山のしづく
ホームページに戻る



思いつくまま
目次に戻る



ルーマニアの思い出

ルーマニア地図

『ルーマニアという国』 

初めてルーマニアを訪れたのは、1976年5月の新緑が美しい頃だった。 東欧では5月から6月にかけて、スモモ・アンズ・桃・梨・りんごなど多くの果実の花が一斉に花開く。 この出張は化学繊維製造プラントの商談で、当時の東欧共産圏特有の煩雑な交渉が長引き、1977年8月まで7回もこの国を訪問することになった。 

ルーマニア(Romania)は「ローマ人の国」を意味する。 2世紀の始めにローマ帝国のトラヤヌス帝がこの地に進出して以降、ドナウ川以北ではローマ帝国唯一の属州となった。 その後ローマ人の植民地化が始まり、原住民のダキア人との混血によってローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となったと言われている。 

ルーマニアは、鰈(カレイ)が黒海から西に向かって上陸したような形をしている。 現在に至るまでの2000年の長きにわたり、周囲をスラブ系・マジャール(ハンガリー)系・トルコ系などの国々に囲まれていたにもかかわらず、言語・文化・人々の性格・顔立ちに至るまでラテン系民族の特性を保持しており、ほとんど周囲の国々に同化されていないのは不思議である。 むしろこの国の人たちの多くは、「世界で本当のローマ帝国の子孫はイタリア人ではなく、我々ルーマニア人である。」という誇りを持っているようで、そのような言葉を幾度も耳にした。 

ルーマニア語はロマンス語に属する言語で、現在においても単語の80%はラテン語起源であると言われている。 会話を聞いていると、響きがどことなくイタリア語に似ているような気がする。 例えば「おはよう」は「ブナ・ディミネアーツァ」(Buna dimineata)、「こんにちは」は「ブナ・ズィア」(Buna ziua)、「こんばんは」「ブナ・セアラ」(Buna seara)、「ありがとう」は「ムルトゥメスク」(Multumesc)、「はい」は「だ」(Da)、「いいえ」は「ヌー」(Nu)、「さようなら」は「ラレヴェデーレ」(La revedere)など、滞在中に覚えた僅かな単語の中にもイタリア語に似ている言葉が多い。 「はい」の「だ」(Da)だけは、スラブ語からきているようだ。  

『ルーマニアにおける仕事の進め方』 

当時の東欧共産圏の商談は、どこもよく似たような手続きと手順に従って商談を進めることになっていた。 先ず担当の公団から引合書が発行され、その内容に基づきプロポーザルを提出、先方がその内容を吟味した上で、興味があれば具体的な打合せを進めるために現地に呼ばれることになる。 私が担当していた産業機械の分野においては、日本以外のプラントメーカは独自のルートで直接相手先と交渉するところもあったが、日本のメーカの多くは現地に駐在員事務所を持つ大手商社を通じて商談に臨んでいた。 

私の勤務していた会社(機械メーカ)も、同系列の商社であるM商事を窓口として客先と折衝を進めた。 この商談は、ルーマニアの既設工場に最新技術に基づいた化学繊維とセロファンの製造ラインを増設するものであった。 何れの製品も原料は木材から作られるパルプであるため、相手先の公団は「フォレキシム」(FOREXIM)という名称の「森林公団」であった。 この公団は契約とファイナンスを担当し、別に「イプロキム」(IPROCHIM)という技術公団(インスティテュート(INSTITUTE)と呼ばれる研究機関)があり、そこから担当技術者が派遣されて初期の打合せに参加し、プラントの技術契約書の調印までを担当した。 

これらの公団は、ルーマニアに限らず他の東欧諸国も首都に本拠を構えており、先ずはここと折衝することになる。 最初はエンドユーザーである工場側の技術者は誰も打ち合わせに参加しないため、最終的に工場側と技術仕様を確認する段階で、インスティテュートとの考え方の相違が表面化して、一旦調印済みの技術契約書(本契約書に添付する技術書類)を改定することになり、その調整に苦労したことが幾度かあった。 当時の共産圏の商談では、このような無駄と思われる手続きや風習が数多く見られた。 

