山のしづく
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思いつくまま
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「一山の歩み」に寄せて

会社員時代の知人STさんが、自叙伝「一山の歩み」を出版され、私にも送ってくださった。 紺の布地に銀箔押しの表題が、見る方向によって光の陰影を醸し出す上品な装丁で、内容は330ページにも及ぶ大作である。 表題は同郷の名古屋在住の書家・戸野翠江先生の筆によるものとのこと。 

「一山の歩み」というこの本のタイトルについては、どこにもその由来についての記述が無く、何を意味するのであろうかと好奇心を抱きながら読み進めるうちに、本の終わりになって漸く下記のような説明文にめぐり合うことができた。

<<<明治維新前、薩摩や長州の人間が東北の地を「白川以北一山百文」と称した。 東北には平泉など古くから文化が栄えていたが、時勢に抗して敗軍になり、以後会津の悲劇が代表する辛酸を舐め、薩長官軍の人的経済的支配を長く受けた。 時が変わり第二次大戦後、やっと対等になった。 東北人は粘り強いが保守的と言われる。 もっと世界に目を向けるべきと思う。 「一山の歩み」題名は、この東北の田舎出身者の歩みを意味している。>>> 

STさんは東北・白石きっての旧家に生まれ育ち、家の裏庭には家業の米穀店の倉庫蔵(米蔵)の他に、書画骨董・屏風・衣類・家具・材木・農機具(鉄蔵)・地区のお祭り道具に至るまでを保管する専用蔵が幾つもあったようで、ST少年はそこを格好の遊び場に使っていた。 親戚には俳人の伯父様・歌人の伯母様がおられ、お父上も勲5等を叙勲されるなど文化的にも世間に広く知られた家系で、白石城主片倉家(一万八千石)お抱えの漆塗り師を輩出している。 

会社員時代からの長年にわたるSTさんとの親交の中で、そのような家系の出身であることを周囲には微塵も感じさせないどころか、むしろ庶民的とも言えるほどざっくばらんなお人柄で、私などはこの本を通じて初めてSTさんの生い立ちを知ったほどである。 

本は第1部「ふるさと思い出」と第2部「一山の歩み」の2部から構成されている。 第1部は主に子供のころの思い出と白石の風物と伝統行事、第2部は会社の仕事での出張とゴルフとグルメの海外旅行記である。 全体としては壮大な絵巻物のような自叙伝であるが、第一部は177の大小の項目毎に、第2章は61の旅行記を更に細分化した項目毎に見出しが付けられているため、どこから読み始めても短編小説を読むような感じで読める。 以下にこの本を読んだ私の感想を書いてみたい。 

ふるさと思い出 

STさんと私は同年齢ということもあり、子供の頃の思い出については特に興味を持って読ませていただいた。 STさんの家系が白石きっての名門であるのに対し、私は平凡なサラリーマンの家庭に育ち、もの心つく頃は長野県の田舎に住んでいた。 住む所も家庭環境も全く異なっていたにもかかわらず、あまりにも多くの共通点があることに、思い出を共有したような喜びを感じた。 

STさんは故郷白石を <<<町は西北に蔵王山、北に清流白石川の彼方に青麻山、西に御廟山(白石城主片倉家墓所)と蜂森山、東に阿武隈山脈に連なる丘陵、南は太平・越河の丘陵に囲まれた山紫水明の盆地である。 子供心にこの盆地が世界の全てであると思っていた。>>> と描写している。 私にもこれとよく似た「心のふるさと」があり、同じようにそれが自分の中の全てであった。 

私たちの年代にとっての戦時中は短く、小学校1年の夏までであったが、戦時中と戦後の記憶ははっきりと区別できる。 天皇崇拝のことや二宮金次郎のこと、戦後国語の教科書のかなりの部分を墨で塗りつぶしたこと等、私も鮮明に覚えている。 先生が教科書以外にも偉人伝や格言、時には漢詩の一節なども生徒に話してくださり、そして当時の生徒は皆先生を尊敬していたように思う。 

