山のしづく
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思いつくまま
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バニヤルーカの地震

2007.04.10

突然「ドンドン!」という地響きで目を覚ました。 一瞬ソ連軍が攻め込んできた大砲の着弾音かと思ったが、続いて激しい上下動を感じ壁に亀裂の走るのを見て初めて地震だと分かった。 このホテルの壁もレンガを積んであるだけの構造であることを想像して血の気が引くのを覚えた。 部屋には木製の机があり、地震のときは素早く机の下に避難する訓練は小学生の頃から行っていたにもかかわらず、寝起きで頭の回転が鈍かったせいもあり、呆然とベッドの上に座ったままで揺れが収まるのを待った。 従来日本で経験した横揺れとは違い、真下から突き上げるような異様な揺れだった。 その後横揺れも加わり1・2分は揺れが続いたと思われるが、時間的な記憶は曖昧である。 外から群集の悲鳴が聞こえたのでカーテンを開けると、近くの映画館から人々が逃げ惑う様子を目にした。 

私は1968年から1970年にかけて正味20ヶ月間(この間2回帰国)を、プラント建設のためボスニアヘルツェゴヴィナ(当時のユーゴスラヴィア)のバニヤルーカ市で過ごした。 1969年秋にプラントが完成し10月25日(土)には初めての製品が製造されて、工事に携わった関係者一同が客先と共にワインで乾杯して竣工を祝った。 化学反応を伴うヴィスコース繊維の製造は、一旦製造を開始すると昼夜を問わず連続運転する必要があるため、運転メンバーであった私は夜勤となった。 翌日10月26日(日)朝、昼勤のメンバーと交代してホテルに帰り食事をした後仮眠をとっていたときのできごとである。 ソ連軍が攻めてきたと一瞬思ったのは、1年前の1968年8月21日にチェコのプラハにソ連軍が突然侵攻した記憶が生々しかったからである。 

早速着替えをしてヘルメットをかぶり、車でプラントに向かった。 途中ヴルバス川の橋を渡るときいつもは感じない大きな衝撃があり、橋桁が少し移動していたことに気付いた。 

プラントには取り纏め会社のM社他十数社から39名の日本人指導員と、アメリカのプロセスコンサルタント会社・CT社のメンバー7名、その他外国メーカ指導員2名が現地に滞在していた。 点呼の結果日本人はAHさん1名を除き全員無事であることが確認された。 当時私はM社からCT社に派遣されておりCT社の下で仕事をしていたため、彼の部屋は私の部屋と同じフロアでありながら連絡が悪く、昨夜の夜勤は私だけと思い込んでおり彼に声をかけずに工場に来てしまっていた。 急いでホテルに引き返しドアをノックすると、しばらくして暗い部屋から「何かあったのですか。」と彼の顔が覗いた。 私は彼の元気な顔を見てほっとした。 「外が騒がしいと思い一旦は目が覚めたが、眠かったので又そのまま眠った。」とのことであった。 その後彼にはバングラデシュのプラント等でも一緒に仕事をさせていただき、お会いする度にこの話を持ち出して思い出話に花を咲かせている。 

その夜は副団長のYKさん・前述のAHさんと私の3名がプラントに残り、他の日本人は全員宿舎に引き上げた。 一通りプラントを見回り点検した結果、重量機器の下にある柱はあたかも材料の圧縮試験をしたときのように45度の角度でせん断破壊を起こしており、ずれたコンクリートの隙間から鉄筋が折れ曲がっているのが観察できた。 又、苛性ソーダ溶液貯蔵室では、重心が高く下部が円錐形のタンクのバルブはすべて破壊され、17%と25%の溶液が部屋中に噴霧状態となって飛散しており立入ることはできなかった。 苛性ソーダや硫酸が大量に流出したため、廃水処理が追いつかずヴルバス川の魚が死んだと後になってから聞いた。 但し機械類については外見上大きな被害はなさそうに思われた。 

