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前立腺がん治療顛末記

2004年9月上旬、前立腺がんが日本で増えているという新聞記事を読んだ。 2003年の前立腺がんによる死者は約8,400人で、男性がん死亡の4.5%を占める。 欧米の約20%と比べれば少ないが、死亡率は年々上昇しているという。 血液中に現れる前立腺特異抗原(PSA)の値を血液検査によって簡単に調べることができるので、50歳を超えたら定期的に検査をした方が良いと書かれていた。 

私には持病があり、掛かり付けのR内科で定期的に診断を受けている。 次の採血のときに相談すると「簡単にできるよ」とおっしゃり、1本余分にPSA検査のための採血をしてくださった。 それから3日後、R内科から呼び出しがあり、PSAの値が13.5ng/ml(血液1ミリリットル中ナノグラムで表す。 ナノは10億分の1)であったと告げられた。 PSAの値は前立腺に炎症を起こしていたりする場合も高い値が出ることがあるので、念のため再検査をするよう勧められ再度採血をした。 

1週間後の10月8日、再検査の結果を聞きにR内科に出向いた。 PSAの値は17.0で、精密検査の必要があると診断された。 泌尿器科のある近隣の病院・春日井市民病院宛紹介状を書いていただくことになった。 

この日から、アメリカと日本全国の主な病院における前立腺がんの治療法に関する調査を始めた。 このような時、インターネットは本当に便利である。 それまで私には、前立腺は生殖に関係がある臓器という程度の知見しか無く、長年世話になりながらどのような機能を持った臓器なのかほとんど知らなかった。 前立腺の構造・機能・前立腺がんの発生と特異性・症状・診断方法・病期(ステージ)・治療方法・適用例と副作用・治癒率と生存率などについて、一通りの知識を短期間に学習した。 

PSAの値とがんの関係については、PSAの値がかなり高くても必ずがんだとは断定できないことなどが分かった。 大阪の北野病院の統計によれば、PSAの値とがんの検出率は下記のようなっている。 左のデータが2004年、右が最近2009年に同病院のウェブサイトに載っていた値である。 

PSA値に対するがん検出率(大阪・北野病院ウェブサイトのデータによる)
PSA値            がん検出率(2004年)                 がん検出率(2009年)
0−4                3%(29人中1人)                      10%(59人中6人)
4−10             26%(299人中77人)                30%(760人中229人)
10−20          43%(103人中44人)                50%(267人中133人)
20−100       76%(70人中53人)                  71%(157人中111人)
100以上        100%(47人中47人)               100%(68人中68人) 

上の表は同病院における長年の蓄積データ(調査を開始した年からの平均値)であり、この5年間でいずれのPSAの値についてもがん検出率が上昇しているので、例えば今年の検出率はここに示された従来からの単純平均値よりも高いことが予想される。 従来はPSAの値が4以下の場合は正常といわれてきたが、このデータから現在ではPSAが4以下でも安心はできないということが分かる。 但しPSAが4以下の人は、通常精密検査は受けないので、これら10%の人たちは何か他の要因から検査を受けたケースが多いと考えられるので、PSAが4以上のデータとは分けて考える必要があるかもしれない。 この時点で私も、約50%ほどの確立でがんが発生しているであろうと認識した。 

2004年10月13日、春日井市民病院・泌尿器科・N先生の診察を受ける。 直腸内前立腺触診(直腸内部から医者が指で前立腺に触れて診断する方法)並びに超音波検査(下腹部外部より)の結果、前立腺はふっくらと多少大きいが硬さも正常で痛みも無く、今日の検査結果から判断する限りでは非対称性や腫瘍は認められないとの診断であった。 

尿道が細くなると尿圧が上がり、前立腺内に尿が沁み込んで炎症を起こす可能性があり、そのためにPSAの値が高くなっていることも考えられるので、当面は前立腺肥大症による排尿障害治療薬(尿道を広げる薬)・ハルナール(Harnal 0.2mg)を服用してその後のPSAの動向を調べ、その結果を診た上で今後MRI(Magnetic Resonance Imaging 核磁気共鳴画像法)・針生検(詳細後述)等の検査の必要性並びに治療方針を決めることになった。 排尿困難などの自覚症状は全く無かったが、当日からハルナールの服用を始めた。 