『プロトコールは受付係』 

M商事の駐在員事務所は、ルーマニアの首都ブカレストのホテル・インターコンティネンタルの二部屋を借り切って使っていた。 出張したときの宿舎も同じホテルだったので非常に便利であった。 M商事の駐在員は所長のSさんとAさんの2名で、他に運転手と秘書兼タイピストが2名いた。 この事務所は多くの商談を抱えており、全ての商談に駐在員がアテンドすることは不可能であったため、商談の初期段階では、私の勤務先の本社営業のKさんと2人で公団に出向くことが多かった。 

事前のアポイントメントの時刻に公団を訪問し、プロトコールと呼ばれる窓口の若い男性に訪問を告げると、愛想の良い笑顔で予約ノートにチェックマークを入れ、「少し待ってください。」と言う。 30分ほど待っても、この男性はただにこにこしているだけで何も言ってこない。 「もう30分も待っているのだけれど、後どれほどかかるのか。」と聞くと、「会議室が一杯なのでもう少し待ってください。」と言う。 こんな調子で1時間や2時間は普通で、午前9時の約束が午後2時になったり、「今日は事務所を閉める時刻になったので、一旦帰って明日出直してほしい。 明日は必ず会議室を取るから9時に来てください。」と言われたことすらあった。 それ以来、公団を訪問するときは本を持参することに決めた。 単行本1冊なら充分読めるほどの時間待たされる。 

手土産が有効であることをAさんから聞いて、その後訪問するときはアメリカンブランドのタバコを渡すことにしたら効果てきめんであった。 この国ではケントのロングサイズが特に人気があった。 標準サイズでも悪くはなかったが、ロングサイズに比べると相手の対応に歴然たる差があった。 最初1箱渡したら、プロトコールのお兄さんは大喜びで、すぐに会議室に通された。 Aさんから「1箱はもったいない。 2・3本で充分。」と言われたので、それ以降は2・3本渡すことにした。 それでも嬉しそうに受け取った。 

プロトコール(Protocol)とは、日本語では「規定」「議定書」「儀典」などと訳されているが、辞書によれば「複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順等について定めたもの。」とある。 ここでは、実行するための手順はタバコの本数で決めているようであった。 

『ルーマニアの音楽』 

ナイ(パンパイプ)

ホテル・インターコンティネンタルの部屋を一歩出ると、館内には「ナイ」という民族楽器で演奏される音楽が終日流れている。 「ナイ」はパンパイプ(panpipes)の一種で、竹や葦等のパイプが音階順に並べられているだけの、極めてシンプルな構造である。 各管の底は閉じられており、ちょうど万年筆のキャップやビールビンを吹くと音が出るのと全く同じ仕組みである。 

ハーモニカは吹く音と吸う音があるのに比べて、この楽器は当然のことながら吹くだけである。 またピアノやハーモニカは左から右に低い音から高い音に並んでいるが、パンパイプはこの逆で右が低く左に行くにしたがって高くなるのがユニークである。 基本的にはG管であるため、転調したり半音を出す場合は、楽器に吹き込む息の角度を自分で調節して音程を作らねばならないので、この楽器を本格的に演奏するのは至難の業であろう。 「ナイ」で演奏されるほとんどの曲は、最初はゆっくりした速さで始まるが、曲が進むにつれて次第に速くなり終曲は目が回るような速さになって終わる。 事実、速い演奏を聴いていると、神業としか言いようが無い。 音質は爽やかで、フルートと同様倍音成分が少ないためか、長時間聴いていても疲れず心地よい。 

ルーマニアで普通演奏されるときは、「ナイ」単独よりも伴奏にツァンバル(Tsambal)という打弦楽器(ハンガリーではチェンバロムと呼ばれる)が用いられることが多く、歌が付いている曲も多い。 ギリシア神話の「パーン」に由来してパンパイプと呼ばれるようになったという。 また「ナイ」(Nai)という呼び名は、ルーマニア語の「葦」から来ているそうである。 

