山のしづく
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思いつくまま
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私の宝物

中学2年の始めから3年の1学期が終るまでの約1年半弱、私の家族は、水力発電所建設工事の仕事をしていた父の都合で、奥飛騨の富山県境に近い岐阜県吉城郡坂下村(現在飛騨市宮川町)に住んだ。 この辺りは、東に漆山岳(1,393m)、北に大高山(1,100m)・唐堀山(1,160m)、西に白木峰(1,586m)、南に蕎麦角山(1,222m)・高山(1,337m)・スキー場で有名な流葉山(1,423m)・大洞山(1,349m)などの、高山ではないが小高い多くの山々に囲まれた盆地で、全国有数の豪雪地帯である。 

村の中央を宮川が流れ、多くの支流が宮川に流れ込んでおり、川に沿って高山線と360号線(注1)が走っている。 高山から富山に至るメインルートは国道41号線で、山を隔てた神岡町を通っているので、当時村では工事用トラックの他は、車はほとんど見かけることが無かった。 冬は雪のため道路は使えず、国鉄高山線が唯一の交通手段であった。 

村には打保・杉原という高山線の駅が2つあり、私の家は打保の駅の直ぐ近くにあった。 父が勤めていた建設会社が農地を借りて、一時的に建てた社宅に住んでいた。 学校は2つの駅のほぼ中間の、村のほぼ中央にあったため、約2.5キロの道のりを徒歩または自転車で通学した。 

学校は小学校と中学校が共通の校舎だった。 私の転入した中学2年のクラスは、男子20名・女子18名・合計38名の小さなクラスで、担任は家庭科担当の女性の大下先生(注2)だった。 父が勤務していた会社の同僚の息子さんのTT君とは同学年で、一緒に転入したため、転校生としての寂しさは全く無く、直ぐに友達ができた。 先生方も皆親切で、図工担当の森下先生は「困ったことがあればなんでも相談するように。」と時折声をかけてくださった。 その優しい笑顔は今も忘れていない。 

ある日の休み時間に、教室の2階の窓から外を見ながら友達と話をしていると、窓のレールの端が浮き上がっているのに気付いた。 真っ直ぐに直そうと力を加えると、釘で止めてある部分でぽっきり折れてしまった。 10センチほどの長さだったので、その部分にレールが無くても、窓が外れることは無いだろうと思い、折れた部分を窓から外に捨ててしまった。 次の授業は私の苦手な国語だった。 教科書を朗読しながら教室を回っていた先生は、何気なく窓に目をやり、運悪くレールの一部が無いことに気付いた。 

「校舎は税金で作られており、大切に使わなければならない。 このレールは自然に折れることはない。 誰かが故意に折ったに違いない。 しかも折れたレールの下は白木の生地が残っているので、折れてからそう長くは経っていないはずだ。 折った者は誰か名乗り出るように。」と我々生徒たちに厳しく問い質した。 岡田先生という、口ひげを生やした頭髪の薄い国語の先生で、私の最も苦手な先生だった。 

手を上げて私がやったことを名乗り出たが、先生のあまりの剣幕に丁寧な説明をする余裕は無かった。 「折ったレールは何処に捨てたか。」と追求され、「窓から捨てた。」と正直に答えたところ、「誰かに当ったら怪我をするではないか。」と更に叱責を受けた。 

岡田先生はこの話を職員会議にかけたらしく、他の何人かの先生からも注意を受けた。 担任の大下先生からは、その日の放課後裁縫室に呼び出され、正座をさせられ懇々と説教を受けた。 大下先生のホームグラウンドは裁縫室で、悪戯をするとよくそこに呼び出された。 「このクラスに、このようなことをする生徒がいるのは本当に悲しい。」と、涙を浮かべながらの1時間にもわたる説教は苦痛であった。 結局担任の大下先生にも本当の理由は解って貰えずに、畳に手をついて謝った。 

二・三日後、図工の時間が終わった後、森下先生がいつものようなにこやかな笑顔で、「なぜレールを折って捨てたりしたのか話してくれないか。」と私に尋ねてくださった。 そこでようやく私は、レールは最初から曲がっていたこと。 そのままでは窓が閉まらないので、真っ直ぐにするために力を加えたら折れてしまったこと。 折れたレールは使えないので、窓から捨てたことを正直に話した。 すると先生は「そうか、そうか、そんなことだろうと思っていたよ。 レールは捨てずに、本当のことを最初から話せばよかったな。」とおっしゃり、私も多少気が晴れた。 