2004年10月27日−10月30日、インドネシアの知人(フィルム製造会社の社長)からの依頼で、中国で製造中の機械部品の検査立会いのため、劉備玄徳の蜀の都・成都にあるメーカに個人的な出張をする。 この年の2月と7月に次いで3度目の成都訪問である。 7月に訪問したときは、街路樹の百日紅(さるすべり)の赤い花が綺麗だった。 街路樹に百日紅を植えるのは珍しいと思っていたが、私の住んでいる春日井市から名古屋空港(現在の県営空港)に行く道にも百日紅の街路樹があった。 もしがんが見つかったとしても、今後は最善の治療を受けるしか方法は無いので、仕事は従来どおり続けることに決めた。 

11月4日の採血の結果PSAの値は15.3で、ハルナールを3週間服用してもPSAの値はほとんど下がらないことが分かった。 前立腺がんは他のがんと比較して進行速度が遅いので、医師も非常に鷹揚に構えているような気がする。 

2004年11月10日−11月13日、今度はインドネシアに個人的出張。 出発前の11月10日早朝5時に、三日月と金星・木星がそろって東の空に見えた。 珍しいことらしい。 インドネシアはラマダン中。 

2004年11月29、MRIによる検査の結果異常なしとの診断。 即ちこの時点ではMRIで観察できるほどのがんは発見されなかった。 もしがんが発生しているとしても大きく進行していることは無いと想像され一安心する。 

2005年2月7日、PSA検査結果17.3で前回から下がっておらず。 

2005年2月14日−2月22日、インドネシアの知人の工場に新しいフィルム製造ラインの計画があり、又他の一社からはトラブルシューティングのため要請があり個人的出張。 出発は旧名古屋空港、帰国は開港したばかりの中部国際空港に到着。 便利でよい空港だ。 

経直腸針生検

2005年2月28日、数日前に感染症等各種血液検査を実施した上で、経直腸針生検を実施。 リクライニングシートを倒して足を上げた状態を保つように、特別に設計された専用の椅子に仰向きに寝て、超音波診断装置を直腸内に挿入して前立腺を観察しながら、その装置の下に取り付けられている18G(ゲージ)の細い針(バイオプシーガン)を前立腺に刺し前立腺の組織を採取する。 この操作は自動的に安全に且つ正確におこなわれると医師の説明があった。 私の場合も通常通り(各種情報通り)左右の前立腺から各3本ずつ計6本のサンプルを採取した。 この場所には神経が無いため麻酔はせずに行った。 「バチン!」という大きな音と共に瞬間的に採取されるが、お尻を鳥につつかれたような感触であまり良い気分ではない。 これを6回繰り返す。 直腸内は不潔なため、場合によっては前立腺の感染症(急性前立腺炎)が起こり高熱が出る可能性があるため、予防的に抗生物質の注射と抗菌剤の内服を数日間続けた。 私の場合は狭心症予防のためコメリアンという血液流動性を改善する薬を常用しているが、出血予防のため1週間ほど前から服用を中止した。 

2005年3月3日、針生検の結果を聴取する。
前立腺の左右各3箇所から組織のサンプルを採り顕微鏡で観察した結果、片側(左側)3ヶ所の中2ヶ所にがん組織が発見された。 病期(ステージ)は中分化のがんで、分類A1,A2,B1,B2,C,D1,D2の中のB1(進行度の低い方から3番目)に相当し、前立腺を左右に分けると、その片側に病変が限局している1.5cm以下のがんという定義に当てはまる。 

2005年3月11日、骨シンチグラムとCTの撮影をする。 前立腺がんは骨に転移しやすい特性があるため、アイソトープ(骨転移のある部分に集まる造影剤)を注射して2〜3時間後特殊なカメラで全身の骨を撮影する。 CT撮影はがん病巣の広がりを断層写真で確認する方法で、超音波画像よりもずっと鮮明に観察できるという。 特にがんのリンパ節への転移の診断に有効な方法であるという。 午前11時から午後18時までかかる。 

娘が、がんに関する2冊の本を買ってきてくれた。 1冊は「論より証拠のがん克服術」(中山武著・草思社)、もう1冊は「前立腺ガン」(ピーター・グリム著/青木学訳・実業之日本社)である。 

