私が6歳から7歳(1944年から45年)にかけての話である。 父の勤めの関係で、私たち家族は長野県・木曽御嶽の麓の村に住んでいた。 社宅が完成するまでの間、地元の民家に間借りをしていた。 家主は御嶽参りの客を相手に百草丸を売る薬屋を営んでおり、50歳前後と思われたが独身であった。 店舗と一階を家主が使用し、臨時に増築した一階の居間・台所・浴室と、南に面した2階の2間を私たちが借りていた。 村には幾つかの集落があり、木っ端葺きの石置き屋根の農家が点在していた。 殆どの農家は、山間の僅かな田畑で作物を栽培する傍ら養蚕業を営んでいた。 夏になると白装束を身にまとい金剛杖をついた御嶽参りの行者の列が、鈴を鳴らし「六根清浄、散華散華」と唱えながら毎日家の前を通って行った。 そこは長野県三岳村・御嶽山黒澤登山口の2合目である。 この静かな寒村に「御岳水力発電所」(注1)の建設工事が始まったのは、1942年(昭和17年)のことであった。 この工事は当時の軍需省から「戦力増強工事」に指定され、国策会社の日本発送電株式会社(略して日発)が大手建設会社3社に発注して進められていた。 工事開始後間もなく、建設会社の一つに勤めていた父と共に、私たち家族もこの村に移り住むことになった。 村の人々は私たちをよそ者扱いせず暖かく迎え入れてくれた。 食料事情の悪化は農村にも及び配給も少なくなり、母は近隣の農家を回って、若い頃の着物と交換に米や野菜・卵などを分けてもらった。 技術者であった父は招集を免れ、家族4人が一緒に暮らせたので、このようなその日暮らしの生活ではあったが、母も後々までここでの生活を懐かしんでいた。 1944年(昭和19年・終戦の年前・私が6歳)のある日、父が中国人(注2)2人を家に連れて来た。 「今日から薪割り・水汲みなどを手伝ってくれる人たちだ」と母に紹介した。 家には手動ポンプの付いた井戸が戸外にあり、飲料・炊事・風呂に使う水はすべてこの井戸から母が汲んでいた。 燃料用の薪は、林業を営んでいる人から間伐材を分けてもらい、1メートルほどの長さの原木をストーブや風呂釜で焚ける大きさに、鋸で挽き斧で割らねばならなかった。 これは父の仕事であった。 それから毎日1人か2人の中国人が家に来て、朝から夕刻まで母の手伝いをする日が続いた。 昼食用にマントウ(注3)と呼ばれる小さなパンを2個持ってきており、ある日私がそれを強請ると一つを分けてくれた。 母はそれを見て「あの人達は1日中お仕事をするのに、お昼ご飯はマントウ2つだけなの。 どうしてそれを欲しがるの!」と私を強く叱った。 母は毎日ありあわせの芋や野菜で雑炊を作り昼食を振舞った。 又、9月を過ぎると戸外は寒くなるため、庭で焚き火をして作業の合間にお茶を出し、焼き芋や焼き栗をご馳走した。 1ヶ月ほど経った頃には、手伝いに来る人の顔ぶれが2人ほどに絞られてきた。 父は彼らのことを「中国人の捕虜(注4)で、隊長が推奨した将校クラスの信頼できる人達だから、安心して何でも頼むように」と母に説明していた。 水力発電の工事は大まかに言って、川を堰き止めるダム工事、発電所の真上にある貯水池までダムの水をほぼ水平に導くための隧道(トンネル)工事、貯水池から発電所までのほぼ垂直の圧力配管工事、発電所本体建屋と水車と発電機の据付工事などからなる。 父はダムから貯水池までの隧道工事の現場監督をしていた。 まだ若く、中国人の捕虜たちを自由に使う立場にはなかったと思われるので、何故彼らが私たち個人宅の手伝いに来ることになったのか、父母が他界した今となっては聞く術も無い。(注5) これは私の推測であるが、当時村の中の比較的便利な場所に社宅は既に完成していたが、私たちの家族だけ入居が遅れていたため、いつまでも不便な生活を強いられていることに対する父の上司の心配りであったと思う。 工事開始直後に赴任していたので、社宅完成後真っ先に入居できる権利があったにもかかわらず、自分のこととなると父は全く無頓着であった。 