山のしづく
ホームページに戻る



思いつくまま
目次に戻る


拙文は1962年(昭和37年・私が24歳のとき)、職場の労働組合・青年婦人部発行の
「職場の文集」に投稿したものです。 現在当時の友人たちと親交を暖めています。


心のふるさと

頬に当たる風が刺すような冷たさを感じさせない日があったかと思うと、翌日は思いもかけず淡雪が水気を含んで降りしきることもあり、長くも積もらずに解けてしまうと陽だまりの土手の黒い土を押し上げて黄金色のふくよかな福寿草が最初の春の訪れとして微笑みかける。 中央線(西線)木曽福島駅を登ること14キロ、三岳村(現木曽町・三岳)は御嶽の黒澤登山口である。 

御嶽・乗鞍・駒ケ岳の三山を一望に眺めることができるので、三岳村と名付けられたと言う。 幼児から小学校時代までの足掛け8年間をここに暮らした私は、今も尚心温まる気持ちで木曽を思う。 

木々の梢は薄紅に薄緑に色づき、純白の朴(ほう)の花が薫り高く咲いて、鶯が幼い声で谷を渡り始めると、春はあわただしくやって来る。 梅も桃も杏も桜も次々と花開き、誠に絢爛そのものである。 

石切り場の斜面を滑り降りたり、木登りをして口笛を吹いたり大声で歌ってみたり、何か無性に心が躍ってじっとしていられない。 

雪解けの水を満々とたたえて、木曽川は昼も夜も凄まじい水音をたてて流れ狂う。 長い冬篭りから開放された人々・動物・植物などあらゆる生物がにわかに活気付き活動を開始する。 農家は短い労働期間中を、時を惜しんで苗代作りに田植えの準備に養蚕に種まきに一家を挙げて働き始める。 

川の水量が漸く減って上流の堰堤が仕切られると、子供たちは早くも水遊びに河原に出かけて行く。 石から石へと身軽に飛び移りながら向こう岸に渡る。 石灰石にざくろのような透明の結晶ができたものや、小指の頭ほどの水晶などを拾い集めた。 砂地が一面に黒ずんでいるところに磁石を近づけると面白いほど砂鉄が吸い付いた。 川岸の猫柳が銀色の花を付けて、触れると快い感触であった。 カッコウが飽きもせずに一日中鳴き続け、わらびやぜんまいが食卓を賑わすのもこの頃である。 

谷の流れに沿って登って行くと、石の下に爪の赤い沢蟹がいたり、山吹が咲き零れてはらはらと水に流れているさまは絵に描いてみたいような美しいものであった。 熊笹や潅木の茂みを掻き分けながら道も無いところを進んで行くと、周囲を雑木林で囲まれた空き地があった。 それは、どうしてこんなところがあるのかと不思議なくらい青々と芝草が敷かれていて、すみれやなでしこなどの可憐な花がつつましく咲いていた。 仰向けに寝転んで雲の流れを見ていると、果てしない空想に落ちてしまうこともあった。 そこだけは友達にも教えないで、自分ひとりで時々行って見る秘密の場所に決めた。 

山開きの日が来ると、金剛杖を手に白装束の腰に鈴をさげた行者たちが、列を作って毎日毎夜やって来る。 「六根清浄、散華散華」と口々に唱和しながら山道を登って行く。 幼児の頃私の家は参道に面していて、しかも2合目あたりであったから、真夜中に目覚めることもしばしばであった。 土踏まずに縄を巻きつけて、炎天下を素足で歩いている一団もあった。 私の家には、天然の炭酸水が山から筧(かけひ)をかけて引かれていたから、御嶽参りの行者に度々所望された。 

木曽福島まで山を降りなければ、文房具や食料品などもあまり売っていなかったので、都会から移って行った者の生活としては随分不自由なことが多かったと思うが、不思議と不自由で困った思い出は一つもなく、父が出張で東京から土産に買ってきてくれた絵本や積み木、小学生になってからは野球の道具などを大切にいつまでも使った。 砂糖やお菓子は貴重品で戦時中は全く無かったので、私は村の子供たちと一緒に昆虫採集に歩いて、山つつじの花や板取の茎などをかじって満足していた。 大粒の黄色の木苺が一杯実をつけているのを見つけたときのどきどきするような胸のときめき、黒ずんだ桑の実を思う存分採って食べた楽しさは今も忘れることができない。 

