2006年12月23日 私の家の玄関を入ると左手に1枚の風景画が架かっている。 中央に新雪で覆われた険しい岩山がそびえ、左手には枝がしなった針葉樹林が、右手には広葉樹の森が広がっており、山裾から清流が幾つかの小さな滝を下って中央手前に向かって流れている。 季節は秋で広葉樹の落葉は近いと思われる。 絵の大きさは横約90cm縦約60cm(30号)で、私の手作りの額に入っている。 1977年はルーマニア・東ドイツ(当時)・ユーゴスラビア(当時)の仕事をしており、出張の帰りに幾度かパリに立ち寄った。 当時東欧からの航空便は日本への帰国便との接続が悪く、パリなど羽田行きの便が出ている西欧の町に1泊する必要があった。 乗り継ぎ便と同じ航空会社を利用することを条件に交渉すると、ホテルの宿泊料と食費など1日分の滞在費を航空会社が負担してくれることが多かった。 ホテル・コンコルド・ラ・ファイイェもエールフランスが手配してくれたホテルだった。 シャンゼリゼ大通りを凱旋門から西に1kmほど行くと、環状高速道路の近くにそのホテルはある。 メトロ(地下鉄)の駅にも近く、空港からのシャトルバスもホテルの前に停車するのでよく利用した。 このホテルの地下に小さな画廊があり、100点ほどの絵画が壁や床に雑然と並べられていた。 訪れる度に立ち寄ったので店長とも顔なじみになった。 当時勤めていた会社の本社のKYさんとは、彼が営業で私が技術を担当する立場で一緒に出張する機会が多かった。 今回は記念に油絵を1枚買って帰ろうということになり、その時選んだのがこの絵である。 この絵が最も気に入ったというわけではなく他に欲しい絵があったが、その絵は額付きでないと売らないとのことだったので2番目に選んだのがこの絵だった。 1番気に入った絵は、アルプスの麓に牧草で覆われた小高い丘があり、その中腹に丸太造りの小さな家があって、村からその家だけに通じる細い道が続いていた。 ちょうど夕暮れ時で煙突からは煙が立ち昇っており、暖かな家族の団欒の様子を思い浮かべたくなるような絵だった。 店主と交渉したが、絵だけ売ることはどうしてもできないと言うのでその絵は諦めた。 ヨーロッパアルプスの山々は麓の村や牧草地から真近に望むことができ住民と一体感があるが、私が選んだこの山の絵には人の気配は全く感じられずヒマラヤのように人里から遠く離れたところにある高山ではないかという思いがあったが、店主もどこの山かは分からないと言った。 山の形が左右対称でしかも画面の中央に配置されていることに若干の違和感を覚えたが、この絵に決めて額から外し筒に入れ梱包してもらった。 一方KYさんはユトリロのパリの町並みを思わせる、額縁付きの機内持ち込み可能な手頃なサイズの油絵を選んだ。 帰国後私より幾分かは絵を見る才能に勝る妻に見せると、一見して「この絵は山の形が整い過ぎていて、構図もあまり良くないのではないかしら。」と言った。 これは購入時私も若干躊躇したところであった。 画材店を巡りこの絵に合った額縁を探したが、適当なものが見当たらなかったため自作することにした。 板を張りあわせ表面にペーパーをかけ、砥粉を塗り金色の塗料で仕上げた。 20年以上も我が家の居間に架けてあったが、どこの山かということについてはすっかり忘れてしまっていた。 1993年からパキスタンの仕事を始め、ポリプロピレン原料から包装用フィルムを作るプラントの契約をした。 プラントサイトは首都イスラマバードから西に45kmほどの、北西辺境省(North West Frontier Prefecture)のハッタールにある。 イスラマバードからの道はアフガニスタンに通じる幹線道路でペシャワールまで約100km、更にその先に国境のカイバル峠がある。 当時のアフガニスタンはまだアメリカによる空爆前であったが、プラントの周辺にもアフガニスタンからの難民キャンプが見られた。 この近辺にはパキスタンの主要な軍需工場があり、フェンスで外部と遮断されたテリトリーの中には、メインの軍需工場の他に幹部の住居や商店・診療所・ホテル等が設置されており、周辺には大型工作機械を備えた部品加工工場が幾つか建設されていた。 プラントサイトを訪問するときは、常に顧客の本社があるイスラマバードのホテルに宿泊しそこから車で工場に移動することにしていたが、1999年の訪問時は工場での仕事が多かったため、顧客に依頼して工場の近くのホテルを予約してもらった。 それがこのテリトリーの中にあるPOFホテルであった。 早速フロントのひげの紳士に「この山はもしかしてK2?」と聞くと「そうだ」と言う。 これまでヒマラヤのどこかの山とは思ったことはあったが、K2と思ったことは一度もなかった。 不思議な巡りあわせに驚いたり喜んだりし、22年前に100枚の中からこの絵を選んだことと、22年後にここに来ることになったことに何か宿命のようなものを感じた。 そして今パキスタンは私にとって身近な国となり、地震やテロのニュースがあると友人たちのことを気遣って見舞いのメールを送り、又一方では私が体調を崩したことを伝えると「お前のために今日神に祈った。」というメールが届く。 |