レストランにて

レストランに行くと、ロマ(ジプシー)の楽団が席に近づいてきて曲を演奏する。 チップの額に応じて何曲も演奏してくれる。 ロマ人は旧ユーゴスラヴィアやハンガリーにも多く見られたが、ルーマニアに最も多く住んでいるらしい。 ロマ音楽の特徴として、テンポや強弱が激しく変化し奔放なアドリブの修飾が加わる。 特にヴァイオリンなどで、グリッサンド奏法(音高を一音一音区切ることなく、音を続けて滑らせるように上げ下げする演奏)が多用されるため、個人的には多少軽薄な印象を受ける。 

ルーマニアの音楽からは少し脱線するが、ハンガリーではロマの音楽の影響が強く、チャールダーシュと呼ばれる舞曲がハンガリーのロマを代表する音楽として広く親しまれている。 リストの「ハンガリー狂詩曲」やブラームスの「ハンガリー舞曲」などのように、クラシック音楽に取り入れられている例も見られる。 ハンガリー人は虐げられた民族に対しても偏見を持つことなく、心の広い民族なのかもしれない。 

『黒海の砂は白かった』 

M商事のAさんの奥さんが、「地中海クラブ」という国際バカンスクラブの会員だった。 夏の休日に黒海沿岸のコンスタンツァ(ルーマニア最大の港町)に近いリゾートで、バーベキューパーティーがあり参加した。 AさんのアルファロメオにはAさんのご家族が、本社のKさんと私は所長のSさんが運転する、発売されたばかりの三菱シグマに乗せていただいた。 

ブカレストからコンスタンツァまで約200キロ、このあたりは山岳地帯の多いルーマニアの中でも平坦な土地が広がっており、ほとんどは麦・とうもろこし・ジャガイモ・ひまわりなどを栽培する農地が続く。 農業国ルーマニアの穀倉地帯であろう。 真直ぐなポプラ並木の、片側一車線の道路である。 農業用トラクターや馬車も同じ道を走るので、時速100キロが限界である。 ルーマニアの雀(すずめ)は太っていて動作が鈍いため、車との衝突事故が頻繁に起きる。 車の方は「コツン」というだけで被害はない。 

バーベキュー大会は、海岸の砂浜にテントを張って行わた。 ブカレストのホテルでは肉料理が主体なので、久しぶりに新鮮な魚介類を味わった。 近くには真っ白な砂浜が広がっており、早速水着に着替えて海水浴を楽しんだ。 出張するときはホテルのプールでも泳げるので、私は常に水泳パンツを携行していたが、Kさんは持っていなかった。 リゾートとは言え、当時は付近に水着を売る店も見当たらなかったので、Kさんは穿いていたジーパンをはさみでカットして水泳パンツ代わりにした。 彼は後にこれを元通りに修復して、ジーパンとして使っていた。 

黒海の水は塩水ではあるが、日本の周りの海ほど塩辛くない。 帰国後海の塩分濃度を調べてみると、太平洋などが平均3.5%に対して黒海の塩分濃度はかなり低く、表面が1.7%・深部は2.2〜2.3%という2層構造で、水面下150〜200メートルでは酸素ゼロで硫化水素が溶存する恐ろしい海であることを知って驚いた。 

ホテルで1泊し翌日ブカレストに帰った。 このリゾートはコンスタンツァの近くにあったことは間違いないが、明確な地名は覚えていない。 

『カラス天狗のような工場長』 

客先の工場は、ブカレストからコンスタンツァに向かう道路の途中からダニューブ川沿いに北に100キロほど行ったところにあるブレイラという町にあった。 スフとセロファンを生産する既設の工場は、スイス製とチェコ製の古い機械を使っていたが、想像していたよりも丁寧にメンテナンスが行われており、順調に運転され生産を続けているように見えた。 尤も、当時の東欧諸国では、訪問者のあるときは従業員一同示し合わせてそのように振舞うことがしばしば見られたので、必ずしも100パーセント信頼したわけではなかった。 