前者は「世間には医者から見離されても生存している人たちが大勢おり、自分の心と体質を改善して自分で治そうという決意が免疫力を高める」といったことが書かれている、いわば私を精神的に元気付けようとするための本である。 この本には、娘が私に読ませたいところに線が引いてあり、星印・3重丸・2重丸・1重丸・三角などのマークがつけてある。 50パーセント以上のページにマークが付いているので、優先順位をつけるのが大変だ。 幸いなことに私の場合は、精神的にもあまり深刻な状況ではなかったので、この本のお世話にはほとんどならずに済んだ。 

後者はアメリカ・シアトル前立腺研究センターの研究者や医師たちを中心に最近の成果をまとめ、これを日本の専門医と翻訳者が共同で訳した本であり、特に前立腺の患部に放射線の線源を直接埋め込むブラキセラピー(Brachytherapy/ Brachyとは短いという意味で、放射線源と照射目標との距離が短いことからこのように呼ばれ、日本では一般的に小線源療法と呼ばれている)について詳しく解説されている。 私がこの方法で治療することに決断したのは、この本から学んだことが大きく影響しており娘に感謝している。 普段は私の言うことなどにはあまり耳を傾けない娘であるが、このような時は頼もしいと思う。 

アメリカでは前立腺ガンによる死亡者数が減る傾向にあるにもかかわらず、日本では反対に急激な上昇を辿っている。 この原因は日本ではPSA検査の普及が遅れていることに加え、日本には放射線に関する極めて厳しい法律があるため、医療先進国の中ではブラキセラピー(小線源療法)の認可が著しく遅れ、この治療法が認可されたのはアメリカから遅れること15年の2003年7月であったと書かれている。 たまたま翻訳者に前立腺がんが発見され、東京慈恵会医科大学付属病院で2004年1月に自らブラキセラピーを受けている。 

2005年3月15日、骨シンチグラムとCTの検査結果を聴きに行く。 骨への転移は認められず、また骨盤内のリンパ節への転移も見られず異常なしという結果であった。 春日井市民病院の最終診断結果は下記の通り。
病名: 前立腺がん
病期(ステージ): B1中分化がん(限局している)
グリーソン値(グリーソンスコア): 3+3=6 

治療法の選択について、外科療法(根治的前立腺全摘術)・放射線療法・内分泌療法(ホルモン療法)・化学療法の4種類の方法があり、放射線療法の一種として最近日本でも行われるようになった小線源療法(通称ブラキセラピー)が、名古屋大学医学部付属病院(以下名大病院と略す)でも2005年2月から採用されたため、選択肢の一つとして考えられるとの説明を受けた。 私は即座にブラキセラピーを選択したい旨担当の医師にお願いした。 春日井市民病院の担当医師であるN先生が、たまたま名大病院から派遣されていたため、私がブラキセラピーを希望していることを、名大病院の元同僚の先生に電話で伝えて紹介状を書いてくださった。 PSAの値が10以下の場合は、ブラキセラピー一本で治療することができるが、私の場合は10以上(最大17.3)なので、ブラキセラピーと外照射との併用になるであろうと告げられた。 

2005年3月22日、名大病院初診。 春日井市民病院からの紹介状並びに借用したCT(4枚)・MRI(4枚)・骨シンチグラムR1(5枚)を名大病院に提出する。 ブラキセラピー説明書受領。 生体サンプル(患部から採取した組織の病理標本)も、春日井市民病院から借用してくるよう指示あり。 

2005年3月29日、PSA他治療開始前の血液検査採血(計5本)。 このときのPSAの値は16.4であった。 名大病院では採血後1時間で結果が出るのが良い。 病理標本を提出し、名大病院で再評価する。 小線源療法に関し下記の説明があった。 

名大病院における前立腺がんの小線源療法は、本年(2005年)2月から治療を開始したため、現在までの治療実績は3名で明日4人目の治療を行う予定。 しかしながら米国における実績は非常に多く、本院も米国の医術を吸収し大勢の医師(泌尿器科・放射線科)がグループで相談しながら治療に当るのでリスクは比較的小さい。
狭心症と不整脈があり痔の手術をしたことがあるが、治療には問題ないかとの私の質問に答えて、問題ないとの回答であった。 

