山のしづく
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TT先生の「山のしづく」評

『山のしづく』をご愛読いただいている皆様へ 

TT先生は市内の県立高校の校長先生を勇退された後、現在も大学で教鞭を執られる傍ら小学生の個人指導もなさっておられ、又FM放送で読書番組を担当されています。 今までに小学校・中学・高校・大学と、全ての学校教育に携わってこられたことになり、それが先生の念願でもあったそうです。 以前お宅に伺ったとき、本箱に入りきらないほどの蔵書があったのをお見受けして、先生は大変な読書家であることを知りました。 

先生と初めてお会いしたのは、15年前の平成6年に団地内の区長を務めたときでした。 このような経歴の持主でいらっしゃるにもかかわらず、区長会のメンバーの誰にも気軽に接し、時には飲み会やカラオケにもご一緒するようになりました。 先生の奥深い教養と、寛容で包容力のあるお人柄に、私は次第に惹きつけられるようになり、私の人生の記録であるホームページ『山のしづく』を読んでいただきたいと思いました。 

先生はパソコンをインターネットには接続しておられないことを知り、先生のご了解も得ぬままその一部(旅行記とエッセイ)を印刷してお宅にお届けしました。 それから2週間後、1600字詰めワープロ用紙10ページにも及ぶご感想にお手紙を添えて、拙宅まで届けてくださいました。 繰り返し読ませていただくうちに、先生の暖かなお心遣いが伝わってきました。 

その道のプロである先生からご覧になれば、私の文章など稚拙な考え方や粗雑な表現が多く見られたに違いありませんが、そのようなことは一切指摘なさらずに、好いところだけを取り上げて褒めていただいた一語一語に心が浮き立つ思いがしました。 しかしそれに有頂天になることなく、今後も幾らかでも成長できるように、また認知症の予防のためにも、人生の最後まで続けたいと思っていますので、『山のしづく』をご愛読いただいている皆様方もよろしくお付き合いください。 

ここに先生のご感想の全文を掲載しますので、皆様にもお読みいただければ幸いに存じます。 (以下全文引用) 

MMさん
 『山のしづく』ありがとうございました。
 私がメールのできないパソコン未習熟の<縄文人>であるため、MMさんに印刷、製本のお手間を取らせることになってしまいました。
 拝読して感服しました。 何から、どのようにお話しさせていただけばいいのでしょう。
 まずタイトルの『山のしづく』、万葉の相聞の歌が頭の中を行き交い、奥様との情愛の深さを感じて、しばらくは先へ進めませんでした。
 その後に続く「しづく」(注1)MM注1)「しずく」の文字遣いについて、お孫さんと交わすやりとりからも家族や家庭の温かさが伝わってきます。 

ブダペスト・くさり橋とマルギット橋
(ハンガリー)
ロマンティック街道・ディンケルスビュール
(ドイツ)

『ハンガリー旅の思い出』に始まる旅行記、楽しく読ませていただきました。
 滑らかに気持ちよく読むことができました。 <同じ箇所を読み直さないと内容が理解できない>ような文章はありませんでした。 余分な修飾語や過剰な表現のない、抑制のきいた文章だと思って読み進めていくと、<些かも「冗長で退屈な」ところは無く、全くよく考慮された、整った文章であることに、敬服しました>(「HSさんからの手紙」)に出会いました。 同じ思いの人がいたのでした。 
 ハンガリー訪問が10回にものぼるということに驚かされます。
 エルデーシュさんやカラスさんから受けた親切も、ワイン選びで<自分の出身地の銘柄が一番だ>と勧める友人との交流も、<勧めてくれるものは全て良かった>というMMさんの人柄によるのだと思います。 

『ドイツ・オーストリア・ハンガリー鉄道とバスと船の旅』
 航空券は電子チケットで、鉄道の周遊券をインターネットで手に入れ、旅行会社の世話にならずに海外を旅しようというのですから、パソコンに習熟し、語学が堪能で、外国の旅をよく知る人でないとできない旅です。 そうでなければ、<周遊券は1等を購入した。 1等の切符を持っていれば、1等にも2等にも乗車できるので、混んでいるとき席が確保しやすくなる>という考えは出てきません。
 それはまた、<昔一人で訪れたことがあり又仕事で滞在したことがあるヨーロッパを、妻にも見せたい>という、奥様への思いやりからでたものでもあるのですが… 