私は絵を描くのが下手で全く自信が無かったが、森下先生は良いところをさがして褒めてくださり、構図のとり方や写生の仕方などを丁寧に教えてくださった。 当時は珍しかったカラー刷りの名画の本を見せていただき、世界には色々な種類の絵画があることを初めて知った。 絵を描くことは上達しなかったが、それ以来現在に至るまで、美術館や展覧会などで絵を見ることが大好きになった。 

この学校は農業の授業に力を入れており、田植え・野菜作り・山の草刈・家畜の飼育などを授業に取り入れていた。 これらの作業を共同で行うとき、今思うとなぜか不思議なほど私は明良(注3)とコンビを組んだ。 学校のトイレから下肥を桶に汲み、生徒二人が天秤棒の両端を肩に担いで畑まで運ぶのである。 そのような時いつも彼が前を担ぎ私が後ろを担いだ。 彼はわざと天秤棒を揺らして肥が飛び散るような悪戯をして私を嫌がらせたが、桶の位置を前にずらして私の肩にかかる負担を軽くしてくれた。 

休日の家畜当番も、彼と一緒に学校に行き山羊に餌を与え乳搾りをした。 私は乳搾りなどできなかったので、餌運びを手伝うくらいで仕事の大半は彼がやってくれた。 彼の家族には病人がいたらしく、山羊の乳をビンに詰めて持ち帰るのを喜んでいた。 

学校では運動が盛んで、狭いグランドでサッカー・野球・陸上などのクラブ活動が行われた。 クラブ活動の他にも、野球やソフトボールの学年対抗試合が行われた。 3年生との野球の試合では、3年生の投手の投げるカーブを初めて経験し、最初は全く打てなかったのを記憶している。 

3年生は柔道もやっていたようだ。 ある日の放課後3年生が、一人は柔道で、もう一人はボクシングで試合をしているのを見た。 結局柔道の方が寝技に持ち込み、ボクシングに「参った」を言わせ勝ちを収めた。 柔道で戦った先輩のYさんに、私は尊敬の念を抱いていた。 スポーツ万能で優しさも兼ね備えていた。 ある日の朝、自転車がパンクしているのに気付き、走って学校へ急いでいると、後ろからYさんが自転車でやって来て、「乗れよ!」と言って私を学校まで乗せて行ってくれたことを思い出す。 

当時私は、マーク・トゥウェインの「トム・ソーヤーの冒険」、同じく「ハックルベリー・フィンの冒険」、ダニエル・デフォーの「ロビンソン漂流記」などの冒険小説に夢中になっていた。 雪国の学校は床が高く作られており、床下は中学生でも中腰で歩けるほどの高さだった。 校舎の床下を住処として、頭蓋骨に“X”のマークを旗印とした海賊の真似事をして遊んだ。 実際に盗みをしたり同級生から金品を巻き上げたりしたわけではなく、川原で拾った綺麗な石など、珍しいものを宝と称して住処に持ち込んだ。 このような幼稚な遊びに興味を持って仲間になってくれた友人は少なく、AS君やTK君(注4)など付き合ってくれた友達には今も感謝している。 明良は大抵のことには付き合ってくれたが、この遊びの仲間には加わらず冷めた目で見ていた。 彼は私などよりもずっと大人だったに違いない。 

社会科と英語は銅島先生、数学と理科は南先生だった。 私は当時世界の切手を集めており、国名がわからない切手があると銅島先生にお願いして調べていただいた。 嫌な顔一つせず、丁寧に教えてくださった。 私は南先生の数学と理科の時間が一番好きだった。 お二人とも若くて熱心な先生だった。 

