2007.04.20
飛行機のハッチが開きボーディングブリッジに出ると、むせ返るような熱気と香辛料の匂いが私の中にある懐かしさに似た想いを呼び起こし、再びインドネシアにやって来たことを実感する。 ジャカルタ空港はジャワ風建築を模した鋼管製入母屋造りのレンガ色の内装で、中庭には手入れの行き届いた熱帯樹木と芝の緑が鮮やかだ。 最初にインドネシアを訪問したのは、20年近く前の1988年の夏であった。 ハンガリーのプラント建設現場から帰国してちょうど1ヶ月目の6月12日、成田発ジャカルタ行きガルーダ・インドネシア航空873便に乗った。 私は1980年から1984年にかけてバングラデシュの繊維プラントを担当したことがあり、その経験からバングラデシュと同様にイスラム人口が85%以上を占め、且つ世界一イスラム教徒の多いインドネシアがどのようなところであろうかと想像をめぐらしていた。 しかしながら、空港からホテルに到着するまでの間に出会った人々の様子を見て、私がそれまで想像していたイメージとは全く異なることに驚いた。 バングラデシュのイスラム系住民の女性は家事に専念し、人前には姿を見せないことが多いため男性中心の社会であったが、ここでは町にも職場にも日本と同様に女性の溌剌とした姿が見られた。 又どこに行っても男性も女性も、こちらの心まで明るくしてしまうような素適な笑顔で私たちを迎えてくれた。 この時のインドネシア訪問の目的は、包装用プラスティックフィルム製造プラントの商談であった。 いつもと同様自ら作成した技術プロポーザル(プラントの仕様と供給範囲を示す工場計画提案書)を携え、営業担当者と共に客先を訪問し説明する日々が始まった。 ジャカルタとセマランに本社がある2社から、ほぼ同じ内容の引合いが同時にあったので、約2ヶ月間の滞在期間中にジャカルタとセマランを幾度も往復して幸運にも2社共契約することができた。 日本から供給する機器代だけで十何億円もするプラントなので、契約折衝は長期に及ぶのが普通であるが、このうち1社のオーナーは契約書の調印に際し、「技術責任者はあなたか?」と私に問うので「はい」と答えると、「あなたを信用していいですね?」と改めて問うので私も一瞬躊躇した後「はい」と答えると、こちらが準備した契約書の内容をほとんどチェックすることも無くサインし握手を求めてくれた。 プラントの引渡しが終わりこのプラントで製造された製品が販売されるようになるまで、この言葉は私にとって契約書の文言以上に重いものとなり現在も忘れていない。 私が勤務していた会社を退職後も、この2社からはプラント増設の技術相談やトラブルシューティング等の依頼があり、幾度か工場を訪問して先方技術者と共に問題解決に取り組んできた。 これらの2社はフィルムの生産に関しては何れも新規参入であったため、当初は運転員の訓練から始めなければならなかった。 1社はトルコのフィルム製造会社に、今1社はハンガリーの会社にオペレータ教育を依頼した。 私が引率したハンガリーの会社でトレーニングを受けた10名は、この20年の間にそのほとんどが他の会社に移るか或いは退社してしまったが、2名だけはまだオペレータとして残っており、プラントを訪れる度に昔話をして懐かしんでいる。 これら2社に先行して、インドネシアには大手のフィルム製造会社が他に2社あった。 このうちの1社に機器を売り込むためスラバヤの本社工場を幾度か訪ねた結果、1989年にプラントの中の1機種のみを購入してもらうことができた。 しかし残念ながら、私が勤務していた会社からはこの機械が最初で最後の納入となった。 一方個人的にはこれがきっかけでこの会社の社長と懇意になり、既設工場の工場診断や、この会社では初めての別用途フィルムの製造設備に関する意見を求められ、幾度か工場を訪問して若い技術者と議論を交わした。 その後新しいプロジェクトがある度に技術者の相談相手として、或いは機器メーカとの調整役として現在も仕事をさせていただいている。 新たに製造設備を増設する際、この社長は基本方針と主要機器の選定は自ら行い、あとはすべて部下に任せる方針のようである。 主要機器は世界のトップレベルのメーカ数社から性能を最優先して購入し、プラントが稼動するまでのすべてのエンジニアリングを自社のエンジニアが数名で行っている。 これには相当高いレベルの能力と経験を必要とするが、若いエンジニアたちは世界を飛び回り休日も返上して目標に向って努力している。 