MMさんの旅のエッセイの楽しさに、乗り物(エスカレーターにいたるまで)に対する関心と観察があります。 たとえば<ヨーロッパのプラットホームは田舎に行くほど低くなり、デッキの梯子を荷物を持ってよじ登ることになる>や<ローカル線の旧式の車両はレバーを強く引いて更にドアを押さなければならない。 乗車するときも降りる人がいないときは自動的にドアは開かないので、ドアの近くのボタンを押す必要がある>などは、異国の旅を感じさせてくれます。 加えて、音楽や美術(建物)への造詣が深く、説明に厚みがあるので、読む者の想像に広がりと奥行きを与えてくれます。 

ベニス・運河(イタリア)

『イタリア紀行』
 忘れていけないのは、MMさんの旅行記には、時々思いがけないときに登場する美女(みんな若くて美人に思えてしまう)があります。 わずか一、二行の描写なのに、何とも魅力的で思わず頬がゆるんでしまいます。
 <ミニスカートがよく似合う可愛いいイタリア娘が二人歌いながら通り過ぎた。 私が振り返ると彼女たちも振り返って手を振った>なんて、明るく楽しい旅の気分が伝わってきます。
 ここには、この旅の感慨深さや楽しさが素直に伝わってくる次のような記述があります。 しみじみ「いいなぁ」と思ってしまいます。

 @ <このように街そのものが博物館であり、且つ美術館であるようなところは歩くのが一番である> (フィレンツエ)
 A <本でなじみの深いボッティチェリ・ラファエロ・ダヴィンチ・ティツィアーノ・ミケランジェロ等、実物をこの目で見る喜びは何とも言い難いものであった> (ウフィッツィ画廊)
 B <帰りの車の中で運転手とテレサというガイド嬢と私の3人で『ソレント』(帰れソレントヘ)を歌った> (観光バス) 

フィヨルドの朝(ノルウェイ)

『北欧の旅・2007』
 冒頭に<両頬のえくぼが可愛い女性添乗員のKさん>という魅力的な女性が登場しますが、それはさておき、ここも奥さんを伴っての旅「フィョルド」観光です。
 フィョルドについては<海とはいえ外洋から百数十キロメートルも入り組んだフィョルドの奥深くに位置しているため、水面は鏡のように静かで高原の湖畔に来ているような錯覚に陥りそうであった>や<夜明けは早くても日昇に時間がかかる北欧の朝は長く、朝露の中に浮かび上がるフィョルドの景観>、というようにフィョルドの景観を印象的に描写しておられます。
 このように景観を語る一方、オスロの観光案内を勤める現地在住の日本人ガイドについて<異国に住むことの厳しさや過酷さを現実に体験した上で、その土地とそこに住む人達への愛着が彼女(彼)たちの説明の中ににじみ出ているような気がした>と、心情を察する一文があります。 MMさんの豊かな感受性による観察だと思いました。 

ストックホルム・ミレスゴーデン
(スウェーデン)

『北欧の旅・1969』
 MMさん30歳頃のことでしょうか、この旅の記録からは「若さ」があふれ出ています。
 ニュルンベルクからストックホルムまで、ハンブルクやコペンハーゲンを経由しながら<直行便なら3時間もあれば着いてしまうところを、丸1日も費やすなど今思うと随分無駄なことをしたものだと思うが、途中の街を見たり色々な航空会社の飛行機に乗って機内食を食べ、空港の売店を見て回ったりすること自体が当時の私にとってはエキサイティングな体験>と言っておられるのですから。
 それにちょっとポルノショップに立ち寄ってみたりして… 

この若さあふれる旅の話は、『深夜特急』(注2)MM注2)(沢木耕太郎著 新潮社)を思い起こしながら読んでいました。 

『2枚の絵』
 不思議なことがあるものですね。 驚きました。 添えられている写真を見くらべながら、どんな経緯でこの2枚の絵が描かれたのか、あれこれ推理してみますが、わかろうはずもありません。
 <不思議な巡り合わせに驚いたり喜んだりし、22年前に100枚の中からこの絵を選んだことと、22年後にここに来ることになったことに何かの宿命のようなものを感じた>と言っておられるのは、まさに実感だろうと思います。 だからこそ<パキスタンは私にとって身近な国>となったに違いありません。 

モスタール・古い橋(旧ユーゴスラヴィア)
バニヤルーカの地震(旧ユーゴスラヴィア)

『古い橋』
 <飛び込み大会に出場することは、少年が青年の仲間入りをする儀式のようなもので、少年を養成するリーダは人種や宗教の区別なく大会を運営していた。 ムスリムのリーダをクロアティア系やセルビア系の少年たちが師と仰ぎ、兄と慕うこともしばしばであったという>人と人の絆を、内戦はずたずたに断ち切り、果ては<3民族が一緒に暮らした町モスタールは既に無く、人々の忌まわしい記憶の数々を忘却のかなたに流し去って、平和な人々の暮らしをいつも夢見てきたかのような『古い橋』も失ってしまった>という状態にしてしまいます。
 ボスニア内戦は遠く離れた場所でのできごとでした。 こうした話から、マスコミの伝える報道とはちがう「人の心の痛み」「戦乱の惨さ」がきりきりと伝わってきます。 