ある日の理科の時間に男子に作業が割り当てられ、その時間女子だけは理科の授業を受けたことがあった。 農繁期で人手が足りず、砂場の手入れなど学校の整備にまで村人たちの手が廻らないとき、生徒が自らその任に当るためである。 小中学校なので、そのような時は中学2年生が指名されることが多かった。 女子の手には負えない力仕事なので、男子だけということになったのは合理的である。 ところが、当時の私は多分反抗期であったと思われ、自分の普段の生活態度などは省みず、直ぐに反抗したくなったようで、次の理科のテストは白紙で出すことに決めた。 友達にも声をかけたが、AS君以外には賛成してくれる人はいなかった。 そのことが母に知られ、「自分が正しいと思うのなら、友達を誘ったりしないで自分一人でおやりなさい。」と諭された。 20歳になる頃まで、母からはこのようにポイントを押さえられることが時々あったので、ずっと母には頭が上がらなかった。 南先生に恨みがあったわけでは決して無かったが、私は計画通り実行した。 

雨天の昼休みは講堂で格闘技の真似事のような遊びをした。 遊びの名はあったのか無かったのか記憶に無いが、レスリングのように相手を床にねじ伏せ「参った」と言うまで戦う遊びである。 体格が大きいわけではないが、柔軟な体の持主のYT君という友達がいた。 彼は講堂(体育館)の端から端まで逆立ちで歩けたし、跳び箱や鉄棒なども抜群の上手さだった。 彼とはよくこの格闘技遊びをした。 常に私が負けるのであるが、「やるか!」と彼から挑戦を受けると私も受けて立った。 責められるときは非常に苦しく、今にも腕や足が折れるのではないかと思うほどであり、現在では危険な遊びの中に入るのであろうが、当時の子供たちは手加減を心得ており、相手に骨折をさせたり関節をひねったりさせることはなかった。 いつも私は「参った。」と言い彼が攻めを中断して「どうだ!」と言う顔を見せた。 「今度こそやっつけてやるぞ!」とは思っても、喧嘩ではないので相手を憎むことは全くなかった。 

喧嘩は全くしなかったかと言えば、そんなことはない。 何人かの友達と殴り合いの喧嘩をしたが、原因は多分大したことではなかったので直ぐに忘れてしまい、仲直りも早かった。 

YT君との格闘技には一度は勝ちたいと思い、どうしたら勝てるようになるか明良に練習相手になってもらった。 放課後学校の廊下で格闘の練習を始めた。 皆が見ており本当の喧嘩だと思ったらしい。 1学年下の同じ社宅に住んでいた女の子が急いで家に帰り、「明良と喧嘩をしている」と私の母に告げた。 仲のよい明良君と喧嘩などするはずはないと思った母も、急いで学校の方に向かってくる路上で、笑いながら帰ってくる私たち二人を見て安心したと言う。 

日用品は村の商店で買うことができたが、月に1度は母と連れ立って高山か富山に買い物に出かけた。 高山まで1時間弱、富山までは1時間と少しかかった。 富山では新鮮な魚が買えたので、富山に出ることが多かった。 

春は母や弟と一緒に野や山に山菜採りに出かけた。 宮川に合流する小さな支流が幾本もあって、沢に沿って上流に進むと落差数メートルほどの滝があった。 毎日のように山に入って遊ぶこともあった。 夏は家の近くの川原に毎日泳ぎに行った。 私は潜ることが苦手だったが、弟はイワナやヤマメなどの魚を取ってきた。 

工事現場で働く人たちのために、時々露天の映写会が開催された。 美空ひばりの若い頃の映画を見た覚えがある。 秋になると運動会があり、私もクラスの選手としてリレーなどに参加した。 学校の運動会とは別に村民運動会も開催され、大人たちに混じって部落対抗の競技を楽しんだ。 私は自転車の遅乗り競争が得意で、バランスをとりながらほとんど停止したままの状態を保つことができたので、大勢の大人たちを相手に勝ち抜きの末優勝した。 

中学2年の秋頃から私は軽い結核性胸膜炎に罹ってしまった。 微熱が続いたため、富山の日赤病院で診察を受けレントゲンを撮った結果、肺に僅かに影ができていると診断された。 当時は一般的に肺浸潤と呼ばれていた。 薬を飲みながら通学は許可されたが、運動や作業は禁止されたため、体育の時間や農作業は見学しなければならず苦痛であった。 富山の病院まで通うのは大変だったため、富山県の笹津にある病院を紹介され、週に3日ほど学校を半日休み、母に連れられて注射を打ちに通った。 私の住む打保から富山に向かって4つ目の国鉄の笹津駅まで約30分、病院は駅の直ぐ傍にあった。 個人病院で院長が診てくださった。 院長の趣味は裸婦の絵画の収集で、待合室にも大きな裸婦の絵が飾ってあった。 これを見て母は「待合室に飾るのはあまり良い趣味ではないわね。」と言っていた。 