工場見学の後、「アントネスク」という名前の工場長以下、30名ほどのエンジニアが各部門から集められて打ち合わせが行われた。 工場長は鳥のように尖った鼻の大柄な人物で、先ずルーマニアの経済について、農業生産・鉱工業生産など具体的な数値を上げて説明を始めた。 Kさんと私は、それ以来この人のことを「カラス天狗」と呼ぶことにした。 各部門のエンジニアによる既設設備の詳細説明の後、我々のテクニカルプロポーザル(技術提案書)の内容の説明に移った。 

『美人の通訳』 

私の人形
コレクションより

通訳はブカレストの公団「フォレキシム」から派遣されていた。 この打合せに先立って、公団側から通訳についての問い合わせがあり、英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語など数種類のオプションの中から選択できるようになっていた。 私は「英語=ルーマニア語」の通訳を指定した。 当時の東欧共産圏諸国の通訳は、大学で語学を専攻し通訳試験に合格した優秀な人材が採用されており、若くて美人の女性が多かった。 

通訳の仕方は大別して二種類あり、一つは私が話す英語の内容を一旦通訳が理解した後でルーマニア語に訳すやり方と、もう一つは私の話が一段落しないうちから同時通訳するやり方の二通りである。 私の経験では、前者の通訳が圧倒的に多かったように思う。 何故なら化学繊維製造に関する技術説明や打ち合わせには、難解な専門用語が頻繁に使われるため、同時通訳では通訳する側としても訳し難かったのではないかと思う。 

先ず私が英語で話し、その中で通訳が翻訳できない専門用語があれば私に質問、その内容を私が化学式やスケッチを書いて通訳に説明、それを通訳がルーマニア語で工場のエンジニアに話すという手順を取った。 最初は時間がかかったが、打ち合わせが進むにつれて、通訳が専門用語を覚え、私のたどたどしい英語が流麗なルーマニア語に翻訳されるようになった。 通訳の話すルーマニア語が的確かどうかを判断するのは難しいが、客先のエンジニアの中にも英語の専門用語を理解する人たちがおり、彼らの反応や返ってくる質問の内容によって通訳の誤訳や見当違いを見極めることができた。 

その後何回かの打ち合わせにも、公団は同じ通訳を派遣してくれたので助かった。 打ち合わせの回を重ねると、客先エンジニアから同じ質問をされることがあるが、そんな時通訳は「あの人、前回と同じ質問をしています。 パルプの積み込みはオペレータが行う必要がありますが、計量器の運転は全て自動制御されるので、ブザーが鳴ったらオペレータは単にパルプを機械に積み込むだけでよかったですね。」と聞くので、「その通り。」と言うと、「そのように説明しておきます。」と言う具合になってきた。 当時の共産圏では、通訳は最も人気のある女性の職業の一つであり、難関を突破してきただけのことはあると、彼女達の能力の高さに納得した。 

『時差ぼけを解消する方法』 

ホテル
インターコンティネンタル

当時ルーマニアに出張するときは、羽田を日本時間の夜10時頃発ち、アンカレッジ経由西ヨーロッパの都市(フランクフルト・パリ・アムステルダムなど)に現地時間の翌日朝到着する。 空港で数時間待った後、たいていは昼過ぎの飛行機に乗り継いで午後4時頃にブカレストのオトペニ国際空港に到着する。 M商事から出迎えの車が来てくれることは初めてのときくらいで、ほとんどの場合空港でタクシーを拾い、市内のホテル・インターコンティネンタルに着くのは6時過ぎになる。 