『バ二ヤルーカの地震』
 直下型の大地震に遭遇した後のMMさんの冷静沈着な眼と判断力に、技師(エンジニア)とはこういうものかと大きな感銘を受けました。 この部分を読んでいるとき、もう一人の技師の文章を思い出したのです。 少し長くなりますが、二つを並べて引用します。 

<一通りプラントを見回り点検した結果、重量機器の下にある柱はあたかも材料の圧縮試験をしたときのように45度の角度でせん断破壊を起こしており、ずれたコンクリートの隙間から鉄筋が折れ曲がっているのが観察できた。 又、苛性ソーダ溶液貯蔵庫では、重心が高く下部が円錐形のタンクのバルブはすべて破壊され、17%と25%の溶液が部屋中に噴霧状態となって飛散しており立ち入ることはできなかった。 苛性ソーダや硫酸が大量に流失したため、廃水処理が追いつかずヴルバス川の魚が死んだと後になってから聞いた。 但し機械類については外見上大きな被害はなさそうに思われた。 (中略) 地震でボイラーの煙突(90m)の頭頂部が折れて落下していたが、地震はちょうど1時から2時の間の昼食時に発生したため、指導員は現場におらず負傷者は1人も出なかった。 これだけの大きな地震に2度も遭いながら50名にも及ぶ指導員全員が無事であり、又客先側にも人的被害が発生しなかったことは運がよかったとの一語に尽きる。> (MMさんの文) 

<爆音が消えたので工場に行ってみれば、無惨にも我々の住んでいた家はペチャンコに押しつぶされ、製糖工場は被弾していない機械は―つもないまでにたたかれ、可燃性の建物は全部燃えている。 砂糖の燃える臭気がむせるように流れてくる。 工場用水の暗渠は吹き飛ばされ、そこらは水びたしになっていた。 引込線の貨車はほとんど吹き飛ばされてしまった。
 幸い酒精工場だけはコンクリート製の発酵槽がこわれたのと蒸留器が弾片を受けただけだった。 蒸留室には不気味にも500キロ爆弾が二つ、どうしたことか不発でころがっていた。 (中略) この爆撃で修理廠の大部分はだめになったが、人員の被害は皆無。 犬が一匹爆死しただけだった。 何と運の良い人達ばかり揃っていたものだろう。
 用水路と蒸留器とを直せば能力は三分の一位に落ちるが、どうやら酒精ができる見込みがついたので、その日から復旧工事にかかった。> (小松真一著『虜人日記』)(注3)MM注3) 

地震と爆撃との違いはあっても、優れた技師としての共通した対応の様を見るのです。 それは、被害状況を具体的に掌握し、その後の見通しを判断し、そして人的被害の確認までを沈着冷静に行っているということです。 しかも過剰な表現はどこにもありません。 

友人と筆者(インドネシア)

『笑顔が似合う人々』
 インドネシアでのプラントの契約。 十何億円もの商談だけに<契約折衝は長期に及ぶのが普通>なのでしょう。 そんな中でのこの場面は劇的です。
 <オーナーは契約書の調印に際し、「技術責任者はあなたか?」と私に問うので「はい」と答えると、「あなたを信用していいですね?」と改めて問うので私も一瞬躊躇した後「はい」と答えると、こちらが準備した契約書の内容をほとんどチェックすることも無くサインし握手を求めてくれた>というのですから、MMさんに対するなんという信頼感でしょう。 それに応えて、退職後も技術相談やトラブルシューティングの依頼を受けては問題解決にたびたびインドネシアまで出向いています。 ここにMMさんの信義の篤さを見ることができます。 仕事を通しての信頼関係は、<写真だけを撮りに行ってみたいと思う反面、友人たちは全員仕事仲間なので、仕事以外のインドネシア訪問は寂しい気もする>というところからもうかがい知ることができます。 