高山線の打保から笹津までには、16個ものトンネルがあった。 同じ村の杉原までに2個、杉原から県境を越え富山県側の猪谷までの間に大小9個、更に笹津までの間に5個のトンネルがあった。 長いトンネルが多かったので、トンネルに入っている時間の方が長いように感じられた。 当時は勿論蒸気機関車だったので、窓を閉めていても煙が車内に侵入してきて石炭のにおいがした。 懐かしい匂いだ。 私の病も雪が降り始める頃には治ってしまったようだ。 

冬になると雪が一晩のうちに1メートルも積もった。 社宅の家と家との間隔は数メートルしかなかったため、屋根の雪降ろしをすると通路が欄間窓と同じほどの高さになり、歩いている人の足が見えた。 玄関から通路へは雪の階段を昇り降りする。 勿論、一冬中雨戸は閉めたままである。 時々富山に買い物に出かけ肉や魚などを買って来ると、母は雨戸を開けて雪の壁に穴を掘り冷凍庫代わりに使っていた。 部屋はストーブを焚いているため暖かく、以前住んでいた木曽ほど寒くはなかった。 明良とAS君はよく私の家に遊びに来て、トランプなどのゲームをして遊んだ。 

高山線の線路と360号線の道路を渡ったところにスキー場があり、冬はスキーヤーで賑わっていた。 家から毎日のようにスキーを履いたまま滑りに出かけた。 スキーの板は弟と共用しており、また一シーズン限りだったので上達はしなかった。 村の友達は、男子も女子も皆スキーの達人に見えた。 当時はリフトなど無かったので、自力で歩いて登らねばならなかった。 新雪が降ると、村の若者たちが山頂まで雪を踏み固めてコース作りをした。 私もシーズンの終わる頃には、頂上まで上り、転倒しながらも麓まで滑ってくることができるようになった。 

雪が多いときは、通学路が雪崩によって遮断されてしまうことがあった。 村人たちがその上に道をつけて子供たちを通した。 家のあった打保から学校までの間に、高山線のトンネルが1つと鉄橋が2つあった。 通学路はこれらのトンネルと鉄橋を迂回していたので、鉄道の線路を歩くのが最短距離になる。 生徒たちは厳禁されていたが、先生の中には線路を歩く人もいた。 明良に「トンネルを通ったことはあるか。」と聞くと、「何度も通った。 鉄橋も渡った。」と言った。 「じゃあ明日一緒に行くか。」と言うと、「平日はだめだ。 皆に見られるからな。 次の日曜日にしようぜ。 汽車の時刻を調べておく。」と明良は言った。 「わかった。」と、冒険の約束がまとまった。 私には大冒険であったが、明良にはちょっとしたことだったに違いない。 

家の玄関前:
後列左から弟・明良・愛犬エス・筆者

次の日曜日、明良が家に迎えに来た。 母には勿論内緒である。 打保駅から杉原に向かって500メートルほどのところに、42号トンネルの入り口がある。 富山行きの列車が通った後、しばらくの間煙が消えるのを待ってトンネルに入った。 次の高山方面行きが来るまでにトンネルを抜ける予定だ。 トンネル内には50メートルほどの間隔で、人が退避する横穴が掘ってある。 「万一汽車が来る音が聞こえたら、近くの横穴まで走ってそこで列車の通過を待てばよい。」と明良は私を安心させてくれる。 トンネルの長さは約800メートルなので、ゆっくり歩いても10分あれば抜けられると思っていたが、時間は一向に進まない。 このトンネルは緩やかにカーブしているので、中央部分は両端の入り口が全く見えなくなり、真っ暗闇になる部分がしばらく続く。 私は明良の腕にしっかり掴まり、枕木伝いに暗闇を進んだ。 やがてもう一方の出口の明かりが見え、次第に大きくなり私も元気を取り戻した。 

