、旅行会社提供の安い料理なので、味は良くない。 

午後はバースの南東にあるストーンヘンジ(Stonehenge)に向う。 58km、約50分。 ソールズベリー(Salisbury)平原に、紀元前3,000年から紀元前1,000年頃にかけて段階的に建設されており、年代が下がるごとにその規模が大きくなったといわれている。 最も高い石は7m、重さは45トンあるという。 遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場・古代の天文台・礼拝堂など、さまざまな説があるが未だ結論はでていない。 イヤホーンで日本語の解説を聞き、写真を撮りながら周辺を一周した。 

バスでロンドンに戻る。 139km、約1時間30分。 ロンドン18時着。 ロンドンのホテルは、ケンジントン・クローズ(Kensington Close)で、チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の宮殿のあったケンジントン公園の近く。 地下鉄High street Kensington駅から徒歩5分の便利な場所にある。 但し部屋は、シングルルームに無理にベッドを2台入れたような、歩く場所もないほど狭い。 クーラーはなく扇風機で凌ぐ。 

6月15日(火)、終日自由行動。 ロンドンは妻が初めてなので、午前中は日本語のガイド付きの半日市内観光バスに乗る。 セントポール大聖堂は英国国教会の聖堂である。 長年のスモッグで黒ずんだ外観を洗浄中のため、白い建物に黒い部分が残っていた。 以前来たときは、ロンドンの建物はすべて黒ずんでいると思ったが、今回はそれほどでもないと感じたのは洗浄しているためであろうか。 産業革命以来建物を覆ってきた煤を落とすのは大仕事に違いない。 

ロンドン塔・タワーブリッジ・ロンドンアイ(高さ135mの大観覧車)・ビッグベン・国会議事堂などを見た後、バッキンガム宮殿の衛兵の交代式を見に行く。 宮殿の中央に国旗又は女王旗が掲げられる。 女王旗のとき女王様は宮殿におられ、国旗のときはご不在ということになっているそうだ。 私はこれで3度目であるが、以前は鉄のフェンス越しに見た覚えがある。 ロンドン三越前で観光バスを降り、三越で昼食の蕎麦を食べる。 ピカディリーサーカス(Piccadilly Circus)周辺を散歩した後タクシーで一旦ホテルに帰る。 

ホテルでしばらく休憩し着替えを済ませた後、テムズ川ディナークルーズに参加するために、タクシーを拾いエンバンクメント・ピア(Embankment Pier/桟橋)に向う。 クルーズ乗船時刻の19時15分まで、ハンガーフォード橋(Hungerford Bridge)を渡り散歩する。 テムズ川に面してビッグベン・国会議事堂、直ぐ近くにロンドン・アイが見える。 近くにヴィクトリア・エンバンクメント・ガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)という公園があったのでベンチで休憩していると、若い女性が声をかけてきた。 日本からの留学生だそうだ。 写真を撮ってもらっていると、黒人のボーイフレンドが現れ、連れ立って何処かに出かけて行った。 

予定時刻にチェックインを済ませ20時に出航した。 船はここからテムズ川を下り、タワーブリッジまで行って、再びここに戻ってくることになっている。 タワーブリッジまで大小7本の橋がある。 メニューはスターター・メインコース・デザート夫々数種類の中から好みのものを選ぶことができる。 メインは、妻は白身魚のソテー、私は鴨のコンフィを注文しシャンパンで乾杯した。 

食事が終わりデザートが運ばれる頃、司会者が私たちのテーブルにやって来た。 「結婚40周年おめでとう!」と言って私たちを乗客に紹介し、乗客一同の拍手浴びた。 そういえばチェックインの時、今夜のディナーには特別な意味があるのか聞かれたので、結婚40周年でヨーロッパに遊びに来ていることを伝えたのを思い出した。 こんなに晴れがましい形で紹介されるなどとは夢にも思っていなかったため、若干戸惑いながらマイクを借りて礼を述べた。 ジョークの一つも言えばよかったが、そんな余裕は無く、辺りを見回しながら「Thank you !」、「Thank you !」、「Thank you very much !」と言うのが精一杯だった。 