アメリカ本国からのCT社のメンバー3名は家族連れで子供もいたため、その夜は工場に避難してきており事務所で夜を明かすことになった。 その後も頻発していた小さな余震の度に、彼らは悲鳴を上げて屋外に飛び出した。 一方私たち3名はあれほどの大きな地震の後は大した余震は無かろうと高を括り、事務所に椅子を並べて横になり仮眠を取った。 CT社の家族は皆車を持っていたので、余震の度に外に非難するのを気の毒に思い、建物から離れた場所に駐車して車中で過ごすことを勧め彼らもそれに従った。 

翌日10月27日(月)は朝から被害状況を把握するため、私のボスであったCT社のミスターGSと共に、ヴィスコース製造工程の現場事務所で客先及び指導員関係者と打合せをしていた。 午前9時過ぎ突然「ドンドン」という大音響と共に、昨日より更に強い地震に襲われた。 頑丈な木製のテーブルに向かって打合せをしていたが下にもぐりこむ余裕は全く無く、皆とっさに立ち上がったものの歩くことができず近くの柱にしがみつき転倒するのを避けるのが精一杯であった。 電灯が消えレンガの壁が雷のような地響きを立てて崩れ落ち、コンクリートの床が割れて土埃が舞い上がった。 しばらくして揺れが収まるとミスターGSが私に「ミッチ!フォローミー!」と叫び、ほとんど暗闇に近い工場内の通路を一目散に30mほど先にある出口目指して走り出し私もその後に続いた。 一緒に打合せをしていた関係者数名と、たまたま部屋の掃除に来ていた女性も全員が彼の後に続き屋外に逃れた。 1日前の地震でプラントは停止していたため、爆発性が極めて高い猛毒ガスの二硫化炭素の漏れも無く二次災害の発生に至らなかったことは幸いであった。 昨夜の空元気はすっかり消え失せ、恐怖心のため工場内は勿論のこと事務所にさえ立入ることができなくなってしまった。 

震源
軍隊による救援活動
破壊された町並み
破壊されたアパート
テント生活をする人々

他の場所で仕事をしていた指導員たちも全員無事に集合した。 1日前私がホテルにいたときの地震でボイラーの煙突(90m)の頭頂部が折れて落下していたが、地震はちょうど1時から2時の間の昼食時に発生したため、指導員は現場におらず負傷者は1人も出なかった。 これだけの大きな地震に2度も遭いながら50名にも及ぶ指導員全員が無事であり、又客先側にも人的被害が発生しなかったことは運がよかったとの一語に尽きる。 建設はほとんど終了しており、工場内には指導員の他は運転要員と若干のメンテナンス要員しかいなかったことも幸いしたと思う。 地元の新聞によれば、死者20名・負傷者400名、震度は8程度(日本の震度に換算すると5から6に相当すると後に専門家から聞いた)で震源はバニヤルーカ市の直下とある。 町の家屋の4分の3は破壊或いは損傷により使用不可能となった。 電気・水道のほとんどは停止した。 

ベオグラードの担当商社支店から見舞品が届き飢えを凌いだ。 ホテルはすべて立入り禁止となり、その夜は全員がプラント内の木造事務所で過ごすことになった。 コンクリートやレンガ造りの建物はほとんど使えなくなったが、木造の建物の損傷は全く無かった。 CT社のメンバーの3家族は車でザグレブに逃れ、私のボスのミスターGSは市内の知人宅に泊まった。 他の3名は日本人と一緒にプラントで過ごした。 

10月も終わりに近く夜は冷えるため焚き火をして暖を取った。 焚き火を囲んで誰かが歌い始め次第に皆が歌った。 2年間にわたる建設工事の末漸く最初の製品が製造されるところまで漕ぎ着けた喜びも束の間、それらは一瞬にして失われ復旧の目処も立たない不安と、今後更に長期間の復旧工事をこの異国の地で過ごさねばならぬという思いからの焦燥感や諦めの半面、一方では復旧工事に入るまでの間、取り敢えず日本に帰り家族に会えるという身勝手な感情も皆の心を過ぎったに違いなく、歌声は次第に大きくなった。 その時このメンバーの中では最年少と思われる事務局のOAさんが現れ皆に声をかけた。 「地元の人達の中には死者や負傷者もおり、住む家もなくなってしまった人達も多い。 喜んで歌っているのではないという皆さんの気持ちも分からぬではないが自粛しましょう。」 皆この一言ですべてを理解し自らを恥じ、直ちに歌は中止された。 それ以来私は彼を尊敬するようになった。 