M商事のSさんとAさんはお二人ともマージャンが大好きで、Kさんと私が到着するのを事務所で待っていてくださる。 Aさんが「夕食に鳥料理でも食べに行こう。」と誘ってくださるが、所長のSさんは少々つまらなそうな顔をして、「外に出るのは面倒だから、ここでルームサービスを頼んで、食べながら卓を囲む方が良いんじゃない?」と言う。 先にも書いたように、M商事の事務所のあるホテルに我々の部屋もあるので、眠くなったら部屋に帰って眠ればよいから便利だ。 「部屋に入って無理に眠ろうとしても、絶対に眠れるものではないから、数時間卓を囲んで1時か2時頃部屋に帰ればすぐに眠れる。 時差ぼけ解消にはそうするのが一番だ。」とSさんが言う。 Sさんは特にマージャンがお好きなようだった。 Kさんも私も嫌いな方ではなかったので、すぐにゲームが始まる。 ここのマージャンのルールは特別で、「ヤキトリ」とか「カニ」とかいろんな役が沢山付いて最低でも満貫になり、倍満・三倍満はざらである。 

ルームサービスで「ビーフストロガノフ・ライス添え」を注文し、ビールを飲みながら夜更けまでマージャンを楽しんだ。 「ビーフストロガノフ」はロシア料理の定番で、牛肉と野菜とマッシュルームのシチューにサワークリームがかけてあり、カレーライスと同じように皿を片手にスプーンで食べられるので、マージャンを打ちながらの食事にはぴったりである。 深夜2時ごろになると、さすがに疲れが出てきて眠気を催し、メンバーの誰かが欠伸をするとゲームを終了する。 SさんとAさんは自宅まで車で帰らねばならないので大変だ。 

『モーニングコールは当てにならない』 

ベッドに入る前には、必ずモーニングコールを頼む。 ホテルのフロントに電話をかけて、起こしてもらう時刻を伝えると、フロントの担当者がノートに書き込み、夜勤のメンバーに引継ぐというのが当時のシステムだった。 ドイツやスイスなどでは、予約時刻の3分前には必ず電話があったが、イタリアなどではプラスマイナス10分ほどの誤差があった。 ルーマニアでは誤差どころではなく、全く忘れ去られてしまうことがあった。 早朝汽車で工場に向かうため、Kさんも私も同じ時刻にモーニングコールを頼んでおいたにもかかわらず、どちらの部屋にもコールは無く、汽車の出発時刻に間に合わなかった。 急遽タクシーを手配して工場に向かったが、打ち合わせ開始時刻からは1時間ほど遅れてしまった。 季節は1月でブカレストに大雪が降ったため、朝の列車ダイヤは大きく乱れたとタクシーの運転手から聞き、それを遅刻の理由にして、時刻に正確な日本人の面目を辛うじて保つことができた。 それ以来ホテルのモーニングコールは信用せず、目覚まし時計を持参することにした。  

『スパゲティー・ナチュール』 

客先との打合せが終わると、その日の交渉の結果に基づいて技術契約書の内容を修正する必要がある。 当時はワープロなどと言う便利な道具はなかったので、修正するページをタイプで打ち直すか、或いはハサミで切り取ってテキストの継ぎ接ぎをしなければならなかった。 事務所専属のタイピストは常に多忙を極めており、折衝途中の技術書類の訂正など依頼できる雰囲気ではなかった。 幸いタイピストは午後5時には帰宅するので、その後はタイプライターを自由に使うことができた。 おかげで電動タイプの操作にも慣れ、パソコン時代の今もキーボードに抵抗感を抱くことなく適応している。 

このように滞在中はほとんど毎日宿題があったので、夕食は事務所でルームサービスを取ることが多かった。 数少ないメニューに飽きてくると、あっさりした日本風の食事が恋しくなる。 特にKさんは洋食ばかりで食傷気味だった。 そんなときは「即席うどん」を注文した。 ルームサービスに電話し、「スパゲティーをアル・デンテに茹でて、ソースをかけないこと。 それにコンソメスープ。 薬味に唐辛子とパセリ。 以上を4人前。」と注文する。 最初は注文の受付係が内容を充分理解できずに、確認のため事務所までやって来た。 怪訝な顔をして、「本当にソースは全く要らないのですか。 オリーブ油もかけないのですね。」と念を押すので、「そう、茹でただけのスパゲティー。」 「スパゲティー・ナチュール!」と言うと、ようやく理解したようだったが、「どうしてそんなものを食えるのかな?」と言う顔をして出て行った。 ホテルのコンソメは比較的あっさりした味だったので、スパゲティーを入れてパセリと唐辛子を振り掛けるとうどんのような味がした。 その後は「スパゲティー・ナチュールとコンソメ!」と言うだけで、オーダーできるようになった。 