プラントの設計は勿論のことプラント機器のほとんどすべてを一括してプラントメーカから購入し、製造される製品の品質・生産量までをプラントメーカに保証させる契約が多い中で、このように自らの責任で工場を完成させる技術を持っている会社は少ない。 これは社長の方針と部下への信頼に加え、その方針に従ってそれを全うする優秀なエンジニアたちの努力の賜物である。 彼らが来日するときは一緒にメーカを回り、一方日本から出かける時は私がメーカの技術者と一緒にスラバヤに行って技術打合せをした。 中国のメーカにも仕様打合せや検査に同行したこともあった。 彼らは皆優秀で礼儀正しく将来はこの会社を担うメンバーになるに違いない。 日本のある機械メーカの接待で、この社長夫妻と道後温泉に同行したことがある。 道後温泉本館を見物した後坊ちゃん列車に乗ったことを思い出す。 お二人とも刺身やうなぎなど日本の食事が大好きである。 日本の温泉の入り方を説明し私は社長と一緒に入ったが、奥様も1人で問題なく楽しんでこられた様子だった。 私が体調を崩したときこの会社の多くの友人から、「回復を神に祈った」と書いたメールをいただき嬉しかった。 社長からは「あなたは働きすぎなので、少し休んだ方がよい。 スラバヤに賄いとマッサージ付きの住居を用意するので、しばらく静養に来るとよい。」とメールがあった。 これも大変嬉しく人生のうちで一度はそのような生活がしてみたいと思ったが、定期的に通院する必要があったためお断りした。
1988年に私が始めてインドネシアを訪問した時以来の友人が幾人かいる。 その中でセマランの会社にいた1人が会社を替わりこのスラバヤの会社の関連会社に移ってきており、訪問する度に食事に誘ってくれて旧交を温めている。 今1人はジャカルタの商社に勤務しており、私がインドネシアを訪問する度にほとんど毎回会って話をする。 メールや電話で家族のことなどをよく話し冗談を言い合う間柄になった。 今年2月初旬のジャカルタの洪水では、彼の家は無事だったが周囲は道路も家屋も水没し丸1週間家に閉じ込められ、ボートで家の周辺をクルーズしたと言ってきた。 話は変わるが、私は1988年にインドネシアを訪問するまで、勤め先の宴会で勧められるとき以外はカラオケにはあまり興味はなかった。 ジャカルタでの最初の商談が2ヶ月にも及んだこともあり、商社の方が度々カラオケに誘ってくださった。 午前2時頃まで開店している、主に日本人客を対象としたナイトクラブがあった。 そこでは大勢の若いホステスたちが日本語の歌を覚えようと努力している様子で、例の明るくて屈託の無い笑顔で私の知っていそうな曲を探して一緒に歌おうと誘ってくれた。 私はそれまで越路吹雪以外の歌謡曲や演歌はほとんど知らず、自然に耳から入ってメロディーだけは聞き覚えがあるという程度であった。 彼女たちの熱心な特訓のおかげで何曲かは歌えるようになり、今もカラオケで歌うときはいつもインドネシアのナイトクラブを思い出す。 バリ島の外国人専用ナイトクラブのテロ事件以降、このような店は無くなってしまったかもしれない。 人々の信仰する宗教はイスラム教以外にもキリスト教(プロテスタント・カトリック)・ヒンドゥー教・仏教等まちまちであるが、外部から見る限り皆和気藹々として協力し仕事をしている。 最近はテロのニュースを耳にすることもあるが、インドネシアに限らず大多数の人々は仲良く暮らしており平和を大切に思っているに違いない。 インドネシアには祝日が多い。 友人に電話をかけると、今日はイスラム教の祭日なので休みだと言う。 あなたはクリスチャンだった筈なのにイスラム教の祭日も祝うのかと問うと、国の祝日になっているのだそうだ。 国家の休日に加え民族・宗教にちなんだ祝日がほとんど含まれており、多民族・多宗教国家の妥協の跡が窺える。 ちなみに2007年の祝日は以下のようになっている。 1月 1日(月)新年 ホームページに載せるインドネシアのアルバムを作ろうと思ったとき、25回も訪問したにもかかわらず写真の数が少ないのに驚いた。 他の国を訪問する場合は1日にフィルム何本も撮ることがあるのに、インドネシアの場合はカメラさえ持参しなかったことが多かったようだ。 又近いうちに訪問するので写真など何時でも撮れるであろうという気持ちと、観光が極端に少なかったことによるものと思われる。 観光旅行は2002年3月末に訪れたボロブドゥールと家族で行ったバリ島のみで、それ以外はすべて仕事であった。 少ない写真の中でもほとんどが人物写真なので、ホームページに載せるには適当でないものばかりであった。 次は写真だけ撮りに行ってみたいと思う反面、友人たちは全員仕事仲間なので、仕事以外のインドネシア訪問は寂しい気もする。 |