そして母もまた、この山奥での生活が気に入っていたのか、そのことに関する愚痴を聞いたことがない。 私たちの家よりも更に高地に、土木工事用の火薬庫があった。 大勢の中国人捕虜たちが大きな箱を担いで、掛け声をかけながら家の前の道を運搬して行くのを窓から眺めていたのを覚えている。 父の話によれば、石材・セメント・機械類等の重量物やダイナマイトなど危険物の運搬が主な仕事であったという。 これは私が少年になった頃父から聞いた話である。 あるとき工事現場で、16・7歳の中国人の持ち物から縫い針が発見されたという。 持ち物検査をした日本人がこれを指摘し、「日本人の目を突くために盗んだのだろう」とこの少年に100叩きの罰を与えた。 少年は「破れた衣類をセメント袋の糸で繕うために持っていた」と答えたが、「セメント袋の糸であろうと、帝国の貴重な財産である」として制裁を実行した。 少年を戸板の上に俯けに寝かせて、背中を青竹で100回打つのだそうだ。 このような場合打ち手は日本人ではなく、必ず同胞の中国人を使って打たせる。 打つ方も打たれる方も悲しい。 「もっと強く打て!」と笑いながら大勢が見ている中で、少年は悲鳴をあげながらこの制裁に耐えた。 紫色に腫上がった少年の皮膚からは血が滲み辺りに飛び散った。 父は見るに見かねて「もうこの位で止めにしてやってくれ!」と日本人の検査官に懇願した。 父のあまりの熱心さに、この検査官も「50回でよし!」と途中で打ち切った。 父は又、捕虜たちの食料や入浴回数などの待遇を改善するために奔走したらしい。 それまで父は、このような積極的な行動を自ら取るような人ではなかったと、後に母から聞いた。 父の行動を警察が察知し、特高警察から呼び出され取調べを受けた。 取調べの後も父の行動は変わらなかったようで、2回目の呼び出しがあった。 「今回は帰って来ないかもしれない」と母は相当心配したようであるが、父は反戦運動や国家批判をしようとしたわけではなく、単に「捕虜も人間ではないか」という単純な理由による行動であり、「悪条件下であまり酷使すると、工事の日程に影響を及ぼすことになる」という理由付けのための説明が通り、その日のうちに父は帰された。(注6) 父母は何れも吉川英治の三国志の愛読者で、6歳の私にも分かり易く面白い話をしてくれたので、断片的な内容の一部と劉備玄徳・諸葛亮孔明・張飛・関羽・曹操などの登場人物の名前を今も記憶している。 多分講談社の初版本を読んでいたと思われるが、母は読み終えた本やその他使わなくなったものは何でも直ちに処分する性格の女性であったので、その本も家には残っていない。 その反動で私は何も捨てられない性格の人間になってしまった。 工事用に使われていた“日本語・中国語対照訳”(注7)の小冊子を父は母に渡しており、片言と筆談で母は手伝いに来る中国人捕虜と話をしたようである。 一人は歴史にも詳しく、三国志については正史と演義の区別も理解しており、達筆で教養のある人だったと後に母は語っていた。 “日本語・中国語対照訳”にはカタカナでルビが振ってあり私にも読めた。 片言を話すと通じるのが面白くて、彼らに話しかけて遊んだ。 元々工事用に編集されたもので、中には命令形で子供が使うには不適切な言葉が多く含まれていたため、母はそれらの言葉に印をつけて私に使用を禁じた。 やがて冬が来て1945年(昭和20年・終戦の年)の正月になった。 休日など全く無かった彼らも、正月だけは休みになったようである。 多分働かせる側の日本人が全員休みだったからであろう。 いつも来ていた張さんと劉さんの2人が揃って新年の挨拶に来た。(注8) 「すぐに帰っても宿舎は寒いだけだから」と庭に焚き火をしてゆっくり休んでいくように母が言った。 水汲みを始めようとしたが、「炊事用は貯め置きがあるから今日は火に当たるだけ」と制止し、彼らもそれに従った。 その日は僅かながら米の入った雑炊を鍋に入れ焚き火に架けた。 