物心が付くころから家には蓄音機があった。 喫茶店かバーで使われていたものを父が譲り受けたのであろう。 ホーン(ラッパ)を箱型の本体に内蔵した、床置きタイプの大型蓄音機で、前面扉には木彫りの模様が施してあり、アンティーク調の4本の足が付いていた。 上部の蓋を開くと12インチ(30センチ)のターンテーブルがあり、180度旋回するS字型のパイプアームの先にサウンドボックスが取り付けられていた。 これはレコード盤から針を通して音を拾う、電蓄のピックアップに相当する部分で、内部には薄い金属箔の振動板が見えた。 音はここからパイプを通って下部のホーンから出てくる。 上蓋の裏側には、亡き主人の声を懐かしそうに聴いているニッバー犬(ビクターの商標)のマークが描かれていた。 モータはゼンマイ式で、幅3センチほどの2組のゼンマイと歯車装置が鉄のフレームの内部に組み込まれていた。 箱の外部に出ているハンドルを回すとゼンマイが巻き込まれ、ターンテーブルのブレーキを解除すると歯車装置を介してターンテーブルを回転させる構造になっていた。 これらのことについては、中学になってから中を分解して分かったことである。 高さは1メートルほどもあったため、幼児の私は踏み台をしてレコードが回転するのを見ながら童謡を聴いた。 レコード(78回転/分のSP盤)は弟と私のための童謡の他に、父の浪曲と母の長唄とクラシックの小品が何枚かあった。 太平洋戦争も末期に近い頃であったが、軍歌調の童謡はほとんど無く、優しく楽しい曲が多かった。 小学生から中学生にかけて、以前から母が持っていたか或いはその後買い増したと思われるロッシーニのセヴィリアの理髪師序曲・ウィリアムテル序曲・ウェーバーの魔弾の射手序曲・リストのハンガリー狂詩曲第2番・第6番・サラサーテのツィゴイネルワイゼン・クライスラーのウィーン奇想曲・中国の太鼓・ビゼーのカルメン抜粋・グノーのファウスト抜粋・ワーグナーのタンホイザー第3幕への前奏曲・さまよえるオランダ人序曲・ドビュシーの子供の領分などを、毎日のように母と弟と3人で聴いた。 楽器が欲しかったが戦後は食べるのが精一杯の生活でそのような余裕は無く、田舎に住んでいたため習う手立ても見当たらなかった。 ずっと後になって会社勤めを始めてからバイオリンとピアノを練習したが、演奏を楽しむところまで到達する以前に挫折してしまった。 このようなわけで、私にとって音楽はもっぱら聴くことのみであったが、幼児期以来現在に至るまで音楽は私の心の拠り所となった。 中でも青春時代に聴いた曲と演奏は、その殆どが今でも「私のお気に入り」となっており、当時から好みがあまり変わっていない。 いや、むしろそれらの曲は脳裏に定着してしまい、好みを変えるのが困難になってしまっているのかもしれない。 会社員時代の40歳代から定年退職に至る期間は仕事に追われ、若い頃に比べてコンサートに行ったりレコードを聴いたりする、所謂音楽に接する時間を充分に取れない時期を過ごすことを余儀なくされた。 そのためこの期間に活躍した多くの演奏家による生の演奏に接する機会を失ってしまったことは口惜しい限りである。 一度しか聴いたことがない曲、或いはある作曲家の他の曲を幾度も聴いたことがあれば、初めて聴く曲であっても曲の流れは自然に脳に入ってきて、更には次がどのような展開になるのか予測しながら、あたかも自分が作曲家になったような気分で聴けるのが音楽を聴く楽しみの一つである。 一方、幾度も聴いたことがある曲を同じ演奏で聴くときは、演奏の流れに従って音楽を単に受動的に聴いているわけではなく、指揮者がオーケストラを指揮するときのように、曲の進行の僅かに先の音と間合いを予測して、自分が指揮している仮想のオーケストラに対して絶えずキュー(cue:演奏指示・合図)を与えながらその演奏を聴いている。 30年以上も聴いていないレコードを取り出して聴いてみると、その演奏は自分が予測する音楽の流れに一分の空きも無くぴったり合っている。 「コツン・コツン」というレコードの傷の音も、事前に予測しながら音楽の一部となって聞こえてくる。 第1楽章が終わり一定の間合いの後、突然第2楽章の冒頭のテーマ(主題)が脳の内部で鳴り響き、それに続いてレコードの音楽が鳴り響く。 クイズ番組の問題のように、XX交響曲・第2楽章の冒頭のテーマを歌ってみろと言われてもなかなか思い出せるものではないが、第1楽章が終わって1,2秒後そのテーマを突然思い出すのは不思議である。 これと同様にレコードの傷のような雑音までも、「コツン・コツン」という音が聞こえる1秒か0.5秒ほど前に、指揮者がキューを与えるかのように「それ!コツン・コツンだ!」と思うと同時にその音が聞こえるのである。 このように書くと、私が音楽を聴くときは音の細部のみを追いかけているように思われるかもしれないが、「私のお気に入り」の選定基準はそれとは逆で、音の細部や演奏技術に若干の欠陥はあっても、音楽全体としての流れがすばらしく感動を与えるものであれば合格である。 超一流のオーケストラであるベルリンフィルやウィーンフィルを超一流の指揮者と言われているカラヤンが振った演奏よりも、超一流とは言えないミュンヘンフィルをチェリビダッケが振った演奏の方が感動的であったり、或いは又現代の一流指揮者と一流オーケストラの演奏を素晴らしいディジタル録音で聴くよりも、1950年代の低音質のモノーラル録音をフルトヴェングラーの指揮で聴く方が感動的であったりする。 音楽は記憶の芸術と言われることがある。 演奏家や指揮者が音符を記憶するのはディジタル的であり、モーツァルトが1度聴いた曲を丸ごと記憶するのはディジタル写真的であるのに比べ、私のような一音楽ファンの記憶はアナログ的で、かなり曖昧ななものであろうと思う。 とは言うものの人間の脳は実にすばらしくできており、雑音までも含めた音楽を構成するすべてを、数十年も経過した今もなお何十曲も記憶していることに改めて感心する。 音楽を聴くとき、自分の記憶との僅かな差異すら脳は見逃さない。 これは当然のことながら、曲が同じでも演奏家が異なれば音楽は別なものになるということを意味する。 若い頃少なくて数回、多くて数十回以上も同じ演奏を聴いて脳に刷り込まれた音楽は、別な演奏家による同じ曲を聴いても、それがよほど感動的な演奏でない限り、脳は異質なものとして捉えてしまうので、新しい演奏を聴くときは自分の脳に刷り込まれている演奏をできるだけリセットして、新鮮な気持ちで聞くことを心がけている。 それでも尚、新たに「私のお気に入り」に加えたり、或いは今までの「私のお気に入り」の演奏を新たに聴いた演奏に置き換えたりするのはなかなか難しく勇気がいる。 |