いなご捕り・山菜採り・昆虫採集・雀捕り・ねずみ捕り・富山の薬売りなどは、私の思い出とぴったり重なる。 遊びについては白石と御岳と遠く離れていても、よく似た遊びをしていたものだと感心する。 私の場合は戦争ごっこ・チャンバラごっこ・トロッコ乗り(近くに工事現場があり、トロッコで遊ぶのは禁止されていたが)など危険な遊びもしたものだ。 ロケット作りは特に興味があり、ペンシルキャップでは満足せず、直径3センチほどのアルミパイプにセルロイドを詰めて、刈取りの終わった田んぼの真ん中で打ち上げたことを思い出す。 冬は田んぼに水を張って凍らせ、下駄の裏に鍛冶屋さんで作ってもらった刃を付けたスケートで遊んだ。 蓄音機やラジオも作ったり壊したりしたものである。 

先日NHKのテレビで「沸騰都市・東京」という番組を見た。 東京は今も膨張していて、江東区の埋立地に高層マンションが建ち並び、住民の子供たちを受け入れる小学校が生徒数を増やしているという。 現在の生徒数500名が、2・3年後には昔都内にあったマンモス校並の1500名になるだろうと校長が話していた。 生徒のほぼ全員がマンションから登校して来るのだそうだ。 我々の子供時代と比較して、彼らは何をして遊ぶのであろうか。 

私の子供時代と比べると、よく似てはいるがSTさんの方が変化に富んでおり、私のほうが単純だったように思う。 高校時代のアルバムに書かれた「私の言葉」(STさんの言葉)から推察して、少年の頃から自らの人生に対する意思と、将来に対する大志を抱いておられたことが良く分かる。 それと比較して当時の私は、まだずっと幼稚であった。 

自宅の敷地内に蔵が幾つもあるというのは、普通では想像もできないことで羨ましい限りである。 少年時代に蔵を探検するときは、さぞかし胸をときめかせたことであろう。 屏風や掛軸・刀などの美術工芸品だけでなく、祖先が残したどんな小さなものも非常に興味深く、日常使っていた品々も現在では宝物に違いない。 東北地方に昔漆塗りの名人がいたという話を、以前テレビで見たことがある。 名前は忘れてしまったけれども、STさんの祖先の方だったのかもしれない。 

STさんご愛用の古い革のかばん、以前会社で見かけたことがある。 「年季の入ったかばんですね」との私の問いに、「お祖父さんのかばんだよ」と言われたのを覚えている。 角が磨り減って皮特有の味が出ていたかばん、1917年のスイス製だったとは驚きである。 

「ふるさと思い出」には短歌・俳句・川柳が添えられている。 私は素人なのでよく分からないが、雄大な風景を詠まれた短歌はすばらしいと思う。

私の好きな歌をあげてみたい。 

<<<陽炎の 揺らぐ緑野 匂い立つ 空に聳ゆる 不忘れじの峰 (青泰)>>>

初夏に近い北国の春の新緑と漂って来る花々の匂い、四方に聳える山々、白石盆地の情景が思い浮かぶ。 

<<<春白き 蔵王の峰の 霞み見て 偲ぶ思い出 遥か彼方に (青泰)>>>

春霞のうっすらと漂う中に蔵王の頂が霞んで見えて、遥か昔の思い出も霞んでいくようだ。 上手い表現だと感心する。 

<<<梅雨空に 歴史を眺め 赤赤と 今を盛りと 咲く牡丹花 (青泰)>>>

年月は過ぎてしまったけれども、当時と同じように今を盛りと咲いている真っ赤な牡丹の花の色が目に焼きつくようである。 

「青泰」という俳号を持っておられるので、STさんは俳句が最も得意なのかもしれない。 伯父様の俳句・伯母様の短歌・お兄様の漢詩等、STさんも祖先からのDNAを受け継いでおられるようだ。 

「ふるさと思い出」の中で最も感心し且つ思いを深くしたのは、1年を通じての旧家のならわし・しきたりとそれに纏わる儀式と年中行事である。 年末から新年にかけての年取り行事に始まり、七草・節分・ひな祭り・鯉幟・菖蒲湯・柏餅・七夕・お盆・お月見など、祖先から代々伝わってきた一年を通じての伝統行事とそこで使われる品々やお供え物に至るまで、その手順と内容が克明に記されており、子孫に残すための記録としても素晴らしいと思う。 その中のほんの一例として、「焼餅・おせち料理」の冒頭の部分は次のように書かれている。