次は鉄橋だ。 2本の線路の中央に、路線点検用に人が歩くために設けられた幅40センチほどの板が枕木の上に並べてある。 それ以外には何も遮るものは無く、宮川の清流が目に入ってくる。 多分2・30メートルの高さだ。 「こちらはトンネルよりも怖いな。」と思いながら、明良の腰のベルトを後ろから握り締めて歩く。 彼はベルトなどではなく、紐かロープのようなものを腰に巻いていたように思う。 鉄橋にも、ある間隔で退避用のプラットフォームが設けられており、列車が来たときはそこで待つことができるようになっていた。 「冬はラッセル車が、羽に付いた雪を落とすために、鉄橋では羽をいっぱいに広げて走るぞ!」と言って、明良は私の恐怖心を煽る。 学校の近くまで行き、帰りはもうこりごりと思いながら、トンネルと鉄橋を迂回していつもの通学路を帰った。 

明良とはサッカーもやったことが記憶に残っている。 いつも敵のチームにおり、二人が同時に蹴ってボールを潰してしまったことがある。 当時学校にはサッカーボールは無く、もっと柔らかいボールだったと思う。 彼は運動会でも、800メートルや1500メートルなどの長距離競争が得意だった。 冬のスキーの長距離競争(クロスカントリースキー競技)も村の青年たちと一緒に走るのを、私は応援しながら憧憬の眼差しで見ていた。 

3年生になるとクラスの担任が野村先生に替わった。 野村先生は職業科の担当で、納豆の作り方を学んだ。 蒸した大豆を稲藁で包んで納豆菌を付着させ、目張りをしてホルマリンで内部を消毒した部屋に温度を上げて幾日か寝かせる。 手作りの納豆をおかずにして食べた弁当の、何とも言えない美味しさが忘れられない。 野村先生からは稲の育て方や野菜の栽培方法など、様々な農作業の方法を学んだ。 このような農村地域では、職業科は最も重要な実用的な授業であったと思う。 

2年生のときお世話になった銅島先生と南先生が転出され、数学の澤田先生・理科の室橋先生・国語の面手先生・社会の金武先生など、新任の先生方が着任された。 皆さん運動がお好きで、放課後生徒たちと一緒に校庭で色々なスポーツを楽しんでおられた。 私は陸上競技部に入り、短距離・走り高跳び・走り幅跳び・三段跳びなどを、顧問の澤田先生から教えていただいた。 澤田先生は、同じ学校の小学校の女性教師に恋をしていた様子だった。 陸上競技用のスパイクを買ってもらい、毎日練習に励んだ。 校庭が狭く100メートルの直線コースが取れなかったため、70メートルほどを走って100メートルに換算して記録をつけた。 短距離はTK君と競い合った。 100メートルの換算記録が13秒弱で、TK君の方が私より少し早かったように思う。 

走り高跳びはSN君と一緒に練習した。 高飛びは着地が砂場だったので、正面跳びか挟み跳びに限られ、ベリーロールや背面跳びはできなかった。 それまで二人とも130センチが限度であったが、ある日突然SN君が150センチを跳んだ。 急いで澤田先生に報告し、県の大会に出られないか聞いたことを思い出す。 この記録は素晴らしく、しかもスパイクを履かずに裸足で跳んだ記録だった。 私も追いつこうと努力したが、130センチを越えることはできなかった。 彼は杉原に住んでおり、家は離れていたがよく気が合う仲だった。 修学旅行の写真にはいつも隣同士で写っている。 

中学3年の1学期、5月か6月頃に修学旅行があり奈良と京都に行った。 当時は高山線の普通列車で岐阜まで5時間か6時間、片道だけで1日がかりの旅だ。 行きは夜行列車に乗った覚えがある。 奈良は東大寺の大仏殿や法隆寺などを回った気がするが、記念写真が残っていない。 最近AS君が、猿沢の池に行った覚えはあると言っていた。 京都は観光バスで、平安神宮・三十三間堂・南禅寺などを観光した覚えがある。 祇園の近くに泊まったので、夜は友達と一緒に繁華街を散歩し家族に土産を買った。 

クラスには「気になる女子生徒」が何人かいた。 女子のソフトボールの試合ではいつも投手で、相手の打球を素手で掴む運動神経抜群のAさんとは、放課後講堂(体育館)でよく卓球をした。 どちらもミスをせず、長いラリーをいつまでも続けるのが楽しかった。 多分真剣に試合をすれば、彼女の方が強かったと思う。 同じ打保に住んでいたので、帰り道は話し声が聞こえるほどの距離をおいて歩いた。 スキーも上手だったので、彼女の滑降に見とれていたこともあった。 