『HSさんからの手紙』・『日本語の語順と読点』
 『山のしづく』を読み始めて、その読みやすさ、わかりやすさの理由がここに来てわかりました。 文章に取組む姿勢が違っていたのでした。 特に『日本語の語順と読点』には驚きました。 国語教師顔色無しです。
 海外の国々で、ヨーロッパ系やアジア系の人などさまざまな人と一緒に仕事をしてこられる中で、言葉に関心をもたれるようになったのかもしれませんし、また、報告書や随想で考えや思いを正確に伝えなければ、という思いからの関心であったのかもしれません。 いずれにしても、私が感嘆したのは「日本語の語順」やさらには「読点の使い方」についての考察です。 脱帽です。
 読点についての指導は、学校でも十分ではないように思います。 高校では小論文指導で、指導者が赤ペンを入れて指導する程度で、教室で体系的に教えるということはしませんでした。
 私は、比較的読点を多く使うほうだと思います。 息が長く続かないのです。 

フランス人形

『パリの誘惑』
 冒頭からパリの魅力が、これでもか、これでもかという感じで迫ってきます。
 それでも私は、MMさんが登場するところにそこはかとない魅力を感じます。 たとえば、<ウィーンで買った山鳥の羽根飾りの付いたティロルハットに黒のスーツ姿で出かけた>MMさんはやはり<格好が>良かったのです。
 キャバレーでも洒落ています。 <「そこの黒いスーツの東洋から来られた紳士! お願いします」と私が指名された。 観客の拍手に送られて、テーブルの間を縫うように歩き、舞台に上がった。 「日本人?」 「そう」、「じゃぁ侍?」 「その子孫、多分」>に始まるマジシャンとの掛け合い、<引かされる>ことをわかっていながら、マジシャンの意図するカードを引き、<一瞬マジシャンの顔がほころんだ>のを見逃さずにいるあたりのユーモアは絶妙です。 

『私のお気に入りの曲と演奏』
 私のクラシック音楽に対する理解は、中学生の頃の音楽の「知識」で止まっており、MMさんの音楽への思いを十分に受けとめられないことが申し訳なく、残念に思います。
 そうではあるのですが、クラシック音楽を聴く楽しみや喜び、または感動というものは、なるほどこういうものか、と感じられる箇所がここです。
 <30年以上も聴いていないレコードを取り出して聴いてみると、その演奏は自分が予測する音楽の流れに一分の空きも無くぴったり合っている。 「コツン・コツン」というレコードの傷の音も、事前に予測しながら音楽の一部となって聞こえてくる。 第1楽章が終わり一定の間合いの後、突然第2楽章の冒頭のテーマ(主題)が脳の内部で鳴り響き、それに続いてレコードの音楽が鳴り響く。 クイズ番組の問題のように××交響曲・第2楽章の冒頭のテーマを歌ってみろと言われてもなかなか思い出せるものではないが、第1楽章が終わって1,2秒後そのテーマを突然思い出すのは不思議である。 これと同様にレコードの傷のような雑音までも、「コツン・コツン」という音が聞こえる1秒か0.5秒ほど前に、指揮者がキューを与えるかのように「それ!コツン・コツンだ!」と思うと同時にその音が聞こえるのである。> 

『中国人の捕虜のこと』
 MMさんの父上が捕虜たちの待遇改善のために奔走し、捕虜をかばう理由付けのための台詞、<悪条件下であまり酷使すると、工事日程に影響を及ぼすことになる>は見事です。
 そしてこのような父上を蔭で支える母上のエピソードもまた胸を打ちます。
 <“日本語・中国語対照訳”にはカタカナでルビが振ってあり私にも読めた。 片言を話すと通じるのが面白くて、彼らに話しかけて遊んだ。 元々工事用に編集されたもので、中には命令形で子どもが使うには不適切な言葉が多く含まれていたため、母はそれらを言葉に印をつけて私に使用を禁じた>
 これらの話を、MMさんは格別大事にされておられるのではないでしょうか。 

私が中国で過ごした6歳(昭和22年)までの記憶は、「点」という形でしか残っていません。 父や兄たち(10歳と15歳年長)から聞いた話で補っても、点の大きさが少しふくらむだけで、線や面にまで成長することはありません。 それでも時として、自分のかすかな記憶と結びついて、それがちょっといい場面だったりすると、誇らかな記憶として留めらます。 こんな場面です。
 家の庭(広かったらしい)に中国兵の一団が駐屯すること(時を違えてはいましたが、国府軍もハ路軍もやって来ました。 しばらく滞在しては次の土地へ移動して行きます)がありました。 そのころ母は肋膜で寝たきりだったのですが、ほとんど少年のような若い兵士たちがよく見舞いにきてくれたそうです。 母がしゃべる(中国語ができた)小さな声の二言三言に、笑顔になって隊に戻って行った、という話を兄から聞きました。 彼らは、遠く離れた母親の姿を重ね合わせ、私の母の言葉に慰められたり、励まされたりしたらしいのです。 私の好きな話の一つです。 