<<<正月の儀式は、先ず前日大歳(大年)の神棚に夕食前家族全員で参拝し、ついで神棚をお参りしてから夕食を食べる。 毎年「鮭」の塩焼きを食べる風習がある。 元日は早朝「若水」を井戸から汲んで水甕に入れ、神様に供えたり雑煮を作ったりする。 これは邪気を払い、若返ると云われている風習である。 正月は朝から座敷の囲炉裏の炭を火箸で上手く広げ、網焼きを数枚並べて一度に20個くらいの餅を焼く。 焼き方は焦がさず膨れるのを均等にするノウハウを会得して毎年焼いた記憶がある。 何しろ大家族、しかも食べ盛りで大変な量の餅を焼いた。 以下略>>>

以前京都の冷泉家の乞巧奠(きっこうてん・陰暦7月7日の星祭)の歌会を見学し、同家に伝わる儀式を垣間見たことがあるが、そのときのことをふと思い出した。 

日本の旧家には元旦から大晦日まで夫々の土地と家の伝統に従って行事を執り行い、神仏に感謝するとともに自らも楽しむという大変美しい伝統と歴史があった。 これらの伝統と文化は、江戸時代には一般庶民にも広まり、戦前まで受け継がれてきたが、一般家庭においては戦後これらのほとんどが失われてしまったことは非常に残念である。 これらは地域によって異なる季節感とその移り変わりを反映する、世界にも例の無い、四季のある国日本ならではの繊細な、一種の宗教的行事であったと私は思っている。 

「年取り行事」について、STさんは次のように書いておられる。

<<<正月を迎えると父が神棚の脇に祭壇を設置し、年取りの神を迎える準備をした。 (中略) 神棚は居間の押入れの上にあり、二間幅である。 先ず天地神明造りで千木(交差して天を向いている一対の木)と鰹木(丸い棟木)があり、天照大御神の御札とご神鏡を飾ってあるお社(小型の神社)、その隣に豊受大御神、大国主大神(大黒天・福の神)と事代主神(水産・商業の守り神)のお姿を書かれて御札を祀るお社、さらに国津神を祭る小型のお社が3−4祀られていた。 これら御札は毎年、年末に神明社から戴き、新しい御札に取り替えた。 達磨さんは大小取り混ぜてあった。 これも商売の神様と思って丁寧に埃をはらって拭き清めた。 総ての達磨は願いごとが叶い両目が入っていた。>>> 大勢の神様がおられたのである。 

昔から日本人の心の中には神と仏が住んでおり、それによって道徳が守られ犯罪の無い社会が築かれていたのだと思う。 ところがここ70年余りの間に戦前・戦後を通じて、現在政治家たちが参拝する神ではない「日本古来の神々と仏」がいなくなってしまった。 小泉八雲が褒め称えた「日本人の精神の美しさ」を取り戻すためには、「日本古来の神々と仏」を日本人の心に呼び戻さなければならないと思う。 

一山の歩み 

海外出張が珍しかった当時は、新幹線のホームにまで会社から皆が見送りに来て、中には万歳や胴上げまでするグループもあった。 当時の長距離便はB707又はDC8で、最近の大型機(B747やA300)に比べると乱気流に入ったときの揺れはひどく、飛行機酔いの人もしばしば見られた。 「一山の歩み」を読み始めたころ、TSさんと同様に私も29歳の年に初めて海外出張をした当時のことを思い出しながら、ホームページの原稿「ユーゴスラヴィアの思い出」を書いていたところであった。 

TSさんの旅行先で一番多いのはタイである。 出張の他にもゴルフツアーで幾度も行っておられるので、タイがお好きなのだと思う。 私もバンコクにはバングラデシュへの出張の行き帰りに立ち寄り、暇があるときは近郊を観光したこともあったが、TSさんのように国内各地を旅行したり、癒しを与えてくれる人たちとの交流も無かったのは残念である。 1980年代前半のバンコクはバイクの排煙と渋滞に悩まされ、騒音と喧騒の町であったことが思い出される。 だからといって私が騒音と喧騒が嫌いだというわけではなく、むしろ静かで清潔なシンガポールのような町よりは、香港・ハノイ・ダッカ・バンコク・ジャカルタ・イスタンブールなど雑踏と騒音の町の方が活気に満ちていて、自分もその中に溶け込んでいくような気がする。 