Bさんは実家が製材所だったので、断面が3角形の走り高跳び用のバーを、木材から切り出してもらい、何本も学校に持ってきてくれた。 失敗ジャンプでよくバーを折るのは私だった。 ホームルームの時間に、故意に彼女とは反対の意見を言って議論を仕掛けた覚えがある。 図工の時間に使う版画用の朴の木の板を、彼女の家の製材所に貰いに行ったこともあった。 

理科が得意なCさんは物静かでおとなしい性格だと思っていたが、理科の時間は溌剌として先生の質問に常に的確な答えをしていた。 私も理科が好きだったので、彼女の能力のレベルがわかった。 話をしてみたかったが何となく近寄り難く、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。 

ある日の体育の時間に、男子はサッカー、女子はバレーボールかドッジボールをしていた。 私はサッカーをしながら遠くからDさんを見ていると、突然ボールの上に乗って転倒してしまった。 しばらく時間が経っても起き上がらず、やがて先生方が担架に乗せて校舎に入っていくのを見ていた。 保健室を覗きに行くわけにも行かず、その日は彼女についてのニュースは何も無かった。 翌日はいつものように元気な顔を見ることができたので、「心配していたよ。」と声をかけたかったが、結局何も言えなかった。 後に聞いた話によれば、軽い脳震盪を起こしたということだった。 

修学旅行には、男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服に長めの白のスカーフを蝶結びにした制服を着て行った。 ただ一人Eさんは、ベルト付きのピンクのワンピースでやって来たので、出発前に集合したときから目立っていた。 彼女は当時からファッショナブルだったのかもしれない。 

他にも、笑顔が素敵でえくぼが可愛いいFさんや、目がパッチリして背が高くスタイルのよいGさん、いつも明るく場を盛り上げるHさんのこともよく覚えている。 彼女たちの「気になる男子生徒」の中に私が入っていたかどうかは、今となっては知る由もない。 

ある日の授業中、「昨日水あめを積んだトラックが、打保谷の南の方で崖から落ちたそうだ。 行ってみるか。」と明良が私に囁いた。 私は即座に「行こう。」と返事をした。 彼はこのような情報を何処で仕入れるのか不思議だった。 放課後急いで家に帰りかばんを置いた後、明良を自転車の後ろに乗せて目的地に向かった。 彼も正確な場所を知っているわけではないので、道路沿いに川原を眺めながら走ると、トラックが横転してブリキの一斗缶(18リットル缶)が周囲に散乱しているのが見えた。 「あれだ!」と明良は言った。 

川原に降りる道を探して現場にたどり着くと、蓋が開き水あめが流れ出している缶が見つかった。 二人でたらふくご馳走になった後、1缶持って帰れないか相談したが、自転車は二人乗りなので無理なことがわかり、水筒か空き缶などの容器を持参しなかったことを後悔した。 明良はかぶっていた帽子を脱ぎ、水あめを詰めはじめたので私も彼に倣った。 2つの帽子を明良が持ち、自転車をゆっくり走らせて家に戻った。 家に着く頃には、帽子の中の水あめは半分ほどに減っていた。 自転車は水あめでベトベトになっており、掃除が大変だった。 

明良と遊ぶときはいつも、私がトム・ソーヤーで彼がハックルベリー・フィンのつもりでいたが、彼から見れば私のことを頼りないトム・ソーヤーだと思っていたに違いない。 再会して昔の話をしたかったが、私が同級会に最初に出席したときには、彼は既に天国に行ってしまっていた。 実に残念である。 

送別記念:右端が野村先生・前列中央白いシャツが筆者

3年の1学期が終わりに近づくと、また別れのときがやってきた。 社会科担任の金武先生が、私のために送別記念写真を撮ってくださった。 当時カメラを持っていた人は少なく、私にくださったのは名刺大の小さな写真であるが大切な記念品である。 