『文化宮殿のナイトクラブ』 

文化宮殿

ソ連がルーマニア人民に贈ったと言う、通称「文化宮殿」と呼ばれるスターリン様式の巨大な建物がブカレストの中心部に建っていた。 スターリン様式とは、ヨシフ・スターリン政権時代のソ連で多く建てられた建築様式の一つである。 例えばモスクワ大学に代表される左右対称形で中央に尖塔のある建物で、ロシア国内はもとより旧ソ連の衛星国であった東独のベルリン・ポーランドのワルシャワなど東欧諸国に見られたが、ハンガリーのブダペストに建てられなかったのは幸いである。 他にも北京や平壌にもよく似た建物があるという。 威圧感があり非芸術的で、私の最も嫌いな建築様式である。 

フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博に合わせてエッフェル塔が建設されたが、「女の一生」を書いたモーパッサンは「エッフェル塔は大嫌い!」と言いながら、エッフェル塔内の一階にあるレストランにしばしば通ったという。 「なぜ嫌いなエッフェル塔で食事をするの?」という質問に、「パリでエッフェル塔を見なくてすむ場所はここしか無いから!」と答えたというエピソードがある。 

文化宮殿地下のナイトクラブ

ここブカレストにもまたポーランドのワルシャワにも、このエピソードをもじって「この街は文化宮殿からの眺めが一番美しい。 なぜなら文化宮殿が見えないから。」というジョークが流行っていた。 建物の形が気に入らないというよりは、大嫌いなソ連からの贈り物だからという皮肉が込められていたように思う。 

ブカレストもワルシャワも、この文化宮殿の地階にはナイトクラブがあり、夜になると大盛況で、パリのリドやムーランルージュのようなフレンチカンカンに始まり、酒を飲み軽食をとりながら各種のショウを楽しむことができた。 かぶりつきで見ていると、踊り子のストッキングに電線が走っているのが見えた。 日本のナイロン製のパンストを土産に持ってきてあげたい気持ちになる。 ブカレストでは、深夜0時を過ぎる頃からストリップショウが始まり、最終ショウは照明の明るさが落とされ全裸の踊りで終演となった。 

『ブカレストは東欧のパリ』 

ブカレストの凱旋門

当時のブカレストの街は、メンテナンスが行き届いておらず建物は暖房の煤でくすんでいて、あまり美しいとは言えなかったが、歴史的な建物が数多く残されており、「東欧の小パリ」(或いは「バルカンの小パリ」)と呼ばれるだけのことはあって、磨けば光る街だと思った。 中でも「凱旋門」・「アテネ音楽堂」・ルーマニア正教の「クレツレスク教会」・ギリシャ正教の「大主教教会」・「ブカレスト大学」などは印象に残っている。 

世界で2番目に大きな建造物と言われている「国民の館」(1番目はアメリカの国防総省ペンタゴン)は、もちろん当時はまだ建設されていなかった。 1983年に着工し、チャウシェスク大統領が処刑された1989年にようやく70%の完成率だったと言われている。 現在ほぼ完成と言う触れ込みで、豪華な装飾のホールや廊下など建物の一部は有料で観光客に公開されているが、部屋数が3,000以上もあるため管理ができず、ほとんどの部屋は放置されているとの話である。 