2005年4月6日、国内F社のフィルム製造ライン増設のプロジェクトが始まる。 個人的な仕事ではあるが、昔のサラリーマン時代の仲間数名とのグループで仕事をさせてもらう約束になっていたため、この仕事も並行してお引き受けすることにした。 

2005年4月12日、病理標本の名大病院での再評価の結果も、春日井市民病院の評価と同様に下記の通りであった。
病名: 前立腺がん
病期(ステージ): B1中分化がん(名大ではT1cという分類をしている)
グリーソン値: 3+3=6

病院を替わっても同じ検査を受ける必要は無く、前の病院で検査したデータを使用してもらえるので、むしろ多くの専門家によって同じデータが検討され評価されるのは患者にとって大変ありがたい。 

2005年3月25日から9月25日までの6ヶ月間愛知万博が開催される。 家から比較的近いこともあり、回数入場券を購入して度々出かける。 一方仕事の方はF社のプロジェクトが本格化し、4月15日にはドイツの機械メーカとの打ち合わせに出席、その後は大垣の同社工場へ週2回ほどの割合で通い始める。 がんといっても自覚症状があるわけではなく体調は極めて良好なので、家でぼんやりしているよりは万博に出かけたり仕事に打ち込んだりしている方が遥かに健康的である。 

2005年4月20日、プラニング(マッピングと呼ばれる場合もある)を受ける。
プラニングは治療の本番と全く同じ設備を使って、事前に前立腺の全体を調べてどの位置に何本のシード(詳細後述)を埋め込むかを決め、担当する医師たちが治療方法などを検討する予行演習のようなものである。 尿道を通してカテーテルを膀胱に挿入して造影剤を注入し尿路造影(IVP)をおこない、経直腸エコー(超音波)を用いて前立腺と尿道の形態を三次元的に解析してコンピュータに取り込む。 このデータを基にヨウ素125シード線源(詳細後述)の配置及び使用線源数を決定する。 このシード線源は日本ではまだ製造されていないため、アメリカのメーカに発注して取り寄せるのだそうだ。 

たまたま同大学の医学部学生が十数名見学に訪れ、私のプラニングを見学した。 直前に担当医から見学のことを告げられ、嫌とも言えず了解したためよい見世物になってしまった。 膀胱にはカテーテルを、直腸にはエコープローブを挿入され、会陰部にはテンプレート(詳細後述)を当てられたまま、極めて不自然な姿勢で約2時間、数名の各科担当医が検討をおこなった。 麻酔はしていないので、かなり苦痛だった。 事前に調査した情報によれば、通常は15分から30分で終わるとのことであったが、私の場合はこのまま治療を進めるのが困難と判断されたため、検討時間が長くかかったのであろうと思われる。 

プラニングの結果、私の前立腺は容積が42cc〜44ccあり、線源を埋め込む時の針と直腸が干渉することが分かった。 又、この容積だと埋め込むための線源の数が120本程度必要になるという。 結論としては、治療を3ヶ月間ほど延期し、この間に内服と注射によるホルモン療法で容積を現状の70%程度(30cc)に小さくする。 直ちに女性ホルモン剤(オダイン錠・1日3回)を服用することになった。 当初の予定では、5月10日に入院する予定であったが、8月中旬まで延期することになった。 前立腺がんは進行が遅く、更にホルモン剤を服用してがんの成長を遅らせるので、この程度の期間の放置は全く問題にならない。 又予定通り治療をおこなった場合、名大病院がこの治療を始めてから5人目くらいになる予定であったが、3ヶ月延期されたために多分10番目以降になり、その間に医師の技量も上がるのでむしろ良かったと思った。 

2005年4月26日、採血の結果PSAは11.7まで下がる。 ホルモン剤服用の効果か。 ホルモン剤服用による肝機能への影響をチェックした結果問題なし。 第1回ホルモン注射(リューブリン)をする。 