バンドの演奏が始まり、最初に踊るよう仕向けられた。 ダンスなど飲んだときに踊ったことがある程度で、妻と踊るのは初めてだった。 私たちが踊り始めないと皆が踊れないので、躊躇する妻に「音楽に合わせて足踏みをすればよいから」と耳元で囁いた。 このような時は、周りに聞かれても判らないので日本語は便利だ。 幸い妻は丈の長いスカートを着用していたので足元を見られる心配が無く、上手く踊れないエクスキューズにもなった。 改めて拍手が起こり、乗客の多くがダンスに加わった。 近くのテーブルの観光客らしいイギリス人女性たちも、女性同士で踊り始めた。 皆ダンスが好きな様子だ。 大勢の中に入ってしまえば、もう何も気にする必要はない。 

ワンポーズの後席に戻ると、周囲の人たちが「ロンドンはいつまで?」、「何処を見てきたの?」など色々と話しかけてくれた。 船がロンドン塔(Tower of London)近くの折り返し点に近づくと、突然タワーブリッジ(Tower Bridge)が跳ね上がり、乗客たちを喜ばせた。 ガイドブックによれば1日に2・3回しか跳ね上がらないらしい。 このクルーズのための大サービスである。 船が元のエンバンクメント・ピアに戻る頃には23時を過ぎていた。 タクシーを拾いホテルに戻った。 ホテル・ケンジントン・クローズ泊。 

6月16日(水)、旅行の最終日。 空港へのバスがホテルを出発する16時まで自由行動。 妻がイギリスの庭を見たいと言うので、キュー・ガーデンズ(Kew Gardens)に行くことにした。 正式名は王立植物園(Royal Botanic Garden, Kew)。 始まりは1759年といわれ、世界最大の植物園である。 広さは約1.2平方kmで、最長部分は東西約1km南北約2kmある。 園内にはレストランやカフェなどもあり、一日ゆっくり過ごすことができる。 

ホテルをチェックアウトし荷物をクロークに預けて、最寄の駅ハイストリート・ケンジントン(High street Kensington)駅から地下鉄に乗った。 途中1回乗り換え、キューガーデンズ(Kew Gardens)駅まで約30分かかる。 イギリス(ヨーロッパ)では、60歳以上は公営の施設の入場料や交通機関の運賃も優遇されている。 ゲートで入場券を買うとき60歳以上かと聞かれ、イエスと答えるとシニア(Senior)のチケットを渡してくれた。 「日本人だけれどいいの?」と訊ねると、「いいよ」と答えが返ってきた。 割引は名古屋市民に限るとか、間もなく平均寿命に到達する高齢者を「後期高齢者」と呼んだり、車に枯葉マークを付けさせたり、更に子供手当ての支給は朝鮮人学校を除くなどといった差別は、同じ島国でもこの国には少ないのであろう。 

園内には自然に近い形の森があり、巨大な温室には熱帯の植物が生い茂っていた。 妻が記念にキュウガーデンズ特製のステンレス製の移植ごてを買った。 天候にも恵まれ、半日をのんびり過ごし、バスの発車時刻ぎりぎりにホテルに戻った。  ホテル発16:00頃−空港着17:00頃。 ロンドン発19:35、全日空NH202便の成田行きに乗った。 

6月17日(木)、15:10成田着(飛行時間11時間35分)。 成田発16:55−名古屋着18:05(1時間10分)、ANA337便で名古屋空港に帰着した。 駆け足ではあったが良い旅行だった。 フランス・イギリス両国とも訪ねてみたいところはまだいっぱいある。 次は観光客が少なくホテル代の安い冬にでも、パリとロンドンの美術館や博物館をゆっくり見に行きたいと思う。



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