近くにザグレブからサライェヴォを経由してドゥブローヴニクに至る鉄道が通っており、何事も無かったかのように列車が通過して行った。 地震の被害範囲は狭いのではなかろうかと思った。 

翌10月28日(火)には大使館から書記官他が見舞いに来た。 又NHKがTV用の撮影をしにやって来た。 バニヤルーカのホテルはすべてが閉鎖されたため日本人指導員はベオグラードで一時待機することになったが、その後指導員の日本への一旦引き上げが客先との間で合意に達したため、パワープラント(発電設備)の指導員を除き11月10日頃までにはほとんどが帰国した。 

一方私の所属するCT社は、アメリカの繊維製造会社から臨時に指導員として集められた年配者3名を残して責任者は皆帰国或いは自宅に帰ってしまった。 アメリカの田舎に住んでいる人達の中には、外国でバスや航空機を自分で予約して移動することに慣れていない人達も多い。 途方にくれている彼らの世話をするのは私以外にはおらず、CT社の車を自由に使っていたこともあり彼らの帰国の面倒を見ることにした。 日本の会社であればたとえパートで雇った人であろうと、このような状況下ではきちんと最後まで面倒を見るのが普通であるが、アメリカの会社はドライなのか或いはショックがあまりに大き過ぎてそこまで気が回らなかったのかもしれない。 

その後帰国までの私の行動は下記の通りである。

10月28日(火)地震の翌日
バニヤルーカでは宿舎が確保できず食料も日本のM社から分けてもらっていたので、取り敢えずザグレブのホテルに3名(SS氏,SA氏,RH氏)を送り届け私もザグレブのホテルに泊った。

10月29日(水)
3名のうちSS氏はアメリカの地方都市まで、インド人のSA氏はインドの希望する都市までの便を予約し空港まで見送った。 残るRH氏は、バニヤルーカのホテルが立入り禁止になっていたため、ホテルから自分の荷物を取り出さずにザグレブに移動してしまった。 出発前に手荷物の少ない人だとは思ったが、帰国するのにホテルをチェックアウトせずにザグレブまで来てしまうとは思いもよらぬことであった。 ザグレブの同じホテル泊。

10月30日(木)
再度バニヤルーカに引き返し、短時間部屋に入ることをホテルと交渉してRH氏の荷物を取り出しチェックアウトしてザグレブに戻った。 このとき友人のHAさんがバニヤルーカに住む婚約者に美味いものでも食べさせたいと言うので、ザグレブまで2人を車に乗せてあげた。 ザグレブ泊。

10月31日(金)
アメリカの地方都市までの航空便を手配してRH氏を送り出した。 ザグレブ泊。

11月1日(土)
日本人の指導員は皆ベオグラードに滞在していたので、これに合流するため朝ザグレブを出発し一旦バニヤルーカに立ち寄った後ベオグラードに向かった。 ベオグラード泊。

11月2日(日)
帰国に先立ち私が使っていた車をミスターGSに返却する必要があり、電話で相談すると彼も打合せのため近々バニヤルーカに来る予定であることが分かったため、彼にはウィーンからグラーツまで鉄道で来てもらいグラーツで彼をピックアップすることにした。 ベオグラードからグラーツまでの長距離ドライブ(約640km)は、一人旅では退屈なのでTSさんを誘ったら同行を快く引き受けてくれた。 約束したグラーツのホテルに着くとミスターGSが待っており、3人で雉料理を食べに出かけた。 グラーツ泊。