2005年5月31日、PSAは2.82まで下がる。 ホルモン剤服用と注射の効果と思われる。 

2005年6月15日(水)〜6月18日(土)
インドネシア・スラバヤに個人的出張。 

2005年6月28日、PSAは0.256まで下がる。 ホルモン剤服用と注射の効果と思われる。 このままホルモン療法を続ければ、他の治療をしなくてもがんを抑えたままにできるのかもしれない。 もし私の年齢が80歳くらいであったなら、そのままホルモン療法を続けて寿命が尽きるのを待つ方法を選択したであろう。 本日からオダイン錠の服用を一日一回朝のみとする。 

2005年7月19日、ホルモン剤の服用を開始してからちょうど3ヶ月、前立腺の大きさを測定した結果32ccになっていることが分かった。 予定通りこれでほぼ当初の目標に到達、治療可能となった。 

2005年7月27日、入院前検査と入院説明を受ける。
入院に必要な一般検査として、胸部X線写真・心電図・血液・凝固系の検査をする。 血液検査は貧血・肝機能・腎機能の検査の他に感染症(肝炎・AIDS・梅毒)の有無を調べる項目も含まれる。 

入院中の筆者

2005年8月9日、午前中に入院。 放射線を扱う治療のため1日3万円の特別室に入ることを義務付けられる。 鶴舞公園に面した13階の部屋で、バス・トイレ・電動式リクライニングチェア完備の部屋である。 入院に先立ち、娘と孫が2人で3組の千羽鶴を折ってくれた。 そのうちの2組は大きな千代紙で折られ、1羽ずつ息で膨らませてあるので子供1人分くらいの嵩になる。 これらは家の居間と寝室に天井から吊り下げ、小さな折り紙で折られた3組目を病院に持参しベッドの脇に吊るした。 部屋を訪れる看護婦さんたちが、口々に「いいわね!」と微笑んでくれた。 

翌日の治療に備え除毛をし、シャワーを浴びる。 排出しやすい昼食と夕食を病院から支給される。 14時に繊維分の多い液状の下剤を服用する。 21時に再び、今度は錠剤の下剤を服用する。 21時以降は絶食となり水分を取ることも許されない。 

2005年8月10日、部屋の窓からは犬を連れて公園を散歩する近隣の人たちの姿が見える。 8時頃に、いつも診ていただいているY先生とは違う先生が診察に来られて、栄養補給のための点滴を受ける。 点滴の袋に書かれている100ml/h(1時間に100cc)の流量表示にもかかわらず、10分間で300ccも点滴液が減っているのに気付き、担当の看護婦さんに連絡して流量のコックを絞ってもらう。 10時頃看護婦さんが来て浣腸をする。 治療中にアクシデントが起きて、治療に支障をきたすのを防ぐ目的である。 下剤と浣腸が効いて幾度もトイレに行ったので、下半身を清潔にするためシャワーを浴びる。 点滴を受けながらの作業なので入院着を完全に脱ぐことはできず、片腕を通したまま胸の辺りまでたくし上げて点滴用のスタンドに掛け、かろうじて下半身だけシャワーを浴びることができた。 

その後術衣に着替え、弾性ストキング(静脈血栓予防のため)を着けて待つ。 点滴の流量を間違えた新しい先生に治療を受けるのではないかと心配していたところ、11時頃にいつものY先生が自らストレッチャーを押して来られ、「気分はどうですか。 さあ始めますよ。」言われたのですっかり安心した。 先ずレントゲンを撮った後麻酔科に行き、腰の上の脊髄から下半身麻酔をされる。 痛みは無いが麻酔薬が注入されるときは何とも言えぬ嫌な感触である。 麻酔薬注入後20分ほどで下半身の感覚が無くなる。 腰より上は正常なのに、太ももの辺りを抓ってみると感覚が全く無いのは不思議に思える。 

小線源療法(ブラキセラピー)