昆虫類にしても、あの頃に見た名も知らない蝶の羽色の美しさは今も鮮やかに思い出す。 番人も居ない水車小屋がコットン・コットンと単調な響きを繰り返して米をついており、その傍らに一群の山百合が清々しい香りを辺り一面に振りまいて咲いている。 杉木立の中に入ると、大木の洞に巣を作っているリスが、隠れようともせずにじっとこちらを見つめることもあった。 

木曽川が岩盤に突き当たるところに深い淵があって、夏は絶好の水泳場となる。 木洩れ日に川底の小石が青白くきらめいて、いわなややまめが列を作って泳いでいた。 真夏でも水温が低くて10分間も入ってはいられない。 唇を紫色にして川べりの大石に身体を張り付けて暖をとる。 

9月1日から3日間、村は盆踊りで農家の人達も仕事を休み、神社の境内や広場に集まって踊り続ける。 ゆったりした本場の木曽節の合唱が夜の白むまで続く。 

秋は学校でも、学芸会・運動会・遠足と行事が多い。 中でも秋の遠足は一番素晴らしかった。 空の色は深く青く、吐く息は既に白い。 朝露のしとどな野道を行き、急流の泡立つ吊橋を渡り、栗や胡桃を拾いながら谷川へ駆け寄ってのどを潤す。 

目的地に着くと中央アルプス連峰が目前に迫り、木曽川を挟んで御嶽が裾までくっきりと展開する。 雄大な大自然に目を見張り、胸いっぱいに感動がわきあがる。 谷間を見下ろすと木曽川がうねるように流れ、山の中腹を切り開いて登山道が続いている。 

木曽川に王滝側が合流するところにダムがあって、両岸の木々が影を落として深々と淀んでいた。 森林鉄道が檜やさわらを積み込んで王滝川の鉄橋を渡ってゆくのが見えた。 岸沿いの傾斜地の段々畑や、僅かばかりの水田はちょうど刈り入れ時で、点在する農家からは昼餉の煙が白々と立ち昇っていた。 

山の秋は一日一夜毎にその色合いを深くしていく。 山々は赤と黄色に染められて美しいのも束の間、背丈よりも高いススキの穂が風にそよいでさやさやと揺れ、落ち葉が舞い始める頃、間もなくやって来る厳しい冬に備えて、農家の水辺は菜を洗い桶をすすぐのに忙しい。 夜空はあくまで澄み切って星が降るように美しい。 北風が白樺の梢を震わせてひゅうひゅうと吹きまくると、木の葉は一片も残らずに散りつくす。 積もったり消えたりしていた雪が根雪になって、ダムや淵は凍り付き、零下十数度の連日となる。 大人たちは囲炉裏に直径30センチもある大木の根を焚き、長い冬篭りの生活に入る。 

どこまでも白い雪があるばかりで、時折馬がそりを引いて荷物を運ぶ以外は、人々の往来はあまりなくなってしまう。 大雪のため断線して電灯がつかないこともあって、ランプやカンテラのわびしい灯火の下で吹雪の音を聞く夜もあった。 そんな夜でも囲炉裏の熱い灰にうずめて栗を焼いたり、幾度も聞かされて暗誦のできるおとぎ話を、尚それから、それからとねだって聞かせてもらった楽しい夜もあった。 

子供たちにとっては冬も決して嫌なものではなかった。 校庭に雪だるまを幾つも作って、それを城壁にして雪合戦をする。 ルールを決めて捕虜の交換をしたり、騎士ありお姫様あり物語を実現するような楽しさで、クラスは二組に分かれて互いにひそひそと作戦を練り、それは一冬中続けられる。 又、家に帰ると各々工夫を凝らした手製のそりに乗って、凍り付いた田んぼのスケート場や山の小道を滑って遊ぶ。 都会の子供の知らない爽快な遊びである。 

あの頃六・七十歳であった老人の殆どが汽車に乗ったことがなく、まして海など見たこともない人達であったと聞く。 あの奥深い寒村に生れて、村以外はどこも見ず何も知らずに一生を送った人達が、決して不幸ではなかったと私は思う。 

親友であったS君は一生を神に捧げ、伝道の道に生き甲斐を見出したと聞いている。 幼かった日の思い出がまざまざと浮かび上がってきて、S君の選んだ道が彼にとって誠に相応しい道であったと私の心を打った。 

あれから十数年(現在から見ると数十年)、世の移り変わりは激しかったけれど、私の心のふるさとに住んでいる懐かしい思い出の数々は生涯消え去ることはないであろう。

 山のしづく      思いつくまま     このページ
ホームページに戻る          目次に戻る            はじめに戻る