正月用として会社から配給された日本酒が1本家にあったが、両親とも酒は全く飲まなかった。 蓋付きの陶器製のコップに酒を入れ、「雑炊が煮えたら召し上がれ」と言って母は家に入り、2人の様子を窓から覗いて見ていた。 その時のことを後日私に話してくれた。 先ず雑炊の煮え具合を見るため蓋を取り、米が入っているのに驚いた様子を示した。 次に杓文字で雑炊を丼に盛り、ふうふう言いながら1口・2口熱そうに食べた後、1人がコップの蓋を取り不思議そうな顔をした。 普段はお茶なので、今日のお茶には色がついていないと思ったのであろう。 次に匂いを嗅いで酒であることに気付き、二人は嬉しそうに顔を見合わせ、膝や肩を叩き合い大げさな身振りで喜んだので、覗き見をしていた母も笑いが止まらないほどだったという。 春になり4月には、私は国民学校初等科(現在の小学校)に入学した。 学校は御嶽の1合目にあり、2合目にある私の家から約1里(4キロメートル)を徒歩で通うことになった。 上級生たちと一緒に約1時間かけて通学するのは私には苦痛ではなく、むしろ楽しみであった。 B29(アメリカの爆撃機)が時折上空に飛来することがあったが、無人に近い山中を爆撃する気配はなかった。 それでも父母は心配だったのであろう。 遅れていた社宅への入居が最後になって決まり、6月に移転することになった。 父より後に赴任した20軒ほどは既に入居済みで、一番外れの崖の上にある、地震があれば崩れてしまいそうな家が私たち家族の新居となった。 しかし窓からの見晴らしは素晴らしく、近くを流れる木曽川の流れの音や、対岸の山に住むカッコウやふくろうの鳴き声が聞こえた。 裏の傾斜地に自生したむくろじゅ(実は石鹸の代用になった)と栗とあけびの木があり、我が家専用に利用することができた。 やがて終戦の日(1945年8月15日)がやってきた。 疎開で同居していた母方の祖母とその連れ合いが持参したラジオがあった。 「天皇陛下御自らお言葉を述べられる」と事前に知らされており、家族全員がラジオの前に集まり正座して待った。 暑い夏の日で、裏の栗の木から聞こえる蝉の声が騒がしかった。 放送が終わり「これで戦争は終わったのね」と母は父に言った。 父も頷きながら「日本は負けたんだ」と呟いた。 祖母は涙を流していた。 それからしばらく経ったある日、既に開放されていた中国人たちが父の勤める現場事務所にやって来た。 彼らを虐待した多くの日本人は、仕返しを恐れて既に姿をくらましていた。 逃げ遅れた何名かは、1日か2日倉庫に監禁されたらしい。 隊長と数人の中国人が事務所に居た日本人全員を整列させ、端から順に恨みを抱く者の前に来ると拳で殴った。 彼らの同僚や部下たちは日本人に毎日のように殴られたが、お返しは1発だけであったそうだ。 父の順番が回ってきて、殴られるのを覚悟して眼鏡を外した。 すると隊長が父に駆け寄り、「オオ、マツシタサン」と呼び両手で父の手を握り締めたという。 父は周囲の同僚に対して決まりが悪く、「俺も殴られた方が良かったよ」と後に私に言った。 数日後父は1通の手紙を受け取った。 張さんからだった。 50センチほどの長さの半紙に達筆の墨で書かれており、父母が漢字の意味を相談しながら読んでいたのを覚えている。 その内容の7・8割は理解できたと、後に母は私に話してくれた。 世話になったお礼と日本での生活の苦しさと、これから母国に帰る喜びが書かれていたという。 その後父は現場勤めを止めて、現場事務所での工務事務(主に工事見積りなど)の仕事に移った。 工事現場で命の危険を感じた出来事が2回あったのが、会社に業務変更依頼をしたきっかけとなった。 事故に遭って亡くなった同僚の残された家族の悲惨さを痛感したのもその理由だったと私に話したことがある。 それ以来父は以前にも増して会社や上司に対して自分の主張をすることはなくなり、55歳の定年まで工事現場を転々としてサラリーマン生活を終えた。 