13時頃、多分鎮静剤と思われる注射をして治療室の手術台に寝かされ、麻酔が効いたことが確認されると両足を挙げひざを折り曲げて足首をブラキセラピー専用の治療装置にバンドで固定される。 点滴がおこなわれ血圧が常時測定される。 麻酔と鎮静剤が効いているため、ゆったりした気分になる。 時々看護婦さんが手を取って「気分は悪くありませんか?」と優しく訊ねてくれる。 プラニングのときと同じように尿道から膀胱までカテーテルを挿入され、造影剤が注入される。 直腸からは超音波プローブ(探触子)が挿入され、前立腺の画像がスクリーンに映し出される。 会陰部にテンプレートと呼ばれる8cm角の正方形で、厚さが2cmの盤に碁盤の目のように169個(13個X13列)の小さな穴の開いた板を押し当て、例えばEの6番には4個のシードが入ったニードルを刺入という具合に治療が進められる。 私の場合はプラニングの後、ホルモン療法で前立腺の体積を小さくした後、再度プラニングを受けていないので、約1時間ほどは各担当の医師が検討し(再プラニングに相当すると思われる)、14時30分ころになってようやく本番の治療が始まった。 途中で麻酔薬を追加注入される。 テンプレートの番地を指すと思われる「ラージAの2、2回クリック」、「了解」、「スモールbの3、1回クリック」、「了解」と言う確認の声が聞こえてくる。 「碁盤の目の番地なのになぜラージAとスモールaを使いわける必要があるのかなぁ?」と思いながら聞いていた。 モニター用スクリーンは治療を進める医師が見やすい位置、即ち私の頭の上部にあるため、頭を上にそらして上目遣いに見なければならない。 自分の身体にシードが埋め込まれて行くのを見るのは不思議なものである。 

ヨウ素125のシード
ヨウ素125のシード寸法
ヨウ素125のシードが埋め込まれた
前立腺のX線写真

放射線同位元素であるヨウ素125の半減期(元素の数が半分になる時間)は、60日であり、実質的にシードは5期の半減期の間有効であると考えられているので、300日で放射線の効果はほぼ消失する。 ヨウ素125のシード(Seed・種という意味)は直径0.8mmX長さ4.5mmのチタン製のカプセルに封入されており、それよりやや太い直径1mmほどのニードルに、プラニングのとき決定されたテンプレートの穴毎の埋め込み数量、例えば前述のEの6番用は4個、Fの7番用は3個といったように封入されたものをアメリカのメーカから購入するようである。 名大病院では実際にどのような形で購入しているのか(シードをバラで購入するのか、或いはニードルにマウントした形で購入するのか)については分からない。 

私の場合はニードル20本ほどの刺入で、シード線源51本を前立腺に埋め込んだ。 麻酔をしているのでもちろん痛みは全く無く、検討時間の1時間は含めず正味約2時間半で、17時頃治療は終了した。 プラニングよりも楽であった。 埋め込まれたシードは放射線の効果が消滅した後も永久に体内に残るが、チタンは関節などの人工骨にも使われているように人体が拒絶反応を起こすことは無いので何の危険性も無いという。 

下半身麻酔の場合は患者が動き回ったり頭を振ったりすると、ひどい頭痛が起きることがあるので、翌朝までの安静が必要になる。 治療後の会陰部にガーゼを貼り付けられ、排尿用のカテーテルを付け、静脈血栓予防用のストッキングを着用したままストレッチャーに乗せられて隔離病室(放射線に関する法律に基づき、13階の特別室とは別の、他の患者や家族が立ち入らない個室)に移され翌朝までこの部屋で安静を保つ。 隔離せねばならぬほど放射線の影響が本当に大きいのなら、医師や看護婦はなぜ問題が無いのか不思議に思う。 喉が渇き20時にお茶を飲む。 37.3℃の微熱があり、少し寒い。 血栓予防のため足にバイブレータをかけられる。 看護婦さんが時々見回りに来て、熱を測ったり脈を取ったりしながら「寒くはありませんか、頭痛はしませんか」などと聞いてくれる。 このように優しく看病されるのは、数十年前の小学生の頃母に看病されたとき以来のことだったので、その夜は久しぶりに母の夢を見た。 