様々な情報を得ながら広い世間を生きている男性とはちがって、母親や妻という立場の女性は家庭という狭い世界にいながら、時代の流れや人間を誤たずに捉える能力を発揮することに驚嘆させられます。MM注4) 

ふるさとの山・御嶽山(3067m)

『心のふるさと』
 長野と奈良、「海のない県だし…」などとは言いませんが、子どもの頃を過ごした環境に共通するところがあるのを知って頬がゆるみます。
 私の場合、引き揚げてきた「内地」、奈良の田舎の生活のすべてが珍しく、ほかの子どものやることをそのまま真似て身につけようとしました。
 初めて口にしたイタドリは、空腹の身には旨く、食べ過ぎて「猛烈な」下痢に襲われるしまつ。 往診に来た医者に臀部へ注射を打たれる様子は、弟に冷やかしの種としていつまでも使われる「屈辱」の種となります。
 「キイチゴ」は長い間「黄毎」と書くものだと思っていたのでした。 その黄色の鮮やかさ。 家族に、山の中にこんな美しく甘い実があるというのを教えたくて、その場でたらふく食べた後、服の両側のポケットにつめ、潰さないようにしながら持ち帰りました。 桑の実は、友だちと紫色になった舌を見せ合って色の濃さを自慢し合ったものです。
 鳥もちでメジロを捉える方法も、罠でうさぎや小鳥(ヒヨドリなど)を捕える方法も教えてもらいました。 アオバズクを補えたことさえあります。
 ですから、<私は村の子供たちと一緒に昆虫採集に歩いて、山つつじの花や板取の茎などをかじって満足していた。 大粒の黄色の木毎が一杯実をつけているのを見つけたときのどきどきするような胸のときめき、黒ずんだ桑の実を思う存分採って食べた楽しさは今も忘れることができない>というのは、自分の体験そのままなのです。 

『パングラデシュの思い出』より

【税関】
 <荷物と荷物の間から手のひらを上にした片手がヌーッと出てくる。 3本の指が何かを要求するようにしきりに動くので、隣の人に習って1ドル紙幣を掴ませる>という手荷物検査場の描写に、思わず吹き出してしまいました。
 しかし、悪質な要求に遭遇した時のMMさんの<税金交渉>は、痛快で喝采を送ります。 少し長いですが、スリリングな駆け引きの場面なので、そのまま引用させてもらいます。
 <私が「それはチップですか、それとも税金ですか。」と問うと「税金だ」という。 「我々の仕事は円借款プロジェクトで、持参した部品の大部分は貴国が自ら調達しなければならないものであるが、それが不可能であることが分かったので、我々の好意で無償提供するものである。 それに税金をかけるのは納得できない。」と応じた。 すると相手も「理由のいかんを問わず、輸入品についてはその評価額に応じて輸入税を支払うのがあなた方の義務である。」と譲らない。 それに対してこちらも「ではその金額の根拠はありますか。 計算書を示して欲しい。」と詰め寄った。 すると何やら細かい字で段ポール箱の上に計算式と数字を書き、「合計3,000ドルになる。」と言う。 「T/C(トラベラーズチェック・旅行小切手)での支払いはできますか。」と問うと、「できない、現金しか認められない。 あなた方3名の手持ちを合わせればそのくらいの現金は持っているでしょう。 日本人は金持ちだから。」と言う。 (中略)
 「我々の会社の金なので、領収書が無いと困る。」と言うと、「すぐに領収書を書くからしばらく持ってくれ。」と言って事務所に入ろうとしたので、「単なる手書きの領収書では受け取れない。 税関の責任者のサインとスタンプの捺印がある領収書に、準拠する法律の名称と番号を記載した正式な計算書をタイプで打って添付してください。 念のためにその計算書は、後で貴国の関係機関でチェックしてもらうので、間違いの無いように記載してください。」と付け加えた。
 しばらく数名がひそひそと話をしていたが、やがて我々の前に現れ、「300ドルでOKする。 その代わり領収書は出せない」と言った。 「領収書の無い税金は一切払えない。」と拒否すると、「ではチップでよい。」と遂に本音が出た>
 強かな相手を理詰めで追い込んで、音を上げさせるまでに至る舌鋒の鋭さは、一朝一タに身についたものではないと思います。 この知恵と度胸は「場数を踏んで」こそできるものなのでしょう。 

私が見習って実行しようと思ったのは、<アジア諸国に出かけるとき私はいつも、100ドル紙幣ではなく10ドル紙幣を2・30枚とチップ用として1ドル札を20枚ほど持って行くことに>するということです。 (まだ、中国、台湾以外に出かけたことは無いのですが) 