現在の日本においてすら、地域・会社を問わず体制・権力或いは多数に逆らって自らの意見を述べたり行動したりするためには、それによって蒙る不利益や危害に対して相当な勇気と覚悟が必要である。 これは日本の民主主義がまだ発展途上であることに他ならないのであるが、ましてや戦時中の国家権力絶対の時代に、警察や周囲に逆らって自らの意思を貫いた父の行動に改めて感心する。 一方、帰国した中国人たちの多くは、その後決して幸せな生活を送ったわけではないことが各種文献から分かってきた。 文化大革命では、日本に強制連行された多くの人々が日本のスパイとして糾弾され、母国においてもリンチを受け、職にも就けずに苦しく悲惨な生活を送ったようである。 戦争という国家による大量略奪と大量殺戮は全く罰せられず、常に苦しみを受け、罰を肩代わりするのは国民である。 ここに記したことは私がまだ6・7歳の頃の出来事であるため、一部は自らの記憶に鮮明に残っているが、その多くは後に父母から聞いた話を基にしている。 従って、できる限り資料や文献を調ベ、また友人の話を聞いて客観的な裏付けを取ることに努めたつもりである。 それでも尚、内容の一部に間違いがある可能性を完全に否定できないことについてはご容赦願いたい。 注1. 発電所の正式名称は「御岳水力発電所」で、「御嶽水力発電所」ではない。 注2. 当時は支那人と呼んだがここでは中国人と呼ぶ。 注3. 小麦粉を使った本来のマントウ(蒸しパンの一種)ではなく、小麦を挽くときにできる皮の屑が主成分の「ふすま」を原料としたもの。 中国人強制連行長野訴訟準備書面(平成9年(ワ)第352号)によれば、『食事は、3×7×3cm程度のマントウが一食に3個出るだけであり、それだけで1日12時間から14時間の土石運搬作業を行っていた。』とある。 注4. 中国人強制連行長野訴訟準備書面(平成9年(ワ)第352号)によれば、『一般の中国人を強制的に狩り出す方法(「行政供出」という)によって集められたものが最も多く、日本軍によって捕らえられた中国軍捕虜も少なくなかった。』又、『この事業所には1944年5月から10月にかけて699名が送り込まれ、終戦までにそのうち103名が死亡した。』とある。 これらの犠牲者を慰霊する目的で、日中平和友好条約25周年を機に、長野県木曽郡三岳村(現・木曽町)大島橋脇に殉難中国人慰霊碑が建立された。 2003年9月27日に、長野県日中友好協会主催・三岳村長・王滝村長・中華人民共和国駐日本国大使館二等書記官・他出席の下、慰霊祭が執り行われた。 注5. 捕虜を個人宅に派遣するなどということは常識では考えられないが、当時としては「信頼できる人間であれば問題ない」と言う程度の判断であったと思われる。 中国人強制連行殉難者慰霊祭(長野県日中友好協会主催・2003年9月27日開催)資料によれば、発電所建設に動員された県内の旧制中学生であったKさんとAさんが手記を載せており、強制連行された中国人たちと日本人学生との間に人間同士のひと時のふれあいがあったことがうかがえる。 注6. 中国人強制連行長野訴訟準備書面(平成9年(ワ)第352号)によれば、『この事業場では、3回大きな事件が起きている。 まず、昭和19年6月3日に3名が脱走した。 昭和20年3月26日には、数10名が食糧倉庫を襲撃して逮捕され、長野刑務所に収監された。 その直後、3月28日から4月2日にかけて、11名が建設中の発電所の導水管4・5本を爆破して検挙された。 いわゆる木曾谷事件である。 このように、中国人によって次々に事件が起こされたのは、この事業場が警察官による逃亡防止のための取り締まりが極めて厳重であり、特高1名・警察官6名が常駐して、配給や入浴に至るまで取り締まり、心情や健康衛生をまったく無視して入浴禁止にするなどあまりにひどかったためである。』とある。 注7. 当時は「日本語・支那語対照訳」 注8. 彼らは私たちの家に手伝いに来るときも、日本人の付き添い無しにやって来た。 特定の中国人には、単独での外出許可が出されていたものと思われる。 |