1970年、旧ユーゴスラヴィアからの帰りに、4日間ほどパリで休暇を過ごした。 早朝から深夜までパリの街を散策するうちに、すっかりパリの虜になってしまった。 ルーブル・シャンゼリゼ・凱旋門・エッフェル塔・オペラ座といった観光スポットのみならず、市民が日常利用する市場や公園・場末の寂れた裏通りなども、メトロと徒歩でさ迷い歩いた。 当時は今よりもずっと治安が良かったので、不安を感じたことは無かった。 その後も十数年に亘り、旧ユーゴスラヴィアを始めルーマニア・ポーランド・旧東ドイツ・ハンガリー・旧チェコスロバキア等東欧諸国への出張の帰途、機会ある毎にパリに立ち寄った。 セーヌ川と橋・広場と通りはいつも変わらぬ佇まいでありながら、訪れる季節によって異なった印象を私に与えた。 スタンダール・バルザック・アレクサンドルデュマ・ヴィクトルユゴー・ジョルジュサンド・ボードレール・フローベール・ジュールベルヌ・マラルメ・ヴェルレーヌ・モーパッサン・ロマンロラン・アンドレジードが活躍した街。 少年時代に愛読し、少なからず影響を受けた文学作品の大半がフランスの作家であることに、つい最近になって気付いた。 プッサン・アングル・コロー・ドラクロワ、更にドガ・セザンヌ・シスレー・マネ・モネ・ルノワール・ゴーギャン・ゴッホ・マティス・スーラ・ロートレック・ユトリロ・モディリアーニ・シャガール・藤田嗣治など、数え上げたらきりがないほど多くの巨匠たちを生み育て、世界の画家たちが憧れた街。 サンサーンス・ドビュッシー・エディットピアフ・が生れ、モーツァルト・ショパン・ベルリオーズ・リスト・ワーグナー・ラヴェルが住んだ街。 彼らが今も街の何処かに住んでいて、時折街のカフェに現れてもおかしくない気がする。
パリには、19世紀にロートレックがポスターを描いたムーランルージュ、エッフェル塔を設計したエッフェルが造ったパラディラタン、第2次世界大戦後にできたリドとクレイジーホースなど、世界的に有名な高級キャバレーがある。 キャバレーというと日本では風俗店のイメージがあるが、本来は舞台芸術としてのショーと飲食を楽しめる社交場で、私が訪れた頃の客層も中高年の夫婦や友人・企業の招待客などが中心であった。 パリに限らずヨーロッパの街を将来幾度も訪れることになろうとは、当時は思ってもいなかったので、4日間のパリの休暇の最終日はキャバレーに行くことにした。 シャンゼリゼにあるため交通の便も良く、当時は最も豪華といわれていたリドのチケットを予約した。 ウィーンで買った山鳥の羽飾りの付いたティロルハットに黒のスーツ姿で出かけた。 今思うと気恥ずかしいが、当時は格好が良いと思っていたのであろう。 舞台のかぶりつきは常連客らしい紳士・淑女で占められており、私の席はそこから3列ほど後ろのテーブルであった。 リドの伝統的なダンスに始まり、道化師のパントマイム・曲芸と進みマジックが始まった。 マジシャンが現れ、「どなたか手伝ってもらえませんか?」と観客に問いかけた。 満席時の座席数は約1000席なので、多分数百名は入っていたと思われる。 私より前の席では私も含めて数名が手を上げた。 「そこの黒いスーツの東洋から来られた紳士! お願いします!」と私が指名された。 父の友人に柴田直光氏というアマチュアの奇術師がおり、その人の書いた『奇術種あかし』(昭和26年12月20日理工図書株式会社発行)という本が家にあった。 奇術の本としては非常に珍しく、奇術師にとってはノウハウとも言うべき、観客を欺くための手さばきの基本的な訓練方法が丁寧に解説してあった。 中学生の頃からその本を読んで練習を積んでいたので、私自身も幾つかのカードマジックができるようになっていた。 奇術というのは種さえ分かれば誰にでもできるというものではなく、すばらしい奇術を演じるためには訓練によって先ず技術を見につける必要がある。 基本的なテクニックの一つに『意図したカードを相手に引かせる』という技法があり、私もその方法を知っていたので『これは引かされる』と思ったのである。 そこで、そのカードは止めにして他のカードを引くこともできたのであるが、その場合奇術師は、『意図したカード』が引かれなかったときのために用意した別なマジックに移行するだけであり、『意図したカード』を引いた方がより素晴らしいパフォーマンスが見られる筈で、また観客受けも良くなるに違いないと考え、その場はあえてマジシャンに協力して『意図したカード』を引くことにした。 そのカードを私が引くと一瞬マジシャンの顔がほころんだ。 カードを見ると予想通りクラブのジャックだった。 男性の既婚者にはクラブかスペードのキング、独身男性にはクラブかスペードのジャック、女性にはハートのクインが最適である。 カードに特別な意味を持たせる場合以外は、絵札とエースと10を除く一桁の数字カードは引かせないのが普通である。 32才の私は独身に見られたのであろう。 そのカードを私が観客に見せた後、マジシャンは残りのパックを私に渡し、