転校する日が決まると、担任の野村先生が1本の無地の綿布を準備し、「松下君への激励の言葉を書いて送り出そう。」とクラスの皆に呼びかけてくださった。 中央には先生自ら「桃李不言下自成蹊」(注5)と書いてくださった。 先生の座右の銘であったに違いないと今にして思う。 この意味を理解したのはずっと後になってからのことで、私の人生を省みるとき、この言葉からはあまりにもかけ離れているので、先生に対して恥ずかしい気がする。 先生とクラスの仲間たちの激励の言葉が書かれた布地は、56年余りを経た今では茶色に変色してしまっているが、私の人生の折々に励ましとなり宝物となった。 

慣れ親しんだ先生方と友人たち、懐かしい風景と住みなれた土地に別れを告げるのは、小学校6年で長野県の木曽を離れたときと、中学1年の終わりに京都府の八木町を離れたときに次いで今回が3度目である。 6月23日早朝は霧が出ていた。 霧は秋の季語であるが、この地方では宮川の清流の影響で四季を問わず霧が発生する。 友人たちが打保の駅に見送りに来てくれた。 汽車はゆっくりとホームを離れた。 涙が溢れてきた。 

私の宝物

後日談

名古屋の会社に勤めていた頃、富山県の黒部市に顧客の工場があり、打ち合わせのために幾度か出張したことがある。 私は常に高山線経由で行くので、「北陸線経由の方が便利なのに、松下さんはなぜ高山線で行くの?」と同行者たちから問われたものだ。 ほんの一瞬ではあるが、打保から42号トンネルを抜け、鉄橋を渡り、学校の校舎とホームランを打った校庭が見えるからだった。 

私は坂下中学校3年の1学期を終えたところで転校したので、この学校の同級会には参加していなかった。 転校後も幾人かの先生方や友人たちと文通をしていたが、いつの間にか疎遠になってしまっていた。 昭和56年(1981年)1月、この地方は豪雪のため高山線が不通となり、しばらくのあいだ陸の孤島と化したことがあった。 当時のクラスメートのIY君がリーダーとなり、急病人を村から古川の病院まで、雪の中をそりで送り届けたというニュースを新聞で読んだ。 早速彼に連絡をとり、それがきっかけとなり次回の同級会への出席に繋がった。 IY君はその後、この村の村長となって活躍した。 

2年後のお盆に杉原で行われた第6回同級会で、30年ぶりに皆に会うことができた。 その夜は、最も仲の良かった友達の一人であるAS君と同室になり、明け方まで昔の話に花を咲かせた。 明良が若くして亡くなってしまっていたのは、非常に悲しく残念であった。 

同級会はその後も回を重ね、今回(平成21年10月26日)で第14回目になる。 最初に出席した第6回(昭和58年8月14日)以来、病気の治療のため欠席した第12回を除き毎回出席している。 小中学校を通じ9年間をこの学校で学んだ皆と比べて、私は僅か1年半弱を一緒に過ごしただけの、言わば行きずりの人間であるにもかかわらず、分け隔てなく暖かく仲間に加えてくれる級友たちにいつも感謝している。 

一昨年・平成19年(2007年)の同級会は地元の杉原で開かれ、「杉原やな」で鮎の串焼きを腹いっぱい食べさせてもらった。 油が乗っていて、これほど美味しい鮎は今まで食べたことが無かった。 当時も鮎は獲れたのであろうが、鮎を食べた記憶は無い。 

野村先生の短歌

平成11年(1999年)5月29日、還暦を祝って第9回同級会が杉原「飛騨まんが王国」で開催された。 このとき中学3年担任の野村先生は89歳になっておられたが、大変お元気で同級会に出席された。 2年前の平成9年には、勲五等瑞宝章を受章されたとのことだった。 先生は以前から「みやがわ短歌会」に席を置かれて短歌に親しんでおられ、平成元年に傘寿記念の第一歌集「峡に生きて」を出版され、更にその10年後に卆寿記念として第二歌集「残照」を出版された。 出席者一同は、印刷したばかりの第二歌集をこのとき先生からいただいた。 

歌集は平成元年から10年までの作品が、暦日の順に編集されており、先生の日々の暮らしのご様子が、凝縮された日記のように歌に詠まれている。 この歌集には、先生がほぼ80歳から90歳までの10年間の作品が収録されているわけであるが、80代後半になられても、自然と人間及びあらゆる事象に対する好奇心を全く失っておられず、特に奥様の介護を通じて、奥様をはじめ周囲の人たちに対する温かい思いやりが伝わってきて、その精神性と肉体的な健康を維持しておられたことに驚嘆するとともに感動を覚える。 