アメリカは若いころ頻繁に行っておられ、特に南部では <<<南部の田舎をレンタカーで回ると黒人の貧しい家が見られる。 公民権運動がまだ浸透していない。 一方裕福な白人社会は、広々とした広大な敷地に白亜の立派な屋敷が見られる。 人種差別が存在していると感じた。 又ヨーロッパ各国からの移民がそれぞれの国や町の名前を冠した開拓地の町が多く見受けられた。>>> とあるように、仕事以外にも多くの現実を見てこられたことが分かる。 アメリカからの帰りの飛行中にご長男が誕生と書かれてあったので、STさんの奥様も私の妻と同様の苦労をされたのだと思った。 私もアメリカは幾度か訪問したことがあるが、具体的且つ系統的にはなかなか思い出せない。 手帳のメモと出張報告書と写真を手がかりに、忘れぬうちに頭の中を整理して旅行記をまとめたいと思っている。 

オーストラリアはSTさんにとって最初に足を踏み入れた外国になるわけで、私のユーゴスラヴィアと同様に最も印象に残っている国に違いないと思う。 「一山の歩み」その4の太平洋一周旅行は、普通ではなかなかできる旅ではなく、出張だからこそこのような旅ができたのだと思う。 出張の途中でハワイやフィジーに寄れるなど幸運である。 ハワイは芸能人が行くところと敬遠していたが、私は定年旅行で初めて行ってみてリラックスできて良いところだと見直した。 しかしワイキキ(オアフ島)は日本人が多すぎて外国という感じはしなかった。 その後二度目に行ったハワイ島の方がのんびりするには良いところだと感じた。 

ヨーロッパ、中でもドイツ・ベルギー・イタリア・フランス・イギリスは、私も訪問したところが多く、大変懐かしく読ませていただいた。 ロマンチック街道の町々に出張で幾度も行かれる機会があったのは羨ましい限りだ。 私は昔ユーゴスラヴィアにいた頃に旅したところを、2004年から2007年にかけて妻と共に回ってきたが、ヨーロッパの国々は幾度行っても良いと思う。 

「ふるさと思いで」の中で、お母様がST少年に特別に深い愛情を注いでおられたことが、文章のあちこちに見られる。 「一山の歩み」その7で、お母様と一緒にタイ・香港に旅行されたことが書かれているが、38歳の若さでよく行かれたと感心する。 私などいつも思ってはいたが結局実現できず、せめて一度だけでも飛行機に乗せてやればよかったと今になって大変悔やんでいる。 

「一山の歩み」の中で私が一番好きな章は、奥様と一緒にいかれた第50章・ロシアのサンクトペテルブルグとモスクワの旅である。 <<<シルクロード憧れのウズベキスタン、タシケントを経由して激動しているロシアの古都と首都を旅行する。 関西空港から崑崙山脈・パミール高原の山並みを縫ってタシケントに到着し、サンクトペテルブルグに向う。>>> <<<久しぶりに家内と帝政時代からの繁華街ネフスキー通りのお店を眺めながら散策した。 高級な店は何処も入り難い雰囲気である。 歩き疲れたのでグランドホテルに入ってジャム入りのロシア紅茶を飲む。 流石にホテルの紅茶は美味しく、おみやげにジャムを呉れるサービスも良かった。 少しロシアを見直した。>>> 直ぐにでも荷物をまとめて旅に出たい気分になる。 

「一山の歩み」61のうち、そのほぼ半数が60歳以降というのには驚いてしまった。 普通は年をとると特に海外に出るのは億劫になりがちであるが、STさんのバイタリティーには感心する。 しかもその多くがお客様を引率されての視察並びに接待旅行だったようで、私のように「旅は一人が一番」などと思っている人間には、1日で疲れが出てしまいそうである。 <<<会社を背負っているときは「誠実」を心がけた。 (中略) 会社生活最後に近い数年は、過去の経験と知識を生かして会社と業界のお役に立つ仕事をして少しはお返しが出来たと自負している。>>> と述べておられるが、そのような心構えがあったからこそできたのであろうと感じ入っている。 

そして「一山の歩み」その60のアメリカ旅行の途中で胃の痛みに襲われ、その後の診断で悪性腫瘍との宣告を受けながらも、その61のタイ旅行を強行されたのは執念としか言いようがない。 STさんの強烈な精神力と信念を強く感じる。 

STさんの座右の銘は <<<「人生に挫折があっても絶望は無い」>>> である。


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