2005年8月11日、早朝13階の特別室に移され朝食をとる。 腰が少し痛い。 室内を歩いてもかまわない。 8時頃Y先生の診察を受ける。 10時頃看護婦さんが迎えに来て、前立腺の具合やシードの状態を確認するためCT検査をする。 まだ排尿管を付けているので、排尿袋を点滴スタンドに吊るし、それを私が押して看護婦さんが後ろから車椅子を押して1階のCT撮影室まで出かける。 一般外来棟の人混みの中を相当なスピードで車椅子を押すので、私も点滴スタンドを倒さないように懸命だった。 子供の頃、雪道や氷の張った田んぼで箱ぞり(りんご箱くらいの木製の箱の底にそりを付けた幼児用の遊び道具)に乗せてもらい、近所のお転婆姉さんに押してもらって遊んだ快感が蘇った。 予約時間を守るために急いでいるものと思っていたが、帰りも同じようなスピードだったので、この看護婦さんは元来スピード狂なのだと思い、「貴女の車の運転は相当なものでしょうね。」と言うと、「それほどでもありませんよ。」と笑いながら答えた。 その後排尿管を抜き、ようやくすっきりした気分になった。 治療の跡は数ミリピッチで20本ほどの針を刺したにもかかわらず、痛みも無く傷跡も残っていないようだ。 シード線源が尿と一緒に出てくることがまれにあるので、しばらくの間尿は一旦尿瓶に採りガーゼで濾すように言われた。 

その日はベッドに横になったり、リクライニングチェアでテレビを見たりしてくつろいだ。 夕方、放射線科の医師から、退院後の生活についての説明を受けた。 身体に埋め込まれたヨウ素125シード線源の放射線は、ほとんど前立腺に吸収され周囲の人に与える放射線量は、人が自然界から受けている放射線量よりも低いことが分かっているが、念のために2−3ヶ月間は、妊婦や幼児からは2m以上離れていること。 治療後1年間は治療カードを常時所有すること。 治療後1年以内に死亡した場合は、前立腺を摘出する必要があることなどの注意を受けた。 アメリカなど一部の空港では、放射線の探知をおこなっているので、治療後1年以内に海外に出かけるときは英文の治療証明書を持参するよう勧められた。 空港の金属探知機には反応することは無かった。 

2005年8月12日、午前中に妻が迎えに来て退院する。 正味2日間の治療であった。 アメリカでは全摘手術に勝るとも劣らぬ好成績をあげ、現在では前立腺治療の主流となっている理由がよく分かった。 

2005年8月16日、春日井市民病院に借用していた写真その他を返却。 

2005年8月25日、名大病院放射線科で外照射治療を始める。
私の場合は、総処方線量150グレイ(吸収される放射線のエネルギーの総量)に対し、内から(ヨウ素125によるブラキセラピー)110グレイ、外から40グレイ(1日2グレイ x 20日)の治療をおこなうという。 

外照射治療計画(マーキング)をおこなう。
身体の様々な方向から、できる限り周辺の臓器への悪影響を最小限度に抑えて、前立腺に集中的に放射線を照射するために、X線装置のベッドに横になって身体の位置決めを行い、身体の各部位にペンでマークを付ける。 ちょうど機械の据付けの芯出しみたいなもであるが、人間は動くので精度はあまり良くない。 毎回このマークを基準に放射線をかけることになる。 この程度の精度で放射線が前立腺に正確に照射されるのか若干不安がある。 入浴のときに洗い落とさぬよう注意を受け、マークが薄くなると放射線技師が上からペンでなぞって濃くした。 

2005年8月29日(月)〜9月27日(火)
4週間にわたり毎週5日間、合計20回、X線による外照射治療をおこなう。 照射は毎日午前10時から、準備時間も入れて30分ほどで終わる。 

その後定期的(治療直後は1ヶ月毎、その後2ヶ月毎になり、現在は3ヶ月毎)に泌尿器科と放射線科の診察を受け現在に至る。 PSAの値は治療直後に0.05まで落ちたが、その後少し上がり4ヶ月目からは0.8から1.3の間に落ち着いている。 又、年に1度は身体全体のCT検査を受けている。 治療からほぼ4年間、現在までの経過は順調だと先生から言われている。 

今思えば、偶然に新聞の記事を見てPSAを調べる気になり、掛かり付けのR内科の先生にお世話になり、紹介していただいた春日井市民病院の泌尿器科でがんが発見され、更に紹介していただいた名大病院泌尿器科と放射線科で、日本では最新の治療を受けることができたことは大変幸運であった。 お世話になった先生方はじめ大勢の皆様方に対する感謝の気持ちで一杯である。


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