私の好きな歌

朝霧の山裾深く立ち篭めて けふは晴れらし荏の実おとさむ (平成元年)

山椒の実を摘みつつふと思ふ この木を植し妻若かりき (平成3年)

雪消えし畑をひさびさ見廻れば 山鳩の声のどかに聞こゆ (平成4年)

この夏を逃せば再び無からむと 飛騨巡礼の旅に加はる (平成4年)

つくづくと移りゆく世を思ひをり 峡に湧き出でし温泉(ゆ)に浸りつつ (平成5年)

老いの身にきびしかりし授戒会の 終れば寺苑に秋の陽の射す (平成5年)

地にしゃがみ庭に草とる老い妻の 哀れとも見ゆ健気とも見ゆ (平成6年)

足を病む妻を残して入院す 転ぶなかれと言葉を後に (平成6年)

胃カメラは蛇身となりて ぐいぐいとわが喉ふかく潜りゆくなり (平成6年)

所得税の申告期限が迫りきて ひび切れし手に算盤はじく (平成7年)

痩せこけし妻を世話する看護婦の 若き脚線わが目を奪ふ (平成10年)

香ばしき御手洗団子が匂いくる 介護を終へて帰る街角 (平成10年)

北枕に寝ねし姿をいとほしみ 冷えし手足をしばし撫でやる (平成10年)

幾そたび荒き言葉を浴びせたり 仏前に坐し妻に詫びる (平成10年)

亡き妻と旅せし記憶がよみがへり 能登金剛をなつかしみ過ぐ (平成10年)

夫婦箸ならぶ輪島の朝の店 一膳あがなひ切なくなりぬ (平成10年)

卆寿過ぎし我に古希喜寿の若きらが 白寿目指せとこもごもに云ふ (平成11年) 

旅行を詠まれた歌

バッグ提げ機外に出づれば 南国の熱気はあたかも蒸し風呂のごとし (平成元年)

 (シンガポール・マレーシア・タイ旅行)

泥にほふチャオプライ川を巡り行けば 貧しき民家両岸につづく (平成元年)

 (シンガポール・マレーシア・タイ旅行)

中国の老人クラブを覗き見れば 勝負の遊びに熱中しており (平成2年)

 (中国上海・杭州・西安へ旅行) 

時代を表現された歌

幾日も避難に耐へる 雲仙の疲れし人らをテレビは映す (平成3年)

バルセロナに競泳記録を塗り替へし 十四歳のあどけなき顔 (平成4年)

多難なりし天保の世に似るといふ 平成5年は今日去りてゆく (平成5年)

完璧の高速道路と誇りしも 激震の前に無力をさらす (平成7年)

東海一と長さを誇る アーチ型宮川新大橋ダム湖跨ぎたり (平成8年)

土井さんの宇宙遊泳の時迫り 固唾を呑みてテレビに見入る (平成9年)

期待せし長野五輪の日本勢 団体ジャンプ遂に金賞 (平成10年) 

 

注1.     当時この道路が360号線と呼ばれていたかどうかは定かでない。

注2.     先生方のお名前は実名を使わせていただいた。

注3.     山口明良君。 当時は互いに「明良」「三千男」と名前を呼び捨てで呼び合っていたので、それに倣ってここでも「明良」と呼ぶことにする。 彼は既に天国に行ってしまったので、実名を使わせてもらった。

注4.     友人同士は男女とも、「君」や「さん」は付けずに、苗字ではなく名前を呼び合うことが多かったが、ここでは男子は「君」、女子は「さん」を付けて呼ぶことにした。

注5.     「桃李不言下自成蹊」
「桃李言わざれども、自ずから蹊(小道)を成す」とは、桃や李は口をきいて人を招くことはしないが、良い花や実があるので人々が集まって来て、結果として自然に小道ができるという意味。 出典は『史記』李将軍伝賛。
より具体的には、「徳のある人は自分から人を集め呼び込みをするわけではないが、自らを厳しく律することで、その人柄に惹かれた人々がついて来て、その結果としてたくさんの人が集まる」という意味である。

挿絵を提供してくださった同級生に感謝します。


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