11月3日(月)
3人でバニヤルーカに戻りミスターSGに車を返却した。 この車はメルセデス・ベンツ190の中古車で走行距離は10万キロを何回か回っていると思われ、アクセルを一杯に踏み込んでも最高時速140kmが限度であった。 しかしさすがベンツだけのことはあって、相当無理なハンドル捌きをしても走行安定性は良かった。 私個人の荷物も地震以来ホテルの部屋に置いたままになっていたので、整理をしてバスでベオグラードに帰った。 車の無い不便さが身に染みた。 ベオグラード泊。

11月4日(火)
5日にプラントの事務所整理をすることになり、商社TKさんの車に便乗しバニヤルーカに引き返した。 走行中エンジンが故障し途中の町の修理屋で見てもらったが修理できず、代車を借りて夕方バニヤルーカに到着、TKさんの知人宅に宿泊した。 バニヤルーカ泊。

11月5日(水)
事務所の家具や書類の整理をし、復旧工事再開までの間木造の倉庫に保管することになった。 10月27日の地震以来工場は勿論のこと事務所の建物にさえ立入るのは怖かったが、CT社の分は私1人で整理せざるをえなかった。 事務所は幸いグランドフロア(日本式の1階)だったので、机と椅子を積んでいつでも窓から屋外に飛び出せるように逃げ場を確保した上で作業を進めた。 机と椅子数人分と書類の段ボール箱20個余りをカートに載せて正面出口まで運び出した。 親しくしていた客先のエンジニア2名が倉庫への運搬を手伝ってくれたが、建物内には入ることを拒んだ。 夕刻副団長のWYさんとOAさんの車でベオグラードに帰った。 ベオグラード泊。

地震後の移動距離

11月6日(木)
ミスターGSと電話で連絡を取ったところ、帰りはウィーンの彼の自宅に立ち寄り2・3日休養してから帰国するように勧められた。 地震の後毎日のように移動続きで(約3000kmを移動)、若いとは言え多少疲れがたまっていたのでその言葉に甘えることにして航空券のルート変更をした。 ベオグラード泊。

11月7日(金)
午後の便でベオグラードからウィーンに移動、ミスターGS家族と夕食を共にした。 ウィーン泊。

11月8日(土)
朝夕は冷え込むようになりミスターGSのコートを借りて着ていたが、大き過ぎるため自分用を買うことにして、奥さんにデパートに案内してもらい彼女の見立てでコートを購入した。 夜はオペラの切符を買ってくれており、オペラ座でリヒャルトシュトラウスの「バラの騎士」を鑑賞した。 ウィーン泊。

11月9日(日)
朝からウィーン市内を散策、美術史博物館などを見て回った。 夜は路面電車でグリンツィングに行き、地元の人達や観光客と一緒に夜中までワインを飲み歌って楽しんだ。 グリンツィングにはホイリゲと呼ばれる自家醸造の新酒を飲ませるひなびた酒屋が軒を連ねており、1人でも話し相手はすぐに見つかり気楽に楽しむことができる。 ウィーンに行く度に訪れたものだ。 ウィーン泊。

11月10日(月)
午前中のフランクフルト発羽田行きのJALに乗った。

11月11日(火)
途中ハンブルクに寄りアンカレッジを経由して午後5時過ぎに東京に到着した。 東京泊。

11月12日(水)
帰宅 

この地震で我々日本人メンバーは1人の負傷者も出さず災害を免れ、当事者以外は地震があったことすら忘れてしまっているに違いない。 しかし地震が発生した時刻や条件など、何かがほんの僅かでも違っていたなら大災害になっていたかもしれず、これは幸運が重なった結果であると私は思う。 仕事の面でも、客先に対してはユーゴ政府を始め全国の各方面から寄付や援助が集まり復旧も順調に進んだ。 この地震によって多くの経験を積むことができ、友人たちとの絆もより深まったと思う。 この時のメンバーは38年を経た今も、2年毎に全国から集まり親交を暖めている。

注記:掲載のモノクロ写真・震源と軍隊による救援活動の2点は、地方紙”VJESNIK"の1969年10月28日の記事のコピーです。 AHさんから提供をいただきました。


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