『レストランと酒』 

街にはレストランも数多くあり、鳥料理やサルマーレと呼ばれるキャベツの酢漬けでひき肉を巻いて煮込んだロールキャベツに似た料理や、羊の肉のシチューは私の口に合った。 ハンガリー料理である「グヤーシュ」の専門レストランもあった。 食前酒は「ツイカ」(旧ユーゴスラヴィアでは「シュリヴォヴィッツァ」或いは「ラキヤ」・ハンガリーでは「パリンカ」)と呼ばれるアルコール度40〜50度のプラム酒が食欲をそそった。 ワインも他の東欧諸国同様美味しかった。 

『ドルショップ』 

共産圏でありながら、通貨はアメリカドルが最も珍重された。 ホテルにもドルショップがあり、国内製品でも品質の良いものはドルでしか買うことができなかった。 ロングサイズのケントも、高かったがこのドルショップで買うことができた。 USドルとルーマニアレイ(Lei)の為替レートは、正式レート以外に闇レートがあり、2倍から3倍も交換率が良かった。 街の普通の店でドルを使って買い物をしたら、支払ったドルの正式交換レートの2倍以上ものお釣りがきたと言う話を聞いたことがある。 私のような出張者にとっては、ルーマニアの通貨を持っていなくても全く不便はなかった。 

『りんごの木の下で』 

ルーマニアは農業国で、ブカレストから少し郊外に出ると大農場の他にも小さな個人経営の果樹園や野菜畑が点在していた。 Aさんの奥さんの紹介で、リンゴ園に案内していただいた。 小さな小屋があって、丸太作りのベッドが置いてあり、簡単な調理ができるようになっていた。 戸外の朽ちかけた木造りのテーブルを囲んで、ツイカやワインを飲みながら手作りの料理を楽しんだ。 食後の果物は、生っているりんごをもいで食べる。 小さくて見た目は悪いが、酸味があって歯ごたえがある。 啄木が橘智恵子に恋をした頃のりんごを想像する。 今の日本のりんごは歯ごたえがなく甘すぎるので、私の中にあるりんごのイメージからは程遠い。 

『ローマ人の子孫は目がいい?』 

ルーマニアでは車のライトを明るくするのを極端に嫌う。 ハイビームは以ての外、ロービームでも街灯のある町の中でライトを点灯すると、対向車にパッシングライトで注意を受ける。 通常はフォグランプなどの補助ランプだけで走る車が多い。 ローマ人の子孫は視力が良いのかも知れないと思う。 ハンガリーは隣国なのにこれとは正反対で、昼間から前照灯をハイビームにして走っている車をよく見かけた。 

『ブカレストの地震』 

ブカレストの地震 旧ユーゴの地震

ルーマニアは地震国で、約30年周期で地震が発生しており、震源は常にブカレスト近郊のカルパチア山脈であるため、いつも被害は首都ブカレストに集中しているとのことである。 ちょうど私が頻繁にブカレストを訪問していた頃の、1977年3月4日にマグニチュード7.5の地震が発生し、約1,600人(内ブカレスト市内1,400人)の死者を出した。 地震前後の訪問は、1977年1月と4月であったため幸い被災からは免れた。 

地震国と言われながら、コンクリート造りの建物にも鉄筋があまり入っておらず、低層の建物はレンガ造りが多いため被害は想像以上に大きかった。 古い石造りの歴史的な建物よりも、ソ連の衛星国になってからの建造物の被害が多いように見受けられた。 壊れ方は私が旧ユーゴスラヴィアで経験した地震のとき見たものと酷似していた。 工場はブカレストからは遠く、この地震の影響を受けることは全く無かった。 

『チャウシェスクの影』 

私がルーマニアを訪問していた頃も、チャウシェスクの影を感じることがしばしばあった。 客先工場のあるブレイラとう言う街のホテルに泊まったときのことである。 例えばルームサービスを頼むと、必ず2名1組で料理を運んでくる。 ビール1本頼んでも2名が来る。 洗濯物の集配も必ず2名1組でやって来る。 自由圏から来た外国人と接触するときは、互いに監視し合うことによって、むしろ国民の側が当局からあらぬ疑いをかけられるのを回避しているようにも見えた。 ブカレストのインターコンティネンタルホテルのように、外国資本のホテルではこのようなことは見られなかった。 