看護婦さんの賃上げデモ
(ダッカ・バングラデシュ)
スチュワーデスとカラスが来るプール
(ダッカ・バングラデシュ)
サッカー少年
(チャンドラゴーナ・バングラデシュ)

【レバーにら炒め】
 テーブルの上のゴキプリもいただけませんが、これもいただけない話です。
 30年ほども前のことになります。 中国の食堂で、饅頭をピラミッド型に積み上げた皿が出てきました。 一番上の一個には歯形が付いており一部欠けています。 ウェイターに指摘すると、ウェイターはすぐに厨房に戻っていきました。 そして一番上の一個を取り除いただけの、頂上が少し平らになったピラミッドが再び私たちのテーブルに運ばれてきたのでした。 それを見た瞬間、この饅頭のピラミッドは、私たちより前の客が残したものを集めて積み直したものではないかという疑念が湧いたのでした。 先ほどの歯形のついたものは、積み直し作業の係が気づかないまま無造作に載せてしまったのではなかったのかと。
 饅頭は私の大好物なのですが、この時ばかりは、ぱくつくことが憚られたのでした。 

【男の社会】
 <看護婦さんたちの賃上げ闘争のデモであった。 病院には女性の看護婦が働いていることが分かり、入院したときのことを想像して少し安心した。>
 そうでないと、MMさんばかりでなく、女性は病気になっても病院には行きにくくなってしまいます。MM注5) 

【スチュワーデスとカラス】
 <ロンドンからの便が午前中に到着すると、スチュワーデスがホテルのプールサイドに現れる。 それを見計らってこちらもプールサイドに出て会話を楽しむことができる。 ロンドンの様子・今日のフライトのこと・日本には行ったことがあるかなど、カレーライスを食べながら他愛無い話をしてひと時を過ごす。 久しぶりの目の保養にもなる。
 その様子を狙ってカラスが襲ってくる。 女性と話しながら食べるときは隙ができことを知っているようだ。 その日は話し相手と自分のカレー2皿分の防衛をしながら会話をすることになるので、相当な神経を使わねばならない。 気のせいかカラスの数もいつもより多いようだ。 BOAC機が到着する曜日をカラスは覚えているのかもしれない>と書いておられますが、きっとカラスはBOAC機の到着の曜日を覚えていたのではなく、女性と一緒にいるときの男性がいちばん隙ができるという「男性心理」を読んでいたのに違いありません。 

リキシャに乗る筆者
(ダッカ・バングラデシュ)

【工場】
 竹を原料とした製品作りの話は興味を引きました。
 田舎の祖父は農作業の合間(主に冬場)に、商品としての篭(かご)や笊(ざる)を作っていましたから、子どもの頃、「穂引き」を手伝ったことがあります。 「穂引き」というのは笊に編むために細く割いた竹の太さを揃え、表面を滑らかにする作業です。 竹ひごの「鉋(かんな)かけ」です。 鉋は細く刃が特殊で、笊用の細いひごが通る分だけ窪んでいてそこに刃がつけてあります。
 祖父はあぐらをかいて座り、鉋の刃に竹の「身」(皮でない方)をあてて、膝の上の分厚い作業用前掛けに押しつけます。 私は、その挟まれた竹の穂先を持って引っ張る役です。
 (木を削る鉋は、木を固定して鉋を引きますが、笊用の竹は鉋を固定して竹の方を引きます) 手がすべらないように、竹がねじれないように竹を握った拳を腰にあてて歩きます。 竹一本分の長さですから7〜8メートルを均一なスピードで引いて行くのがコツですが、何本も何本も引かなければなりません。
 集落の多くの家が篭や笊作りをしていましたから、竹林は手入れされていつもきれいでした。
 竹を利用することが減ってしまった今、竹林は荒れ放題に荒れて見るに忍びないものがあります。 素人考えに「竹紙は中国で有名だし、書道でも使うのに…、大量生産はできないのだろうか」と思ったこともあります。 でも最後は、「採算が合わないのだろう」という現実的な考えで空想は消えていました。
 ところが<この工場の製品は何れも竹を原料としており、世界初の試みであった>とあるではありませんか。 空想を現実にする試みがなされていたのです。 このプラントが竹林のあるところにどんどん増設されることを願います。MM注6) 

【繊維について】
 天然繊維と化学繊維の違いについての知識も中学生止まりです。 人絹は粗悪な安物というイメージしかありませんでした。 認識を改めることにします。 

【給仕は床を拭かない】
 階級制度による効率の悪さに、苛立ちを覚えたことも再三ではなかったのでしょうか。 MMさんたち技師が責任遂行のため床下にもぐってまで床の強度を点検しているとき、客先の技術責任者が「我関せず」の態度をとる国に、技術を定着させるためには厖大な時間とエネルギーが必要な気がします。 