プログラムの最後は、勿論オッフェンバックの『天国と地獄』に合わせたフレンチ・カンカン。 トップレスのダンサーたちが懸命に足を上げて踊る姿は、ロートレックの時代から変わっていないように見えた。 『パリ』という街の名を聞いたとき目に浮かぶ街並みや風景・そこに住む人々・風のそよぎ・ほのかな香り・光の具合などが、この街を訪れるたびに新しい印象として記憶のキャンバスに塗り加えられて、今の『私の中のパリ』になった。 それは単なる甘美な思い出に留まらず、大小の差はあるにしても、恋人が心の中の一部を占拠している感覚に似ている。 このような私のパリへの憧れは、1979年のある出来事まで続いた。 その年の1月、ユーゴスラヴィアへの出張の帰り、パリを昼頃出発する成田行きエールフランスAF274便に乗った。 約8時間の飛行の後、給油のためアラスカのアンカレッジ空港に着陸した。 当時の日本からのヨーロッパ線は直行便が無く、このアラスカ経由かモスクワ経由が主なルートだった。 アンカレッジ空港のトランジットルームで待つこと1時間余り、出発時刻が過ぎても搭乗が開始される兆しは無く、待機していた係員もエールフランスプロパーの社員ではなかったためか全員引き上げてしまった。 「エンジンにトラブルがあり点検中のため、出発が予定より遅れる見込み。」との簡単な場内放送があったのみで、出発予定についての情報が無いまま空港ロビーで1夜を過ごすことになった。 乗客の中には乳飲み子や老人もいたが、特別に宿泊設備を準備するような気配りはこの航空会社には全く無かった。 翌朝午前10時頃、翌日の同便AF274便が定刻に到着し、1時間15分後に給油を済ませて出発して行った。 翌日の同じ便に追い越されたのは、この時が最初で最後の経験であった。 その後しばらくして、「エンジン故障の修理ができなかったため、パリから代わりの機材(航空会社は飛行機のことを機材と呼ぶ)を出すことになった。 機材到着まで約10時間かかる見込み。」との場内放送があった。 何処かの小学校から借用したスクールバス数台で、2〜3時間ほどのアンカレッジ市内観光を、航空会社は希望者にサービスしたが、仮眠のためのホテルの提供は無かった。 ファーストクラスの客など特例はあったかもしれないが、乗客のほぼ全員が空港のロビーにごろ寝をして33時間を過ごした。 33時間遅れで出発した機内は異様な雰囲気に包まれていた。 乗客のほぼ80パーセントは日本人で、そのうちの1人がスチュワーデスからマイクを借りて、乗客全員に日本語と英語で呼びかけた。 「機体の修理の状況や出発の予定を的確に乗客に知らせなかったばかりか、乗客の中には乳飲み子や老人もいたが、エールフランスは何の対策も講じず、乗客を空港の床に寝かせた。 これは人道的に考えても、世界で一流の航空会社にふさわしい対応とは言えない。 もし、乗客の80パーセントが日本人ではなく、フランス人であっても同じ対応をしたであろうか。 エールフランス社長に対し厳重に抗議するとともに、乗客全員に対する謝罪を求める文書を作成したい。 私が乗客を代表してサインをし、この便のスチュワーデスに預けたいと思うが、賛成していただけるか、賛成の方は拍手をしていただきたい。」 全員が拍手で答えた。 「フランス人の方及び日本人以外の方々も賛成していただけますか。」 外国人も全員が拍手で答えた。 帰国後10日ほど経った後、エールフランス社長名で謝罪の手紙が届いた。 適切な対応ができなかったことについて、アンカレッジ空港には自社の社員が手薄だったことと、市内のホテルがすべて満室であったことが書かれていた。 パリでの1泊無料サービスに加え、ワインと料理の味の魅力に引かれ、それまではエールフランスを利用することが多かったが、この出来事の後はフランクフルト・チューリッヒ・アムステルダム・ロンドン・コペンハーゲンなど、パリ以外の空港も利用するようになった。 フランスやパリが嫌いになったわけではないが、私のパリへの執着心が以前ほどではなくなった。 『パリ』という街の名を聞いたとき、目に浮かぶ街並みや風景・そこに住む人々・風のそよぎ・ほのかな香り・光の具合など、パリを訪れるたびに私の記憶のキャンバスに塗り加えられてきた、『私の中のパリ』は今も全く変わっていない。
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