『チャウシェスクの時代』 

第二次世界大戦中、ルーマニアはナチス・ドイツと共に枢軸国として参戦し、戦後はソ連の衛星国家として社会主義政権となった。 1965年にルーマニア共産党書記長にニコラエ・チャウシェスクが就任、ソ連とは一線を画した独自路線を打ち出し、「偉大なるローマ帝国の末裔」を旗印に権力を掌握していった。 

1971年に中国・北朝鮮・旧北ベトナムを訪問したチャウシェスクは、それらの国々の強硬な共産主義体制の影響を受けた。 中でも金日成のチュチェ思想の影響を強く受け、北朝鮮の政治体制を模倣し始めた。 

私がこの国を訪れたのは、その数年後の1976年で、大洪水や地震など相次ぐ自然災害に見舞われた頃であったが、経済的には辛うじて成長を維持していた。 1980年代に入ると貿易赤字が拡大し対外債務が急増する中で、黒海・ドナウ運河建設など大型プロジェクトを強引に推し進めた。 その中の一つが、ブカレスト市内に建設された「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿である。 

それらは強制収容所の政治犯たちの労働力と、食糧や暖房用燃料にもこと欠く国民の窮乏生活の上に成り立っていた。 一方兵力確保の目的で、避妊は禁止され多産が奨励される法律が制定された。 またチャウシェスクの家族・親族30人以上が党や国家の要職を独占し、「王朝」と呼ばれるほどの権勢を欲しいままにした。 

政権後期にはソ連のスターリン政権を凌ぐ恐怖政治(秘密警察による国民生活の徹底的な監視・盗聴など)が行われ、チャウシェスクへの個人崇拝と国家主義を国民は強いられ、国民の福祉と人権は無視された。 国民の生活は飢えと寒さで東欧でも最低のレベルにまで転落した。 こうした一般庶民の生活を無視した政治姿勢に国民は失望し、チャウシェスクの人気も次第に低下していった。 

1989年12月16日にティミショアラで勃発した反政府デモに対して政府は武力弾圧を行い、多数の犠牲者を出した。 この事件がきっかけとなり、その後まもなく勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、同年12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を64,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、学校の教室に机を並べた形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下した。 直ちに夫妻は両手を背中で縛られ、建物の外に連行されて銃殺隊により処刑された。 

チャウシェスク大統領夫妻の処刑の様子はビデオで撮影され、日本を含む西側諸国で直ちに放映された。 翌12月26日、ルーマニア国内でも処刑の様子が公開された。 裁判の様子から死刑判決を下される夫妻、そして銃殺から処刑後の死体の様子までを克明に撮影・公開したのは、ヒトラーのように後になってから生存説を唱えられる可能性を排除するためであったという。 

チャウシェスクは、皮肉にも処刑13日後の1990年1月7日にルーマニアで死刑が廃止されるのを待たずに、同国で死刑となった最後の人物となった。 死刑執行人の1人は後に、「あれは裁判ではなく、革命を遂行する中での政治的暗殺であった」と述べている。 

『チャウシェスク時代への郷愁』 

チャウシェスク大統領が処刑されたルーマニア革命から20年余り、現在のルーマニアは深刻な経済不振に喘いでおり、かつての独裁者チャウシェスクを「良き指導者」と再評価する人が世論調査で約半数を占めるという。 

元大統領夫妻が眠るブカレスト郊外の共同墓地に、元大統領が存命なら93歳の誕生日に当たる2011年1月26日、零下10℃の寒さの中を50人以上が墓標の前で祈りを捧げている様子が日本の新聞にも出ていた。 

一方当時を知る人の中には、「若者が独裁者に憧れるような世の中は間違っている。 その責任を現在の政治家は重く受け止めるべきだ。」と言う声もあるようだ。 これは現在の日本にとっても他人事ではない。

 山のしづく   思いつくまま   このページ
 ホームページに戻る       目次に戻る           はじめに戻る