【バスとフェリーとリキシャの旅】
 リキシャを利用するのに、<できるだけ厳しく交渉して乗車し、目的地に到着後タクシー並のチップを渡す>と、受け取った少年は<日に焼けた顔をほころばせて嬉しそうに幾度も礼を述べ>て笑顔を見せてくれる、と言っておられます。 そしてその少年の笑顔から少年の家庭を思い描くのですが、この時、MMさんはご子息やご家族のことに思いを馳せておられたのではないでしょうか。 

農家の子供たち
(バニヤルーカ・旧ユーゴスラヴィア)

『1968(ユーゴスラヴィアの思い出−1)』
 <買い物について、「これが欲しいと思ったら自分の懐具合と相談して、あまり迷わずに買うか買わないかを素早く決断することが大切で、もっと良いものがあるだろうとか、次の機会にしようと躊躇しても、そのような機会はあまりないものだ」>という話を外国での買い物のアドヴァイスとして読み進めていきますと、気が付いたときには、それは奥様へのプレゼント購入の話になり、奥様のお気に入りの一品になるという話に落ち着いています。
 こうした奥様に関するエピソードは、随所にさりげなく挿入されていて、それが万葉集の「山のしづく」の歌と呼応し、表題『山のしづく』と響き合っているのです。
 と同時に、ここに記された一編一編の場面は、ぽつりぽつりと滴り落ちる「山のしづく」の比喩であるようにも感じられるのです。 そうして集まった「しづく」はやがて「流れ」となり、それはMMさんの人生そのものを表すことになるわけです。
 見事に奥様への愛情の物語は、MMさんの人生と重なります。 この物語はさらに続きますが、お子様やお孫さんへの何よりのプレゼントになることでしょう。 

民族衣装で正装した
ミリヤナさん
(バニヤルーカ)

こんなふうに『山のしづく』を読ませていただきました。
 構成にも工夫されているので、読み進むにつれて奥行きを感じ、ほんとうに感銘深く読ませていただきました。 ありがとうございました。 

言わずもがなのことまで書いてしまった無礼をお赦しください。 

TT先生注1.「しづく」「しずく」

文字遣いについて、すでに資料を得ておられるかもしれませんが、手元にあるもののコピーを同封しておきます。(『例解辞典』白石大二編 ぎょうせい)

(注)資料の掲載は省略します。 

【蛇足】歴史的仮名遣いの「づ」は現代仮名遣いでは「ず」と表記するのが原則で、「しづく」は「しずく」になります。 「うなずく」「つまずく」となります。 「うなずく」は、「うな」(「うなじ」などの言葉があるように、首の後ろの辺りを指す言葉のように思われます)+「つく」(米を搗くようにコックリする様)で「うな+づく」でいいようにも感じられるのですが、「いろづく」(色+付く)のように明確に2語に分けられないとして、現代仮名遣いでは「うなずく」と表記します。 

TT先生注2.『深夜特急』(沢木耕太郎著 新期社)

著者のデビュー作といってもいい作品です。
 26歳の著者がデリーからロンドンまでユーラシア大陸を乗合バスで横断するという旅行記です。 

【蛇足】1989年に私が手にした版は第18刷ですから、随分評判を呼んでいたようです。 この時すでに私は47歳でした。 

*気が付いたミスプリントです。(すでにお気づきになって、訂正されておられるかもしれませんが)
@ 『ドイツ・オーストリア・ハンガリー鉄道とバスと船の旅』・p9・上から6行目
  「1人づつ」→「1人ずつ」
A 『私のお気に入りの曲と演奏』・p2・下から12行目
  「一部の空きも無く」→「一分の空きも無く」
B 『中国人の捕虜のこと』・p4・上から14行日 
  「一番外れの崖に上にある」→「一番外れの崖の上にあるj

C 『1968年(ユーゴスラヴイアの思い出−1)・p3・下から6行目
  「パスの車内」→「バスの車内」 

TT先生注3.『虜人日記』(小松真一著 ちくま学芸文庫)

太平洋戦争の敗戦まぎわ、台湾で製糖所の技師としてアルコール精製に携わっていた著者は、陸軍専任嘱託として徴用され、アルコール精製に従事することになります。 フィリピンでの生活を軍人ではない技術者(科学者)の目で冷静に捉えた貴重な日記です。 MMさんが写真を添えておられるように、小松さんは乏しい絵の具でスケッチした絵を添えています。 「毎日出版文化賞を」を受賞しました。 

【蛇足】『日本はなぜ敗れるのか』(山本七平著 角川書店)

上記『慮人日記』と著者自身の体験とを合わせて記された評論です。 『慮人日記』の解説のような色合いもあります。 

MM注1.「しづく」「しずく」文字遣いについて

TT先生が同封してくださった『例解辞典』(白石大二編 ぎょうせい)のコピーは大変分かりやすく参考になりました。 御礼申し上げます。 

MM注2.『深夜特急』(沢木耕太郎著 新期社)

私も『深夜特急』(沢木耕太郎著・新潮社)を読みました。 黒表紙の3冊本で、第3便(最後のトルコからロンドン)が発行された直後に、まとめて読んだ記憶がありますので、1992年か93年頃(53・4歳)だったと思います。 読んだのが遅すぎた感がありますが、自分の体験と比較して懐かしい部分も幾つかありました。 今も本棚に並べてあり、「もうこんな旅はできないなぁ」と思いながら時々眺めています。 

MM注3.『虜人日記』(小松真一著 ちくま学芸文庫)

私はまだこの本を読んだことがなかったため、『日本はなぜ敗れるのか』(山本七平著 角川書店)と一緒に購入しました。 死と向い合わせの状況の下で、冷静に現象を観察した結果を、克明にしかも細部にわたって記していることに感嘆しました。 戦争体験者や戦争被害者という立場(例えば大勢の人たちの断片的な証言集である『戦争』株式会社朝日ソノラマなど)とは異なる一人の技術者という視点で、約2年10ヶ月間の体験を客観的に淡々と記している態度に感銘を受けました。 勿論戦争や行軍の真っ只中で書いたわけではなく、筆者の序文にもあるとおり捕虜となり、ある程度時間に余裕ができてから書き始めたことになりますが、それ以前の記録も日記形式で書かれているので、スケッチやメモに忠実に事実を物語っていることは明らかで、あたかも戦争の実況中継を聴いているような感じで読むことができ、このことが極めて重要であると思います。 筆者は最後にこの戦争の敗因を自ら分析し、21項目の要素に分類した上で、<日本人には大東亜を治める力も文化もなかった事に結論する>と述べています。 

『日本はなぜ敗れるのか』(山本七平著 角川書店)の第1章「目撃者の記録」で著者は、「思い出」を否定するものではないが、「思い出」と当時の「自分の現実」との間には大きな差が必ずあり、横井庄一氏や小野田寛郎氏が帰国後当時を回想して書いた記録を<「三十年間の正確な記録と思うか」>と問われれば、答えは<「思わない」となる>と述べています。 その上で、小松真一氏の『慮人日記』に、記録としての真実を見出したと書いています。 戦争を知らない世代の政治家や知識人たちが、美化された記録や想像を基にして軽薄な議論をするのは許されることではありません。 

MM注4.

先生のおっしゃる<様々な情報を得ながら広い世間を生きている男性とはちがって、母親や妻という立場の女性は家庭という狭い世界にいながら、時代の流れや人間を過たずに捉える能力を発揮することに驚嘆させられます。>には全く同感です。 私の場合のように、一般常識とは異なる暗黙の了解事項に制約を受ける会社という組織に長年どっぷりと漬かっていますと、それが本当の人間社会の常識であると錯覚し、本来の人間のあり方からは遠ざかって、家庭にいる母親や妻の方がむしろ<人間を過たずに>人生を送ることができるのかもしれません。 

MM注5.

イスラム社会では、宗教的な理由で女性は女医に診てもらうことになっているようです。 バングラデシュのカルナフリ工場のパンフレット(1967年発行)に、工場付属の病院には、ベッド数の多さやエックス線装置完備と同様の扱いで、女性のドクターがいると書いてあります。 多分当時は女医さんのいる病院は少なかった(女性は医者にかかるのが難しかった)のかもしれません。 パキスタンの知人の奥さんも女医ですが、最近では医者の中で女医の比率が増加しつつあるようです。 

MM注6.

竹を原料として紙を製造する工場はまだできる可能性はあると思いますが、ヴィスコース繊維やセロファンを製造する工場を新設することは非常に困難な状況になっています。 その大きな理由の一つは、この工場では苛性ソーダ・硫酸・二硫化炭素などの化学薬品と水を大量に使用するため、現在の環境基準を遵守するためには排水および排気処理に莫大な費用がかかることです。 インターネットで調べますと、バングラデシュのこの工場も、製紙工場は稼動しているようですが、繊維とセロファン工場は最近閉鎖されたようです。 自ら設計し建設した工場が閉鎖されていくのは残念なことです。


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